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芥川龍之介の『讀書の態度』をどう読むか① 腰を据えねばならない

 以前にも書いたように、夏目漱石の『こころ』に関する読書メーターの感想は日々全て読んでいる。それがどういう読み方をされていて、何が欠けているのかをチェックするためだ。しかし本音を言えば万が一にも新たな発見のヒント、良い意味での驚きを期待しての作業であったが、現実的には呆れてしまうことが多い。

 この方は高校の国語の先生のようだ。先生なのに冒頭のすがすがしさの意味に辿り着けず、暗い話として読んでいて、YouTubeでごまかしている。さすがにこれはいけない。

 何だか愕然としてしまった。

 では、如何に讀んだらいゝかと言いへば、これも、多少人に依つて違ふかも知しれないが、兎に角、何者にも累されずに、正直な態度で讀むがいゝ。何者にもと云ふ意味は世評とか、先輩の説とか、女學校の校長の意見とか、さういふ他人の批判を云ふのである。
 讀者自身、面白いと思へば面白い。詰らないと思へば詰らない。――さういふ態度を、無遠慮に、押し進めて行くのである。さうすると、その讀者の能力次第に、必らず進歩があると思ふ。
 これは、獨り讀書の上ばかりではない。何なんでも、自己に腰を据ゑて掛らなければ、男でも女でも、一生、精神上の奴隷となつて死んで行く他は無いのだ。

(芥川龍之介『讀書の態度』)

 芥川はまず「正直な態度で讀むがいゝ」と書いている。『こころ』を読んで体調が悪くなるのは過度に先生に感情移入したのかと思うが、それが正直な態度であるかどうかは甚だ疑問だ。二學期の授業で扱わなければならないからと無理に読んでいるのは、何ものかに惑わされている態度である。

 そしてもう少し厳しいことを言えば、『こころ』を面白いと思わない人には国語教師の資格がないのではなかろうか。

   これでは教わる生徒さんが気の毒だ。真面目な話、私は常々読解力のない国語教師は転職すべきだと考えていてその趣旨の発言を繰り返してきた。数学の公式を間違う数学教師や、音符の読めない音楽教師、そんなものは許される筈がないのに何故か国語教師だけが読解力のないことを許されている。そんな馬鹿々々しい現実がある。それで国語力が向上る訳はない。

 結局読解力のない国語教師たちは解らないまま授業に突入し、分からないところを生徒に討論させたり、Kの代わりに遺書を書かせたりすることで誤魔化すのだろう。それで何を採点されてしまうのかと考えると恐ろしい。生徒さんの将来に関わることだ。早く決断してほしい。

 まず基本的な読解力がないものがどうして国語教師になったのか疑問だが、やるべきことはYouTubeを聞き流すことではない。「能力次第に、必らず進歩がある」のは「無遠慮に、押し進めて行」った結果なのだ。『こころ』を面白いと思えるまでいくらでも腰を据えて「無遠慮に、押し進めて行」けばいいと思う。

 芥川はここで「男でも女でも、一生、精神上の奴隷となつて死んで行く他は無いのだ」と書いている。厳しい言葉だと思う。「一生」と書いてある。殆ど呪いの言葉だ。本当の意味でこの『讀書の態度』を理解すると、正直厳しいことが書いてあるなと思う。しかし本当のことだろう。ここには「私には」「わたしなりに」で誤魔化せない厳しい読書指南がある。

 つまりまずは「面白い」「詰まらない」と勝手に思っていればいいのだろう。ここまでを理解して、あ、好きに読めばいいんだと勘違いしてはいけない。そこで話は終わっていない。

 この後「無遠慮に、押し進めて行く」ことによる進歩があるということは、最初の「面白い」「詰まらない」は未熟な判断だということだ。進歩とは過去の未熟な自分と向き合うことでもある。つまりいつまでも「私には」「わたしなりに」でもって同じ水準で「面白い」「詰まらない」とやっている人は進歩がないということであり、それでは精神上の奴隷となって死んでいくしかないということだ。必要なのは進歩なのだ。今まで解らなかったことが解るようになり、詰まらなかったものに面白さが見つかることが進歩だ。

 そのためには腰を据えてかからねばならない。中田君のやつとか全然だめだからね。YouTubeを聞き流すのでは全然腰が据わっていない。noteの無料記事だけ読んで解ったような気でいるのも腰が据わっていない。まだ新学期までは時間がある。

 それまでに私の本を読めばすべてが解決する。

 読まなければ一生、精神上の奴隷となつて死んで行く他は無いのだ。



 不思議だな。中身を読む前に厳しい内容だと解るのだろうか。しかしほかにも高校起用がいたらよく考えて欲しい。教育者とは生徒のために存在するべきものだ。読解力のない国語教師は何のために存在するのだろうか?

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