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生誕140年記念 北大路魯山人 -高級料亭「星岡茶寮」を訪ねて-:1 /鎌倉・吉兆庵美術館

 老舗和菓子店「宗家 源吉兆庵」は、鎌倉と岡山にふたつの本店を構えており、そのどちらにも「吉兆庵美術館」を併設している。主な収蔵品は備前焼、宮川香山、そして北大路魯山人の作品。
 鎌倉・小町通りでの今回の魯山人展では、少し趣向を変えて、魯山人が経営し総合的にプロデュースした会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」にスポットを当てている。
 うつわへの料理の盛り付け例も加わると聞いて興味をもち、訪ねた。

本展のリーフレット

 魯山人といえば星岡茶寮、その逆もまた然りで、さまざまな記述でも「魯山人が星岡茶寮を開いた」といった書き方になっているが、星岡茶寮の創立自体は明治14年(1881)にまでさかのぼる。魯山人は大正14年(1925)に、経営不振のところを引き受けたにすぎない。
 ただし、星岡茶寮の名を高めたのは魯山人その人に違いない。料理、うつわ、調度、制服、作法まで、なにからなにまでが魯山人の徹底的なプロデュースによって成り立っていた。
 最高の鮎料理を提供するため、丹波の和知川(現在の京都府京丹波町)から貨物列車に生け簀を載せて取り寄せたエピソードをはじめ、伝説・逸話の類には事欠かない。

 星岡茶寮は、溜池山王・日枝神社の旧境内地にあった。敷地は547坪。場所柄もあって政財界の要人がこぞって利用し、「星岡の会員にあらずんば日本の名士にあらず」とまでいわれたという。
 それにしても、強烈なコピーだ。出典が明記されておらず、いつの時期かは不明だけれども……この強い表現。魯山人自身の言だろうか。
 いうまでもなく「平家」をもじった文言であるが、その後の魯山人は平家よろしく、凋落の末路をたどることとなる。
 やりたい放題だった魯山人は周囲の反感を買い、しだいに追い詰められ、昭和11年(1936)、ついに星岡茶寮を追われてしまうのだ。

 本展では、十余年だけ存在した「魯山人の星岡茶寮」を、うつわと料理、また当時の資料によってよみがえらせようというもの。
 正確には、うつわに関しては後年のものも含んでいるし、うつわに盛り付けられた料理は、性質上どうしても食品サンプル。写真パネルで補足される形とはなる。
 しかし、資料や写真によって脈絡づけられることで高級料亭のおおよその雰囲気が伝わり、「訪ねた」感の一端は味わえたのであった。(つづく

宗家 源吉兆庵の商品パンフ。所蔵品の魯山人のうつわが、ここでも存分に活用されている
溜池山王の日枝神社。右手の大きなビルのあたりに、星岡茶寮があった


 ※骨董の世界でよく知られる秦秀雄は、星岡茶寮に支配人として籍を置き、のち魯山人と仲違いして茶寮を追われた。このエピソードは、井伏鱒二の小説『珍品堂主人』にそのまま使われている。
 豊田四郎監督の映画版(秦秀雄=森繁久彌)では、どのように描かれているか。近々、神保町シアターでの上映で確かめようと思っている。


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