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大量生産が当たり前の時代に。トルコで考えた、消費とモノの価値。

ここ数年、めっきり新しいものを買わなくなっていた。

引越しをしたということもあり、もうモノが増えるのは面倒と思っていた。むしろ、「こんまりしよう!」と休日に定期的に断捨離をしたり....

何かを"消費”することが、とても億劫になっていた。

そんな私が、先日トルコに旅行に行った時、
カバンがはち切れそうなくらいの買い物をして帰ってきてしまった。

久しぶりに、ときめきまくって、積極的に買い物をしてしまった・・・!

いつもは、意地でも機内持ち込みをするバックパックがパンパンになって肩を痛めそうなほど、色んなものを買ってしまった。

それくらい、トルコは思わず「消費」したくなる国だった。

大量生産に負けない、クラフトとこだわりのカルチャーのトルコ

今回、初めてのはじめての中東への旅で、トルコと、その前にヨルダンに訪れた。

もう、とてつもなく素敵な側面が多すぎたので、それはまた別途中東愛について語りたいのだが、最も驚いたのは、「クラフト」と「こだわり」のカルチャー。

フラッとお店屋さんに入ると、店員さんは皆んな口を揃え「Handmade!」と言う。

またまた〜そうやって、売りたいだけじゃないの?と最初は斜に構えていたのだけど、フレンドリーなトルコ人。お店の人ともすぐ仲良くなれる。

「これ全部私が作っていて、そこの絵は、私の息子が書いてるのよ!
と。

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えー!!!Handmadeって、あなたが作ってるってこと?!Amazing!そんなやりとりを、お土産屋さんや道端のショップに入るたびに、何度も繰り返した。

お土産屋さんみんなクリエイターなのでは・・・と思うくらい、手作りのものを、そして自分ならではのこだわりのデザインにアレンジして、物を売っていた。

もちろんイスタンブールの街などには、国内外のチェーン店も存在するが、チェーン店に負けないくらい、素敵なお店がひしめきあっていたのだ。

ないものは、作る。それが当たり前。

今回泊まっていたホテルも随所にクラフトのカルチャーが見られた。

それなりに部屋数が多くて大きいホテルでも、至るところに手作りのぬくもりと、愛情と、センスを垣間見ることができた。

壁には手書きで書かれた模様や、一手間加えられた椅子や、手作りのオブジェ。

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部屋のトーンと合わせるために、手作りで作った木の扉。

1つ1つ文字と模様を刻み込んだ、可愛すぎるルームキー。

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至る所が、「手作り」だった。
欲しい物がなければ、自分たちで作りあげてしまう。

どうしてそんなにクラフトのカルチャーが根付いているのか。
それはトルコ人の「誇り高き美意識」が影響しているのではないかと思う。

トルコ人って、どんな人?

とても親日国だということは、行く前からトルコ経験者から聞いていた。そして驚くほどに、本当に親日だった。日本人だよというと、みんなとても笑顔で、「トルコは最高だろ?」と話しかけてくれる。

どうやら、トルコが親日国なのはいくつか訳があるらしく、一つの理由として、その昔、日本の近くでトルコの軍艦が遭難事故に遭い、当時の日本人が危険を顧みず猛烈な台風の中、乗組員を救助したことがあるそう。

日本人にはあまり知られていないが、トルコの国民の中では今でも語り継がれていて有名な話で、日本に良い印象を持っている人が多いらしい。

その他に、実際に行ってみて感じたのは、日本との共通点が多いように思った。だからこそ"気が合う"のではないか。

<日本との共通点>
・「老舗」が多い。
・四季がある。
・食べ物がめちゃくちゃ美味しい。
(特に、日本以上に野菜が美味しくて本当に驚いた) 
・治安が良い。
・ロシアや西欧の脅威に抗して、近代化した数少ない国

どことなく、同じ"匂い"がした。トルコの人たちも、そう言った共通点から日本人に親近感を感じているのではないだろうか。「遠くて近い国」と言われる所以は、ここにあるのかもしれない。

トルコ人は基本的にすごくフレンドリーで、優しく、とにかくご機嫌。もちろん怒る時は激しく感情を露わにしているシーンにも遭遇したが、本当に機嫌が良い

だから優しいのは日本人限定ではなく、基本的に誰に対しても親切で、彼ら本来の性質に見えた。

街の人が過度な気遣いでもなく、雑に扱われるわけでもなく、思わずこちらもつられて笑顔になる。困っていれば、すぐに「どうしたの?」と声をかけてくれる。本当に自然体に接してくれる、気持ちの良い人々だった。

人の美意識は、街によって磨かれる

今回の旅で、もう1つ驚いたことがある。お土産屋さんも、ホテルも、レストランも、非常にセンスの良いお店が多かったことだ。

運が良かったのか、もちろん私の好みどストライクだった、というのが大前提なのだがダサいと思う場所に全く出会わなかった。

アジアともヨーロッパとも違う絶妙な色づかい。ごちゃごちゃしているのに、なぜかカッコよく心地の良くみえるインテリア。その街の個性やトーンを壊さず、街と共存し「トルコらしさ」を感じられる建築。

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今回、カッパドキア、アラチャトゥ、パムッカレ、イスタンブールと4都市を周遊したのだが、それぞれ街のカラーや個性が違い、新しい都市を訪れるたびに、わくわくした。

奇石を掘り、「洞窟」に住んでいた歴史のあるカッパドキア。

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エーゲ海の小さな町、アラチャトゥはギリシャとトルコがミックスされたような可愛らしい街並み。

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真っ白な石灰棚の丘を持つ、パムッカレの田舎町。

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発展しながらも、石造りの建物や、モスクなど古くからの建築が残るイスタンブール。

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街の至る所にトルコ人のキラリと光る美意識が垣間見えた。多くの人がそんな素敵な美意識を持っている要員の一つとして、イスラム芸術が古くから受け継がれ、街中の人々の生活に根付いているからではないか。

モスクをはじめとして、いまだに何百年も前に作られた建築が圧倒的な存在感で鎮座していたりと、人々は生まれた時からイスラム芸術と隣り合わせで暮らしているわけだ。さまざまな帝国が栄枯盛衰を繰り返した歴史もあり、アンティークの美術品なども、トルコ人には身近な存在だ。

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美しいものに囲まれて育つということは、人の美意識に大きな影響を与えるのだなあ、とつくづく感じた。

日本でも、山口県の萩や、愛知県の常滑を旅した時に、田舎ながら、素敵なお店が多くて驚いたことを思い出した。

この2つの街の共通点は、窯元が多く「陶芸」が盛んな街ということ。どことなく街全体のトーンが揃っていて、小さいお店なんかも、その街の雰囲気を守りつつ活かしつつ、空間づくりをしていた。

日本でも、昔ながらの芸術が脈々と受け継がれている街は、街の景観と寄り添う美意識が存在しているのではないか。(もちろん例外もあるだろうが....)

そして、芸術というのは、作家性が強いため、誰かの強烈な意図や意志のもとに作られる。そのため、必然的に唯一無二のオリジナルのものになっているはず。

モスクも、古い建物も、アンティークのインテリアなども、決して同じものはなく唯一無二の価値を持っている。そんなものに囲まれて育ったトルコの人々は、当たり前のようにオリジナルにこだわるのではないか。

その証拠に、決して高くはないローカルレストランで出てきたおしぼりまでもが、オリジナルに作られたものだった。こんな小さなレストランでさえ、ここまで細部にまでこだわるのか・・・!と非常に驚いた。

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自分たちが使うすべてのものに対して、当たり前のようにこだわりを持つ。意思を持つ。意図を持つ。

これが、トルコの人たちの誇り高い美意識だと感じた。そんな意図と美意識が宿った"モノ"を受け取るのは、作り手達に敬意と愛着を持つことができて、なんだか距離が一歩近づくような、そんな感覚だった。 

そのプロダクトに「意図」はあるか

以前、『日光東照宮』の建物や装飾の修繕作業の話を内部の方から、お話を聞く機会があった。東照宮の派手な装飾は、昔からずっと同じ職人の一族にお願いしている。そして、使われている全ての色や柄の1つひとつに対して、それぞれ意味があるのだ、と教えてもらった。

それからというのもの、古い建築を見ると、思わず「これは一体どういう意図で作られたものなのだろう?」と考えるようになり、はるか昔の作り手に、思いを馳せるようになった。

今回、トルコに行った際にも似たような話を聞いた。様々なものに描かれている、一見、脈絡のない幾何学模様の模様は、全てに意味があると。

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魔除けであったり、幸せや喜び、愛と調和など、様々な思いが表現されているのだそう。


普段自分が接しているモノの中で、誰かの「意図」を強烈に感じるプロダクトというのは、果たしてどれだけあるだろうか。また、自分が生み出しているものに、どれだけ「意図」や「こだわり」を持つことができているだろうか。

今の時代、『ストーリーを買う』『文脈を買う』と言われているように、そのモノ自体より、背景や作り手の意図が重視されるようになってきているが、一体なぜか?

モノに宿る、意図やストーリー、文脈を知ることの良さというのは、作り手と受け手との距離が縮まることにあるのではないだろうか。

クラフトカルチャー根付くトルコで、私が思わずたくさん"消費をしてしまったのも、まさに、作り手の「意図」のシャワーを目の前で目一杯浴びたことにあると思う。

モノの価値というのは、モノそのものではなく、人から人へと意図を届ける媒介としての役割にあるのだなあと、忘れていたことに改めて気付かされた。

大量生産が生んでしまった、作り手と受け手の距離

大量生産が当たり前でなかった時代。目の前の人達に自分が作ったものを、届けることができた時代。作り手と受け手との距離は、近かったはず。それが、大量生産が当たり前になると、作り手と受け手の距離がどうしても離れてしまうようになった。

大量生産が悪なのではなく、お互いの距離が遠くなってしまうこと。それが、作り手側の「意図」が薄まってしまう・届かなくなってしまう原因なのだろう。

実は、大量生産されて、私達の手に届いているものも、様々な人が関わり、研究され、消費者のことを本当に思い作られているモノもたくさんあると思う。

自分が"消費"するものを、好きになりたかったんだ

何の背景や意図も感じられず、何の思い出とも紐付かないモノは、「抜け殻」を買ってしまうような感覚で、どうしても、買う気になれなかった。

その時はなんとなく欲しかったり、必要だったりで、とりあえず買ってしまったものもあるが、いらないものを捨てるには、時に、とても勇気とパワーがいることも、何度も経験してきた。

自分の消費に自信が持てず、愛着が持てずにいた。それが、最近、モノを買うことが億劫になってしまっていた理由だと気づいた。

こんまりがこれだけ世界から注目されているのは、自分にとって、本当に大切でときめくものを大事にして暮らすことの豊かさに、人間が気づき始めているからだろう。

好きなものに囲まれて暮らすことは、やっぱりハッピーだと思う。

望めば、色々なものが手に入る今の時代。モノが溢れすぎている今の世の中で、自分の消費に自信が持てずにいた。

自分の買うモノを、ちゃんと、好きになりたかった。

トルコは、そんな弱気だった私の心を溶かしてくれ、思わず好きになってしまうモノが溢れた、本当に素敵な国だった。

こだわりとクラフトのカルチャーが残っていて、作り手との距離が近いトルコ。そんな国から持ち帰った、美意識と意図が宿った"モノ"は、何度見ても、思わず愛おしい気持ちになる。

小さいお土産屋さんで、おばちゃんとおしゃべりをしながら買ったハンドメイドのピアス。おじさんに相談しながら、30分も悩んで買ったトルコの伝統の柄をあしらった、大きなラグ。部屋の中にある"モノ"達は、いつだって記憶の中で私をトルコに連れて行ってくれる。

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私にとって、そのモノに宿る意図や背景を知ることは、自分の消費するモノを好きになる、一番の近道だった。



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