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柳宗悦の心と眼 ―日本民藝館所蔵 朝鮮関連資料をめぐって― /韓国文化院ギャラリーMI

 先月14日から今月1日までの2週間あまり、四谷三丁目の韓国文化院で催されていた展示である。
 韓国文化院は日韓の文化交流を目的とした、駐日韓国大使館の施設。まだ新しいガラス張り高層建築の1階が会場であった。

 日本民藝館と東京藝術大学は、民藝館に残されていた朝鮮関連資料の共同調査にあたってきた。本展はその報告を兼ね、柳宗悦の生原稿やノート・メモ帳、写真といった紙ものの資料を中心に、対応する民藝館所蔵の朝鮮工芸をまじえたものとなっている。
 ワンフロアで、点数だけみれば多いとはいえないし、既知の資料も相当数含まれてはいる。しかし、一点一点に詳細な解説がつけられることで資料の相互の連関性が強まり、個々の資料がこの場で活用される意義を確かに感じられるのであった。

 柳宗悦は1940年まで計21回、朝鮮半島に渡っている。
 展示では1914年、浅川伯教によってもたらされた我孫子での朝鮮陶磁との邂逅、そして最初の朝鮮行である1916年をスタート地点として、柳の朝鮮にかかわる活動を順に追う。
 「朝鮮の友に贈る書」(1920年=柳32歳)、「失はれんとする一朝鮮建築の為に」、『朝鮮とその藝術』(1922年=33歳)といった柳の朝鮮に関する代表的な文章の生原稿が、掲載時の新聞スクラップや雑誌、書籍とともに並べられていた。
 これらは岩波文庫やちくま文庫などのアンソロジーにはかならず収録されていて、何度も読んでいるが、やはり直筆の原稿は筆跡や推敲の跡に見ごたえがあり、文章としてもまた違った受け取り方ができるように思われた。
 また、柳は執筆や出版に並行して「朝鮮民族美術展覧会」(1921年=33歳、東京で開催)、「李朝陶磁器展覧会」(1922年=34歳、朝鮮で開催)といった展覧を企画した。
 展示作品を選定する際の覚書と思われるメモ帳を、本展では展示。
 かたちや文様を記した走り書きのスケッチは簡潔でかわいらしくもあって、好もしい。かたわらに〇をつけたものがそのとき選ばれた出品作とみられ、現在も民藝館に所蔵されるものが含まれていた。

 こういった流れの随所に、共同調査によって得られた新知見がちりばめられていた。

・ノートの分析から、初の渡鮮時に入手した作品を新たに断定
・慶州の石仏・石窟庵の調査時の資料やアルバムの詳細が判明
・出品作選定時のメモと思われる手帳「メモランダ」を初公開

 ――それにしても、だ。
 かような重要資料が手つかずの状態で、つい最近まで日本民藝館に残されていたというわけだ。まさに「灯台下暗し」。
 もしかしたら近年の寄贈で一括して入ったものなのかもしれないが、そうでもなければこれらの資料は、民藝館の蔵の中で、つづらかなにかに押し込められたまま人知れず眠りつづけていたのだ。それこそ、柳が没したときから、ずっと。
 日本民藝館では、共同企画を除いて他館の作品を借用展示することはなく、年に3、4本ほどの企画を、ほぼ館蔵品による独自企画でまわしてきた。
 そんななか、最も核となるといっても過言ではない柳本人による朝鮮関連の資料にすら、まだ明らかにされていないものが存在したのである。
 これは、大きな希望ともいえる。まだまだ発見があるのかもしれないと、わくわくさせられるからである。

 本展と同時期、日本民藝館では関連する特別展「柳宗悦と朝鮮工芸 陶磁器の美に導かれて」が開かれていた。こちらは現在も開催中で、しばらく会期が続く。
 刊行100周年の『朝鮮とその藝術』をこれを機に読み返して、こんどは民藝の本丸・駒場の日本民藝館に向かうとしようか。



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