芥川龍之介の『ポーの片影』をどう読むか① 漱石は鴉片中毒者にあらず
そうは言いながらやはり芥川龍之介という作家は博識で、そこに書かれていることから学ぶことは多い。例えばこの『ポーの片影』もポーに関する評伝としては短いながらもその内容は要点を突いてよくまとまっており、その内容はほぼ正確である。
やや難があるとすれば、
ここでルーファス・ウィルモット・グリスウォルド Rufus Wilmot Griswoldを「グリスボート」として「w」を濁らせている点くらいであろうか。
また芥川は、ここで「アラン」という養父の姓をひどく拒絶している。自身は新原の血脈を見限り、芥川家の子孫になり切りながら、どういう了見かそこに酷くこだわっている。
それ以外の点は議論の余地なく正確に伝えられたポーの事実であろう。
だからここから先は少し余談めいてしまう。
まず全集をグリスウォルドが編纂したことは不幸なことであった。このことは例えば夏目漱石の全集が誰よりも漱石を愛し、尊敬する一番弟子小宮豊隆が編纂したことと対を成し、芥川龍之介全集が吉田精一によって編まれたこととも対を成す。芥川もポーと同じ不幸な目に遭った。
漱石は幸運だった。しかし油断してはいけない。今、漱石全集を読むものよりもインターネットで漱石を知るものの方が圧倒的に多いのだ。
つまり例えばダミアン・フラナガンといったくだらない人間によって、夏目漱石が鴉片中毒の狂人だと喧伝され、それをウエブ版毎日新聞英語版の読者が信じてしまうということが現にあり得るのだ。
そして実質的には兄貴分であり先輩の谷崎潤一郎が芥川龍之介の弟子にされてしまうなんておかしなことになる。
これほど明々白々に馬鹿げた評論があろうかと思われるのだが、こんな人間がたまに漱石関係のシンポジュウムに招かれたりしているのはどうしたわけであろうか。
そもそも毎日新聞社には英語が読める人間が一人もいないのだろうか?
ことほど左様に出版とは権力であり、間違った言葉は優れた詩人を殺しかねないのだということを改めて痛感する。
作家の死は肉体の終わりに訪れるのではない。出鱈目な解釈に覆い尽くされて真実の姿が見えなくなったときに訪れるのだ。デカルトでも荻生徂徠でも自分を偉く見せるための材料としてしか見ていないような批評家が漱石を殺してしまうのだ。
この最後の皮肉は決して笑えない。現にどうだろう。
まだ芥川はその天才に相応しい評価を得ていない。つい数日前まで、天才らしくもないところを指摘されてもいなかったではないか。
誰も芥川が『後漢書』を読んでいないとは指摘しなかったではないか。
これが現実だ。
でもまあ、現実というものは日々変わるからいいか。
【余談】
なるほどその「過去を含めた今の自己」「自分の位置」ということで言えば、三島由紀夫の死はわずかにニ三年の自分の結果でしかない。長く見てもせいぜい五年。芥川でもやはりニ三年である。
それが全部済んでみて、改めて全期間を眺めてみると、やはり最盛期はその前に位置するようにも思えなくもないが、この二人は意地を張った。晩年の作品だからと褒めるのは性分に合わないが、晩年の作品だからと気の毒がるのはなお嫌いだ。というより間違っている。
とはいえこの北條民雄の指摘は一考に値する。
例えば『或阿呆の一生』は決して芥川を総括できてはいない。『憂国』も三島由紀夫を総括しない。『人間失格』はかなり太宰だと思う。
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