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芥川龍之介の『文章と言葉と』をどう読むか③ 幻惑されている

文學の大目的の那邊に存するかは暫く措く。其大目的を生ずるに必要なる第二の目的は幻惑の二字に歸着す。

(夏目漱石『文学論』)

 紛れもなく夏目漱石はこう述べている。後に漱石は真・善・美、

一歩進んで全然その作物の奥より閃き出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば

(夏目漱石『文芸の哲学的基礎』)

 などとも言い出すが『文学論』の中ではキーになる概念は明らかに「幻惑」である。一方『文学論』の中で追い求められているのはそもそもぼんやりしたところから次第に明瞭になり、また次第に曖昧になる人間の意識をどう捉えていくかという問題でもある。「明瞭」の文字は作中70回現れ、現実のいわく言い難いものという性質、「捉えがたさ」こそが研究されていると考えてよいだろう。

 従って芥川が『文章と言葉と』において「文章は何よりもはつきり書きたい」「曖昧を許さぬ文章を書きたい」と書いているのは、すなわち漱石に対する反旗であるとは解しかねる。また座すや否や一気呵成に書いて書き損じも殆どない漱石に対して「それだけでもペンを持つて見ると、滅多にすらすら行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる」のも疑義でも皮肉でも無かろう。

 しかしまた小学生のように「いつか夏目先生のような文章を書いてみたい」と書かなかったことも事実である。そして「僕は誰に何なんといはれても、」とあくまで誰かの考えに従うのではなく、自分の方針を貫くことを主張している。

 誰に何と言われても、ということは鴎外に言われても漱石に言われてもということになる。

 つまり芥川は、この時点で師や指導を拒否している?

芥川自身は文章上のアポロ主義を奉じ、はつきりした、曖昧を許さぬ文章を書きたいと望んだが、それは遂に達せられなかつた。晩年に至るに從ひ、デカダンスの氣分が多く頽廢美の傾向が感ぜられる。

森鴎外伝 馬場久治 著黎明調社 1943年

 この見立てはさして外れてもいないし、核心をついてもいない。一番ふわふわしているのが『保吉の手帖から』であり、一番曖昧なのは『温泉だより』あるいは『奇怪な再会』だからだ。そもそも何故出立が送れたのか、何故海綿なのかなどと『歯車』にも曖昧なところはなくはないが、やはり「き」の字の橋がない『温泉だより』が一番解らない。頽廢云々の話はもう少し精査が必要であろう。

 そして解らないけれど幻惑には成功している。

 つまり……芥川が漱石文学を継承したか拒否したかどうかについては、結局、……解らない。

 はっきり書きたいと言いながら一番曖昧なのは「芥川龍之介ははいかに漱石作品を受容したのか」ということなのだ。

 わざとそうした?

 結果として漱石作品を継承するような「大きなもの」を書いていないのだからわざとかどうかということは別にして、これを無意識というわけにはいくまい。

 ではちいさなところで継承はないか?

 これが確たるものはまだ見つからない。

 明日見つかるんじゃなかろうか?


 笑ったらつかれている証拠。


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