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赤星鉄馬「消えた富豪」の「消えなかった邸宅」へ :1

 赤星鉄馬の旧邸宅が、1週間限定で公開される——新聞の地方版でその報に接し、すぐさまスケジュールを確認。幸いにして1日だけ都合がつき、吉祥寺へ馳せ参じた。5月14日のことであった。
 昭和9年(1934)、チェコ出身のアメリカの建築家アントニン・レーモンドの設計による、鉄筋コンクリート造の白亜の邸宅である。国登録有形文化財。
 どのような建物か、下記リンク先の画像や短い動画から、手っ取り早く知ることができる。

 動画でも触れられているように、戦後はGHQの接収などを経て、長らくカトリックの修道女会が所有し、シスターの養成所として使われてきた。令和3年(2021)に武蔵野市が取得している。

 赤星鉄馬(1882~1951)は戦前の実業家。
 古美術ファンとしては、もっぱら「赤星弥之助の息子」といった印象で、この邸宅公開の話を知ったときも、根津美術館の国宝《那智滝図》(鎌倉時代)の白が真っ先に思い浮かんだのであった。

 鉄馬の父・弥之助(1853~1904)は薩摩出身で、明治に入ってからは人脈を活かし、新政府御用の武器商人として財をなした。稀代の美術コレクターでもあり、《那智滝図》をはじめとする名品を多数所蔵。その蒐集ぶりは、大口を開けて呑み込んでいくさまから「鰐魚(ワニ)」とあだ名された。
 コレクションは、弥之助の没後13年を経た大正6年(1917)、嗣子・鉄馬によって売立(うりたて=所蔵品の一括オークション)に出された。高額落札が連発、総売り上げは510万円に達した。
 3回に分けておこなわれたこの「赤星家所蔵品入札」は、いまでも語り草。「赤星家伝来」となれば、相応の箔がつく。


 ——わたしの赤星鉄馬に関する認識は、この赤星弥之助の息子であるという程度のことであった。
 本を読んでいると、ときおり名前が出てくることはあった。そのたびに「赤星弥之助の息子だな」「かっこいい名前だな」と思いはするものの、詳しく触れる機会はなかったのだった。
 鉄馬その人の業績について、改めてざっと調べると、箱根の芦ノ湖で日本で初めてブラックバスを放流したことが、比較的よく知られているらしい。釣りファンにとっては「ブラックバスの人」なのだろう。
 近年、評伝が出ていたことも初めて知った。昨日読了したところだが、この本の紹介文には、鉄馬という人物のことを紹介するにあたって、日本初の学術団体「啓明会」を設立したことが最初に記されている。

 はて、啓明会……聞き覚えのある団体名である。
 もしやと思ったら、浅川伯教・巧兄弟、柳宗悦らによる黎明期の朝鮮古陶磁研究をバックアップした財団法人こそが啓明会であった。
 古窯址の調査から展覧会、講演会の開催まで支援。講演の模様は『財団法人啓明会第五十五回講演集  朝鮮の陶器』にまとめられ、貴重な資料となっている。

 啓明会に関して、鉄馬は設立時の資金拠出のみをおこない、以降は関わり合いを持たなかったという。「金は出すが口は出さない」というわけだ。
 資金の出どころは……あの「赤星家所蔵品入札」であった。大名家など旧時代の支配層の家宝を呑み込んで成立した弥之助のコレクションが、間接的にではあれ、陶磁史研究や民藝へと繋がっていったのはおもしろい。
 啓明会主催により浅川伯教らの講演がおこなわれ、講演録が発行されたのと同じ昭和9年、吉祥寺に現存するアントニン・レーモンド設計の「旧赤星鉄馬邸」は竣工をみたのだった。(つづく

庭園側より、全景
中庭。巨石の手水鉢は、いかにも明治の御大尽の豪邸にありそうなもので、案外、父・弥之助から受け継いだものかもしれない
アールが美しいエントランス脇の壁。内部には、螺旋階段が通っている



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