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解説:「夏目漱石『道草』、十二支と九星のロジックが示すもの」

 この記事を解説します。

 この記事は、夏目漱石の『道草』に対する新解釈です。

 夏目漱石の『道草』はこれまで「自伝的私小説」とみなされることが多かったようです。

 しかしよく読むと「お話が作られている」ということが分かります。

健三は捨て子

 この記事の肝は、

・姉の発言と十二支と九星から考えて、姉は自分が十五歳の時に健三が生まれたという記憶を持たない
・つまり姉は健三の本当の姉ではない。
・また比田はいい加減な嘘つきである可能性が高い。
・「実父」に可愛がられていることから姉は本当の子であり、健三はよそで生まれた子、あるいは捨て子である可能性が高い

 という論理展開です。しかしこの理屈に健三は気が付いていません。この仕掛けは『行人』の一郎の設定にも似たものが見られます。

・一郎の父親は精々五十一歳。
・父親の二十五六年前の昔話に妻子の気配はない。
・一郎が父親の実子である可能性は低い。
・そのぼんやりとした不安を一郎は二郎に「お前はお父さんの子だね」と奇妙な言い回しでぶつける。

 しかし『道草』の方がやや計算が複雑です。

 干支や九星の計算はカシオが運営している計算サイトで調べることができます。


捨て子にもどこかに母はいる

 この記事はただ健三を捨て子にして、どうだ、と威張っている訳ではありません。『道草』はそういう小説ではないからです。『道草』の中には健三と実母との関係が直接的には現れません。しかし『道草』の中では「母」が子供を産むということの重要性が説かれます。

 健三の実母に関する無関心・無言及は、仮に「健三は捨て子である」という前提を置くと、「どこかに存在する本当の生みの親に対する無意識の思慕の表れ」なのではないかと考えられます。

知らないのに解っている健三

 十二支と九星のロジックは比田を嘘つきにしてしまいます。健三は気が付いていませんが、漱石は比田のふるまいを疑わしく描いています。

 健三と島田の間の金のやり取りを比田は積極的に仲介します。十二支と九星のロジックはここにも効いてきます。
 しかし十二支と九星のロジックを知らない健三は比田を疑いません。ただ片付くものなど殆どないことだけは解っていて、自分の出生の秘密と共に十二支と九星のロジックだけ片付けてしまいました。

 これが『道草』という小説です。


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