型とレプリカ 美術と複製の話 :1
北大路魯山人の作に、中世の古信楽壺を石膏型にとり、自作の原型としたものがあるという話をした。次のページに、もとになった古信楽と魯山人の壺の画像が掲載されている。
記事中にもあるように、見ようによっては “禁じ手” といえそうな行為であるが、ひとつの表現手段として捉えた場合、そう批判されるべきでもないかもしれない。
現に、「型をとる」以降の段階では魯山人の創意が大きく加えられ、古信楽を感じさせない異物が生まれ得ているではないか。
それに、既存のモノを型でとって複製し、異なるイメージを付加・転換させる手法は、現代美術においては珍しくない常套手段。魯山人の試みは、いささか時代が早すぎたともいえよう。
もっとも、魯山人のケースで決定的に異なるのは、型をとったのが先行する「作品」であるという点だろう。大胆というか、不遜というか。だが、剽窃とは断じがたい……
ともあれ、どちらにしてもあくまで創作物であり、ひとつの作品として、ある一定のコンセプトを実現すべく「型どり」が採用されたケースではある。
そうではなく、参考のため、代替として既存の作品・資料が型どりされることもある。
博物館の常設展示、とくに考古遺物のコーナーでは、そのようなレプリカを頻繁に見かける。保存や防犯、防災などの面でさまざまなメリットがあるが、似せてつくられたものだということは、素材や造形から容易に判断できる。
レプリカの完品より、ホンモノの作行きの落ちる残欠のほうが、感ずるものも学びも大きいのが本当のところではあろう。
だが、展示には文脈というものがあり、その1ピースを嵌め、全体としてより深い理解を促せる手段と考えれば、レプリカはやはり必要な存在なのである。
展示という視覚上の体験を目的としたレプリカもあれば、手で触れる触覚上の体験のために生み出されたレプリカもある。
触れなければ、手にとらなければ、ほんとうの魅力はわからない……その最たるものが、茶の湯の碗であろう。
「茶を点てて喫してみなければ」というさらにハードルの高い前提条件はさておくとして、ふだん実際に手にとっている学芸員の方々は、そこまでの体験を鑑賞者に提供できないもどかしさを持ちつづけておられることだろう。
そういった思いから、触る・喫することのできる体験イベントが組まれる機会もなくはないけれど、名品クラスとなるとそうもいかない。
近年、VRや3Dプリンタといった技術を用いて、そういったモノと鑑賞者との距離を少しでも縮めようという取り組みが散見される。
福岡市美術館では、所蔵品の長次郎《黒楽茶碗 銘「次郎坊」》の精巧なレプリカを作成した。
3Dプリンタによる成形を基本として、陶磁器修復の職人による仕上げを加え、さらに重さまでぴったり調整されているという。
長次郎特有の、かせた肌の風合いも出ているだろうか。ぜひ一度、触れて確かめてみたいものだ(できれば、実物と突き合わせて)。
京都と東京の国立近代美術館で開催された「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」(2017年)。
会場外・撮影コーナーでは、同じく長次郎の《黒樂茶碗 銘「万代屋黒」》の3Dプリントによるレプリカが出ており、わたしも実際に触れた。
こちらのレプリカ、材質はなんとアルミの合金。陶器の材質とアルミの比重は近いというが、200グラムも重たい。
再現はサイズ感のみといえようが、そもそもサイズ感と重量感には密接な関係があるし、茶碗でいう「手取り」の考え方でいえば、さらに乖離が生じることになる。外見もメタリックそのもの。
レプリカとしての出来は、福岡市美術館に軍配を上げざるをえない。
しかし、レプリカでは到底追いつけない、満たされないという生(なま)の実感を得ることによって、ガラスケースの向こうにあるホンモノを見つめる目がさらに熱いものとなり、より積極的で豊かな思索を促す側面があるのも、また真実といえようか。
少なくとも、このときのわたしの場合は、そうであったように思う。(つづく)
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