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『彼岸過迄』を読む 4368  何故「老いと死」ではないのか?


 夏目漱石は『吾輩は猫である』を書くとき、アメリカの黒人のことについて考えるべきだった。不意にそう言われて戸惑わない人はいないだろう。
二秒ほどしてああ、「車屋の黒」かと思いつく。人力車を引く奴隷の家の飼い猫が「ブラック」であること、その差別的な取扱いに問題があると指摘しているのかと気が付く。デンゼル・ワシントンに大統領役が相応しいように、黒は教師の家の飼い猫であるべきなのだろうか。

 あるいはこれはけして笑い飛ばすべき話ではなく、真剣に考えるべきかも知れない。今浅草では女性も人力車を引くが、昔は人力車は男が引いていた。飯焚は男女ともいたが、車屋の若い者は男性である。

 夏目漱石作品は男と女の話であり、性別がグラデーションであるという現在の科学的認識からみれば明らかに偏っている。夏目漱石は若者の同性愛的な感情を通過儀礼と見做した。V感覚をA感覚の代用品とみなす稲垣足穂とは逆の立場である。そういう意味では夏目漱石作品は現代においては排除されるべきなのかもしれない。無論稲垣足穂こそが覆された男根ロゴス主義者であり、女性性になんら価値を認めない差別主義者であるとも言えるのだ。男と女の話に拘る夏目漱石こそが女性性の価値を最大限に評価する作家であったとも言える。むしろドミナ捏造説に立つ谷崎潤一郎は、覆された男根ロゴス主義者に似ている。

 それにしても何故「老いと死」ではないのかと私は今更ながら考える。朝日新聞の読者を楽しませるためとはいえ、何故「老いと死」ではなく「男と女」なのか。逆に何故「母と子」なのかとは今更疑問にも感じない。『吾輩は猫である』以来、捨て猫として夏目漱石は繰り返し「母と子」の関係を書いてきた。しかし『明暗』に至るまで漱石は「男と女」を書いてきた。何故「老いと死」ではないのか。今目の前に迫っている切実なテーマは「老いと死」の筈なのに。

 ここにはあらかじめ乱暴な答えが一つ用意されている。なんせ則天去私なんだから「老いと死」なんて個人的な問題はテーマにならなかったんだよと。

 いや誰も愛さず、誰にも愛されず、男女の交わりもなく、過ごしてきた人間にも必ず「老いと死」は訪れる。「老いと死」こそは人類の普遍的テーマなのではないか。確かに『硝子戸の中』にはわずかにその答えがある。

 不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊っとい」
 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯って、百年、二百年、乃至ないし千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
 だから私の他に与える助言はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。

(夏目漱石『硝子戸の中』)

 そう、恐らく夏目漱石は『彼岸過迄』を書く際にアメリカの黒人のことを考えもしなかった筈であり、同じ意味で先祖から引き継いだ生を考えこそすれ、この生の許す範囲外のことは考えもしなかったのだろう。その死の問題は『こころ』で芥川の『死後』のような形で見極められ、『道草』では再び忘れ去られた。

 この黒人だか素人だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉を心持八の字に寄せて俯目勝がちな白い顔と、御召の着物と、黒蛇の目に鮮かな加留多という文字とが互違いに敬太郎の神経を刺戟した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この「黒人」にさえ、アメリカの黒人は敏感に反応してしまうかもしれない。何故淫売が黒人なのかと。いや「素人だか黒人だか、大体の区別さえつきませんか」とその区別を問うこと、「私生児だか普通の子だか」とその区別を問うこと自体が今ではポリティカル・コレクトネスに反するのだろうが、須永市蔵は脳天から骨の底まで打ち込もうと文鎮を構えているのだ。田川敬太郎は田口千代子のおけつを睨んでいるのだ。松本恒三は奮発して子供を拵えるのだ。それが夏目漱石作品なのだ。

 生に執着しているのが夏目漱石作品なのだ。生きてある命を描き、「男と女」「素人と黒人」「私生児と普通の子」に拘ったのが『彼岸過迄』なのだ。『彼岸過迄』にはアメリカの黒人に関する配慮と「老いと死」というテーマがない。ただ父からの遺伝、祖父からの遺伝が意識され、私一代で解脱する事ができない生というものが確かに捉えられている。

 人類の一人として夏目漱石という人類の一人に向う時、やはり夏目漱石の時代と思考の鋳型を前提にしなくてはならないだろう。死について考えるのは死んでからでいい。

 違うか。

 [余談]

 正直あまり気分が良くない。日本の文系とはこのレベルなのかと愕然とする。分かっていない人が解っていない人を再生産するシステムが汚染データを積み上げていく。何の悪気もなく、ただ読解力がない。権威主義に陥り、虚心に読むということが出来ない。
 この状況で夏目漱石はこんなことを書いていますよとか、

 谷崎潤一郎は「ドミナ捏造論者」ですよと書いても、

 到底理解されないだろうなと思う。芥川にしても、

 読解力のない教えたがりに汚されている。私はこの記事の編集者が教師あるいは元教師ではないかと疑っている。学ぼうとはしない者たち。永遠に気が付かない人たち。そんな人が堂々と本を出している。
 その現実はなかなか不愉快なものである。 





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