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海の帝国琉球 /国立歴史民俗博物館

 高校野球の試合を観る楽しみのひとつに「氏名」がある。
 全国津々浦々から甲子園に集った球児たちのなかには、珍しい苗字をもつ子が毎年数人はいる。その苗字の読みや来歴、どういった地方に多いのかを調べるのが楽しいのだ。高校の所在地と苗字の多い地が一致すると、地元の子であろうということで、より応援したくなる。
 下の名前からは、いまどんな名前が流行っているのか、おおよその傾向を探ることができる(約18年のタイムラグがあるが)。わたしの感覚では、ひと昔前ならキラキラネームと揶揄されたような名前が、ちらほらどころか大勢を占めるようになってきている。ルビがないとまず読めない名前は、いかがなものか……
 なかでも目立つのは「琉」という字を使った名前の多さ。「りゅう」のほか「る」と読ませて多用されている。琉の字は「琉球」以外には使われない。きっと親御さん方はみな、沖縄がすきなのだろう。
 それにしたって、縁起がよくないとして忌避されてきた「流」の字に直接通じる「琉」は、とても名前に適した字とはわたしには思われない。そういうことも、気にしなくなってきているのだろうか。
 脇道に逸れてしまったが、今日はそんな「琉球」の話である。


 歴史をつくるのは、いつだって勝利した側の人間だ。
 そのために、敗者が野蛮で無様な敵役として描かれたり、存在自体を抹消されたりといったことがしばしば起こりうる。
 もしかすると、いまわたしたちが認識している歴史だって、敗者側の言い分を含まない不完全なものかもしれない……
 そんな視点から琉球王国の帝国的側面、歴史の「断層」にスポットを当てようと試みたのが、国立歴史民俗博物館の特別展「海の帝国琉球」だった。

 八重山、宮古などの島々を、わたしのような本州の人間はひっくるめて「沖縄」の一部と認識してしまいがちだが、そもそも宮古島と沖縄本島は距離にして300キロも離れている。現代においても、風習や言葉、意識の面での違いが根強くあるのだとも、以前に教えてもらった。
 本展の視座に沿えば、先島諸島は元来、沖縄本島とは違った統治体制・文化を持ち、中国とも沖縄本島を介さない交易ルートを築いていたという。かような経緯があるとすれば、いまにいたる気質の違いもうなずけるというものだ。
 しかし、そういった地域性・独自性をもった島のありさまは、琉球王国の正式な文書にはほとんど記録されていない。
 文書に代わって、そのすがたを雄弁に物語っているのが考古学の研究成果だ。先島諸島には珊瑚石で組んだ独特な集落の遺跡が存在し、そこから出土する中国製の陶磁器のタイプが本島とは大きく異なるのである。木や紙と違い、陶磁器は破片になっても分解されずに土中に残る。また、柱が腐っても、地面を穿ってできた穴は遺構としてやはり残りつづける。紙媒体の史料には残らなかった歴史の痕跡を、発掘調査がカバーしてくれるのだ。
 琉球王国が本島から離島へ版図を広げていく頃、中国陶磁は先島諸島の遺跡からぱたりと出土しなくなる。これは、先島諸島が侵攻され、王国の支配下に組み込まれたことを意味する。
 首里城から出土する中国陶磁の陶片は、本島の内外にある他の城郭から出るものに比べてもずば抜けて質が高い。完器であれば名品クラスの陶片ぞろいである。琉球「帝国」の王権がいかに他を圧するものであったかが、やきものからよく伝わってきた。

 本展では、文献史学や考古学に加えて、民俗学の研究成果も存分に活用されている。学際的な連携により、丹念に証拠を積み重ねる。きらびやかな紅型も螺鈿の漆器もない、あるのは陶片ばかりの地味な展示ではあったが、じつに歴博らしい、知的好奇心をそそられる企画だった。


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