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つながる琳派スピリット 神坂雪佳:2 /パナソニック汐留美術館

承前

 展示室に入ってすぐに、細見美術館の琳派の名品がずらり。
 光悦、宗達、光琳、乾山、始興、芦舟、芳中、抱一、其一……と、琳派の系譜がまんべんなく網羅されている。雪佳との親和性が高そうな芳中、抱一、其一あたりは、やや多めのチョイスとなっていた。
 ほぼ軸物であったが、軸物の展示ケースは薄手のタイプで、作品との距離がすこぶる近い。ガラス1枚隔てて、ほとんど熟覧のような状態である。
 そんなこともあって、もはやこの最初のセクションだけで「ああ、来てよかった」と思ってしまい、あやうく、なんの展示にやってきたのか忘れかけたのだった。

 それくらい満足度が高かったわけだが、本展にかぎっては、彼ら豪華メンバーは雪佳の露払いにすぎない。
 ますば近世の琳派作品を、来館者の目に焼きつける。そうすることで、後に控える雪佳との共通点・相違点を把握しやすくする……という、とても親切な展示手法といえる。
 が、わたしとしては同時に「むずかしい課題を投げかけられたな」という受け止めをしてしまう面もあるのだ。

 近世の琳派と雪佳とでは、明確に同じといえる要素もあれば、違うともいえる要素もある。この「感じ」をうまく言葉で表せないじれったさを、もちつづけている。鑑賞後のいまも同じだ。
 「モダーン」とでもいっておけば、やり過ごせるのだろう。けれども、これほど実体のつかめない形容もない。
 Modernの意味のひとつに「近代」があるが、近代日本画とも距離を置き、洋行すらしておきながら西洋美術からインパクトを受けることもなかった雪佳のありようはむしろ前近代的であり、いささか逆説的な意味で名実ともに「琳派の継承者」ということは、できるのかもしれない……

 ただ、古典の単純な「模倣」や「劣化」に終始せず、新味の創出に成功したとはいえそうだ。
 雪佳という作家は、常にその瀬戸際にいる。ぎりぎりのタイトロープを渡りながら、しかし、塀の外にはなかなか落ちない。そんなイメージだ。
 先行作品をよく咀嚼し、血肉と化する。そこにみずからの創意と感性を盛りこむ。そのようにして、伝統と個性とがじゅうぶんにミックスされた仕事ができて、はじめて「継承」といえよう。雪佳は、それを体現した作家だった。

 雪佳の八橋の屏風を観ていると、古典作品の、角(かど)をとって丸くする、時に大胆に、単純化・一般化したイメージに転換する――そういった造形性があると思えてきた。
 「あれ、これは誰かに似ているな」と思ったら……北大路魯山人の陶器だ。
 魯山人は、桃山の美濃・備前、古染付・南京赤絵などの茶陶を、よく写した。
 雪佳も魯山人も、古典を再解釈し、その時代に合わせてリファインした作家であった。
 魯山人も京都の人。千年の歴史を背負いながら、新しもの好きの一面をあわせもつ京都という土地柄を、彼らの作品像に重ねて見てしまうのは、やりすぎというものだろうか。案外、遠からずな気がしてならない……

 ※本展の出品作品については、細見美術館のページのほうが豊富に写真が出ている



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