ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント:7 /東京都美術館

承前

 ■イエローと凸凹(でこぼこ) アルル

 パリ時代のこぎれいな作もじゅうぶんによいけども、エスカレーターを上がった2階、アルル時代から死去まで、オール油彩の最終会場がなんといっても圧巻だった。入るやいなや、これはまずいぞ、すごすぎないかと冷や汗が出たものだ。
 色も描線も、激しさをいや増す。目をかっぴらいて、まんまるくしながら観た。

 《夕暮れの刈り込まれた柳》はこの部屋の冒頭を飾ったもの。小品ながら、イエローのインパクトが際立つ。とりわけ太陽や、陽光を示す集中線のような描写に釘づけになった。

 同時に「ああ、萬鉄五郎があこがれたのはこんな絵だったのだな」とも思った。萬には《太陽の麦畑》(大正2年、東京国立近代美術館)という作がある。日本におけるゴッホ受容の、最も初期段階。萬の太陽の表現は、まさにこういったゴッホの描き方に強く影響を受けたものだ。
 萬は欧行しておらず、ゴッホの実物を観てはいない。そればかりか、当時の粗い印刷物のモノクロの図版でしかゴッホを知らなかった。
 この強烈な黄色を、萬が直に観られていたとしたら……どんな絵を描いただろう。

 ゴッホの黄色が、とくにお気に入りだ。
 先日、三菱一号館美術館の「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」展で《プロヴァンスの収穫期》を観たことがゴッホ展来場に至る遠因になっているし、今回同じ部屋に出ていた《レモンの籠と瓶》《種まく人》もたいへんよいものであった。

《プロヴァンスの収穫期》(1888年、イスラエル博物館)

 《種まく人》は、今回の展覧会で最も感銘を受けたもののひとつ。本作にも、《夕暮れの刈り込まれた柳》のような大きな太陽が描かれている。
 放たれた陽光は黄金色の麦畑と同化し、種まく人の歩む地面の一面に乱反射しながら、画面全体を包みこんでいく。表面積としてはブルー系統が多いけれど、この絵の主役を張るのはやっぱり黄色だと思う。
 絵筆のストロークは短く、ほとんど点描といってよい。そうであっても、スーラのように規則正しく、計算されつくした点描とはまったく性格を異にしている。「暴れる点描」だ。
 暴れてケンカをするのはイエロー系とブルー系、暖色と寒色。両陣営のぶつかりあいが繰り返され、夕闇迫る瞬間、種まく人の躍動が、劇的に描きだされている。

 《種まく人》のように、ゴッホの油彩には厚塗りで凹凸の激しいものが多い。
 そのような作品を観るときは、目線を上下左右・前後に変えながら、見え方の変化を楽しみたい。鑑賞者が少し動くだけで陰影の調子に変化が生じ、絵の表情が猫の目のようにころころと切り替わるのだ。黄色の色調などは、とくにそうなのではと思われた。
 こんな楽しみを一度でも味わってしまうと、紙への印刷やモニターへの投影によってのっぺりと均質化された画面では、とても満足ができなくなる。
 いつでも何度でもいうが、肉眼で実物を観る体験に如くはなし。図版では再現しきれないものだなあと、図録をめくりながら幾度となく嘆息してやむことがない。(つづく



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