速水御舟展:5 /茨城県近代美術館
(承前)
《洛北修学院村》のあとに着手され、2年後の院展に出品されたのが、御舟最大の「問題作」ともいえる《京の舞妓》(大正9年 東京国立博物館=本展には出品されず)。
「いったい、なにがどうなったの?」という変貌ぶりである。細密描写への執拗な追求がみてとれるいっぽう、写実からは、かえって遠ざかっているのではとの印象すら受ける……
デューラーなど北方ルネサンスの影響を受けた写実的な人物描写が、この当時は流行していた。
「でろり」と形容されるもので、同じ京都には国画創作協会の甲斐庄楠音らがおり(楠音《幻覚(踊る女)》)、東では岸田劉生が《麗子像》を描いていた。御舟もこの潮流に乗った形となる。
あえなく酷評を浴びた本作を除き、御舟はこれに類する人物画を手がけていない。
ただ、細密描写じたいは、とりわけ大正10年前後のこの時期に意欲的に取り組んでいる。
画題に関していえば、《洛北修学院村》まで主流だった風景画はなりをひそめ、静物画や花鳥画が中心となっていった。
とくに、金地の上に細密描写を施した一連の静物画には、観るべきものが多い。
《茶碗と果実》(大正10年 東京国立近代美術館)は、正方形に近い寸法、文字や落款を含めて謹直な筆致、なにより写実性ある細密な描写から、中国・南宋の院体画への志向がみられる(院体画の例:徽宗皇帝《桃鳩図》〈個人蔵 国宝〉)。
院体画の作品は早くから日本に請来され、室町期には東山御物として、江戸期には将軍家や大名家の最高峰の御道具として愛蔵されてきた。
当時は、名家の所蔵品オークション「売立(うりたて)」の最盛期。この種の作品を目にする機会も、以前に比べれば増えていたのだろう。パトロン・原三溪に直接見せてもらったことも、あったであろうか。
《茶碗と果実》と同じ体裁をとる《秋茄子に黒茶碗》(大正10年 京都国立近代美術館)、《赤絵の鉢にトマト》(大正10年 個人蔵)も出品。
大正10年3月、御舟はパトロン・吉田家の娘と結婚して、京都から東京・目黒の吉田邸内に移っている。これらの作品は、御舟が結婚祝いのお返しに配ったものという。
とはいえ、入念な一品制作。貰った側は恐縮だろう。同じ体裁の作が集結した一角は、壮観であった。
続いて登場した、本展のメインビジュアル作品《鍋島の皿に柘榴》(大正10年 個人蔵)も、金地でこそないものの同系統に属するもの。
果実やうつわが、手にとれそうなほどリアルな質感をみせている。
どの作品においても、対象を穴の開くほど見つめ、リアリティを徹底的に追求しているのがわかる。
金屏風の《菊花図》(大正10年 個人蔵)。
やまと絵系の屏風や琳派の屏風を偲ばせ、観る側の油断を誘うが、やはり植物の細緻な描き方に大きな特徴がある。古画のイメージに引っ張られるほど、細密描写への異質感は強まるといえよう。
岸田劉生と御舟は、互いを認め合う関係にあった。その劉生の人物画は「内面性までも捉えた写実」とよくいわれるが、この種の評は、ただ人物画のみに対していえるものでもないのではということが、本作を観ていると思えてきたのだった。
ただただ「きれいな花・植物」という以上の、もわっとした霊気、「咲こう」「命を残そう」という確固たる意志・執念のようなものが、怖いくらいによく造形化されている。じっさい、屏風の前に立ったときの威圧感はある種、異様なものであった。
——中国の院体画も写実性の高いものであったとはいえ、御舟の写実はどちらかといえば油彩画を思わせ、西洋的である。
そういった描きぶりのモチーフが、金地という東洋的な背景のうえにポンと投げ出されているのだ。
これらの作品に接するとき、強いインパクトと同時に、いくぶんキッチュな感触を受け取るのも、その取り合わせの異質さゆえだろう。(つづく)
※御舟の結婚式では、原三溪が媒酌人のひとりを務めた。
※御舟の絵に描かれた陶磁器については、いずれ別項を設けたい。
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