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迷いはゼロ。とにかく日本を出る。

僕は17歳で日本を出て、18歳からイタリアに住み始めたのだが「なぜイタリアなの?」と聞かれることが多いので今回はなぜイタリアに行くことになったのか?ということとその経緯について少年時代から遡って詳しく書こうと思う。


純粋なサッカー少年

僕は父親と兄の影響で5歳くらいから本格的にサッカーを始め、当時は恵まれた体格と悪くはない運動神経でそれなりのレベルでプレーをしていた。
各世代の選抜やトレセンでは常連選手で小学6年生の秋頃には大阪にあるJクラブ2チームの両下部組織から声がかかった。そして僕は父親の影響で幼い頃からの憧れであったGの方に所属することを一瞬の迷いなく選んだのだ。


イカれる前の中学時代

Gの方に所属することを決め、無事入団することが出来たのだが周りとの圧倒的なレベルの差に当時は完全に飲み込まれてしまったのだ。そんな中、13歳の時に両膝内側靭帯と半月板の損傷を負い約1年を棒に振ることになったのだ。一時期は本当にサッカーを辞めようか真剣に迷ったこともあったのだがある事がきっかけで心に火が点いた。だがその火は当時の僕を狂気的にさせてしまったのだ。

「結果さえ出せばこの1年は無駄にならない。だから目に見える結果しか必要ない。俺さえ良ければそれでいい。点を獲る為なら手段は選ばない。味方も全員蹴散らす」

こんな感じのことを朝起きてから夜寝るまでの間、まるで何かに取り憑かれた人のようにブツブツブツブツ呟いていた。
そして何を思ったのか「俺は高校に行かずにイタリアに行く」と決意。それと同時に当時のイタリア代表でユベントスの10番をつけていた英雄がデル・ピエロといつか出会えた時にイタリア語で話したいという想いから独学でイタリア語を必死に勉強し始めた。
僕は勉強の要領がよかったため授業をサボってもテストではある程度点が取れることを分かっていたので授業はそっちのけでイタリア語の勉強をしていたし学校の行き帰り、通院時間、夜寝る前ととにかく猛勉強した。イタリア語の本もたくさん買った。とにかく時間を見つけてはイタリア語の勉強という毎日を過ごしていた。思春期ということもあり当時は尖りまくっていた為、学校では一匹狼状態、チームでは「ヤバい」奴状態になっていたのだが、僕のキャラもあり馬鹿にされる事はなかったのだが大人に鼻で笑われたことだけは今でも忘れない。そしてこの大人に鼻で笑われたことが取り憑かれた中学生を覚醒させたのだ。


規格外の暴走。イカれた中学生

長い怪我から遂に復帰することが出来た中学生は完全に狂気の沙汰であった。

「俺さえ良ければそれでいい」

怪我のストレスと大人に笑われた悔しさが当時の僕を完全に暴走させた。
自分が点を獲る為に味方のボールを奪う、パスをしない味方に暴力を振るう。
もう意味がわからない。
試合はまさに11対10対1形式でユニフォームの下には勉強したイタリア語で書いた侮辱シャツを着ていた。この侮辱シャツは笑った大人(指導者)への憎しみが込められておりゴールを決めるたびにユニフォームをめくり上げて見せ付けながら本当に正しいのかもわからないイタリア語を叫んでいた。マジで「ヤバい」奴だ。
気に食わない練習メニューの日はボイコットし、挙げ句の果てにはその練習を抜け自主トレーニングをその練習の横でしていた。
監督には何かあるたびに盾突き、問題児として当時の強化部長からは徹底マークを受け、挙句の果てには「ユニフォームを今すぐ脱いでここから去れ」と言われた程だった。
今考えると全く規格外のイカれ方をした中学生だった。
そんなイカれた中学生の息子を持った親にはさぞ心配をかけただろう。挙げ句の果てには「高校なんか行かずにイタリアに行く」なんて言い出すのだからそれはもう大変だ。
唯一、良かったことはグレることがなくやんちゃもしなかったことかもしれない。
ただサッカーの事となると全てのネジを失い、周りの声を一切受け付けない選手だったため全指導者の手を焼かせたと思う。イタリア人でもないのにネットで覚えたイタリア語のスラングをいきなり言い出すのだからバケモノだ。

とにかく中学時代は規格外のイカれ方をしていた。


イカれ方が変わった高校時代

親から「高校にだけは行ってくれ」とうっすらではあるが懇願され、仕方なく高校を選んだ覚えがある。
そこで「石川県のS校であれば全校国大会にも出れるしそこでいいや」とノリで決めて練習参加をしに行ったのだがそこで当時Aチームでプレーしていた選手からの指示が気に食わず暴言を吐き、監督から「結構です」と言われた。
仕方なく大阪へ帰ったのだが問題が当時のS校の監督に「こんなとこにはお願いされても入りません」という捨て台詞を吐いたことだった。それが当時のGの監督に伝えられ「お前は一体何をしに行ったんだ!チームの恥だ!」とキツく叱られ、坊主にもさせられた。
サッカーのことになるとどうしようもない中学生は初めて少しだけ反省するのだがもはやそんな選手を特待生として受け入れてくれるような高校などあるはずもなくかなり落ち込んだのだが大阪のとある強豪校が特待生として迎え入れてくれ無事高校進学することができたのだ。
そして入学から周りに敵を作りまくった。
理由は単純でイカれたまま入学したからだ。
チームの方針はスペイン・FCバルセロナのようなポゼッションサッカー。
イカれた新入生は「俺はイタリア式でいい」と訳のわからないエゴでその方針に従うことがなかった為、チームプレーが出来なかった。
ただゴールを量産することで何も言わせなかったのだがチームメイトと仲良くなるまでにはかなりの時間を要し、当時の先生には迷惑をかけた。


こんな日常から抜け出したい

そんな中、毎日ある思いと葛藤を続けていた。

「こんなどこに行っても息苦しい日常から抜け出したい。1日でも早くイタリアに行く」

イタリアへ渡ると何かが変わるなんていう確証などどこにもないのにも関わらずそんなことで毎日頭を痛ませていた。そして「イタリアへ行く」という思いが日々強くなっていき、ついに17歳の時に念願のイタリアサッカー留学を認めてもらうことができた。
単身でイタリアに渡ったのはいいのだが高校には内緒でチームのトライアウトを受け契約書にサインをして日本へ帰国した。
帰国をすると同時に監督に「チームと契約したので学校辞めます」と言ったのだが
その時にに半端じゃないほど叱っていただいたことを今でも忘れない。特待生が勝手に海外のチームと契約をして学校をやめるなんて全く前代未聞の学生だった。
だが本当に恵まれた環境と周りの大人の協力で18歳になってすぐの夏にイタリアへ単身留学をした。


留学後

異国で現地の人たちと現地の言葉で会話をし、現地の食事をし、毎日異文化に触れると人の感性や感覚、考え方などが見違えるほど変わります。
サッカーで留学をした僕は素晴らしい成績をイタリアで収めることは出来なかったものの本当の自分の居るべき場所を見つけることが出来、今日に至るまでイタリアでの生活をしています。

現在の僕のお仕事は企業仲介・逐次通訳業です。
日本企業様とイタリア企業様の間を繋ぐお仕事です。
お互いの文化や考え方の違いを理解していなければ務まらない仕事にもの凄くやり甲斐を感じています。
もちろん、そこにイタリア語の能力が伴っていることなど当たり前のポイントです。僕は少しでもイタリア人にストレスを与えないために今でも毎日イタリア語の勉強を欠かしません。
分からない単語や専門用語があればその言葉の髄を理解するまでとことん勉強します。
その小さな積み重ねが自分をさらなるプロフェショナルへと導いてくれるのだと信じています。


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