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東洋館、アジアのいろいろ:2 /東京国立博物館

承前

 中国工芸の展示室で、ひときわ目立っていたのが《揺銭樹》(後漢時代・1~2世紀)。
 読んで字のごとく「金のなる木」を造形化した明器(墳墓の副葬品)で、高さ123センチもある。緑の台座はやきもの、そこから伸びる木と枝は青銅製。
 台座の造形は騎馬人物……ではなく「羊に乗った仙人」とのこと。鯉に乗った仙人がいるくらいだから、「騎羊仙人」がいたっていいだろう。
 仙人が抱えた、大砲か打ち上げ花火かといった大きな筒から、誰もがうらやむ夢の樹木がまっすぐ立ち上がる。

 この枝先の意匠がすばらしい。銭貨のみならず、さまざまな姿に変化(へんげ)しているのだ。
 火焔から火の鳥が生まれるように、ひとつの幹から多様な生命が枝分かれしていく。古代中国の宇宙観すら、本作からは垣間見える。

 朝鮮半島の工芸にもよいものがあった。
 《青磁碗》(高麗時代・11世紀)。

 文様がいっさい施されない素文(そもん)の碗は、フォルムや釉調が作行きを決定づける。本作は、見込みの清澄な上がりがたいへん好ましい。
 作例としてはけっしてめずらしい部類ではなく、巷の業者さんで類品を購うこともできる範囲だけれど、やっぱり本作の釉調はすぐれている。
 周囲には、彫り文があって、溜まりがあって、サイズも大きくて……といった一級品の高麗青磁がいくつか出ていたが、わたしはこの釉調一点張りの地味な碗に、いちばん惹かれたのだった。


 《無地刷毛目茶碗 銘 冬頭》(朝鮮時代・16世紀)。

 無骨。
 高雅な気品漂う高麗青磁を観た直後ということもあって、さらに無骨なものにみえた。器壁は厚く、手取りはずしりと鈍重なはずだ。

 しかしまあ、なんと素直なかたちだろうか。その土地の土壌から、タケノコのごとくひょこっと沸き出てきたかのような、作為を感じさせない姿である。
 いざ持ち上げたら重く、重心も下にあってあまり飲みやすくはないと察せられるのだが、なんだか朴訥とした田舎の人をみるようで、愛用したくなるのもわかる。見込みは、よい味に育っている。

 キャプションによると、濱田庄司が激賞したとのこと。
 濱田のつくる茶碗も、このようなどっしりとした存在感のあるものが多い。濱田の嗜好・志向のありようからするに、たいへんにうなづける逸話と思われた。


 粉引(こひき)の徳利とデュオを組んだ《鉄砂草花文瓶》(写真手前。朝鮮時代・17世紀)。

外人さんが鉄絵の瓶から呼ばれて飛び出た……わけではない。あちらさんも素敵なデュオである

 鉄砂や辰砂で描かれる文様には、本作のように抽象的なものが多く存在する。「草花文」などと、かりそめの名がついてはいるけども、本当のところはなんなのか誰も知らない。
 描線は決まって、たどたどしいものだ。もっと上手に描こうとすれば、できないこともなかったのであろうが……児童画に通じるこの味わいを、好もしく思う愛好家は多い。わたしもそのひとり。
 反対側の面は、思いもかけないかたちの文様となっている。下記リンクから、ぜひご覧いただきたい。


 東洋館まで来たからには、中国の石仏たちを素通りするわけにはいかない。こちらも、じっくり鑑賞。

 根津美術館の自然光が差し込む大理石の空間もよいけれど、石窟に迷いこんだような暗闇のなかに、ぽっと石仏が浮かび上がる東洋館の見せ方もまたよく、甲乙つけがたいものがある。

 ——本日の東洋館の鑑賞は、これにてお開き。
 それにしても、東博の常設を悠々とまわっていると、東京近郊に住み、気軽に上野にやってこられることの幸せをひしひしと感じる。これからも、その幸せを積極的に享受していきたいものだ。



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