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ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント:8 /東京都美術館

承前

 ■糸杉の磁場 サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズ:1

 ここから先のスペースには、サン=レミでの入院・療養期間、そしてオーヴェール=シュル=オワーズでの最後の日々に描かれた作品が展示されている。ある意味でメーターが振りきれたような、いまふうにいえば「キレッキレのゴッホ」で埋めつくされている。

 その終盤。隔絶された一角に、かの糸杉の絵が架かっていた。とどめの一撃、といった趣で。

 正確には《夜のプロヴァンスの田舎道》というこの絵には、「蠱惑的」といった表現が合いそうだなと思った。
 絵の具が、どうも定着しているように感じない。そんなはずはないのに、キャンバスの上で旋回したり、蝋燭の灯火のように横ぶれしながら天へと伸びていったり、動く歩道のようにこちら側に流れてきたりしている……静と動がごった煮になって、とらえようがない筆の跡だ。
 この絵を観て「快」を感ずる人、どこか言い知れぬ不安を感ずる人、それぞれだろうと思う。同じ人でも、観るたびに印象が変わりそうだ。それでも、人を強く引きつける絵だということには、誰しも異論はないだろう。
 この絵のまわりには、磁場ができている。引きこまれて、離してくれない。絵の前で滞留する人だかりがいつまでも解消されないのを見ながら、そんなことを思っていた。

 とどめの糸杉をはじめとする「キレッキレのゴッホ」、みなさんはどのように感じただろうか。
 この時期の作を、死の香りを漂わせた病的なものとみる向きもあろう。たしかにふしぎな魅力をもった絵なのだが、そのふしぎさの淵源を死や病に求めるのはちょっとばかり抵抗がある。
 われわれは、まもなく待ち受ける悲しい結末をいみじくも知っている。そうであるからこそ、絵に対して暗い影を見出しがちになるのも無理はないが、そのことで、すべてを染めきってしまうのはどうだろうか。
 たしかに、先入観を糸口にたどっていけば、筋道は立つのかもしれない。けれども、そういった「結果論」寄りの見方ではなく、虚心坦懐に絵と向き合いたいのだ。この、蠱惑的な絵に対しても。(つづく




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