芥川龍之介の『点心』をどう読むか① 正々堂々と隠されている
鶉居はどこからきたの?
御降り
この話の面白いところは、鴨居にぶら下がった少年が落ちたかどうなのか解らないところ、その顛末を曖昧に、「して見れば御降りの記憶の中にも、幼いながら嫉妬となぞと云ふ娑婆界の苦労はあつたのである」といじめられた方の「娑婆界の苦労」を見ないところにある。
つまり落ちがなく賺している。
その程度の話だ。
というわけでもない。
いきなりタイトルが「点心」で「蓬莱」が出てきて中華料理の話かと思ったら、そういうことではなかった。
御降りや竹ふかぶかと町の空
こう詠むのにわざわざ「私の家は鶉居ではない」と前置きしてあるのはどういう意味なのであろうか?
よく読み直してみるとこの「私の家は鶉居ではない」という前置きは唐突で、後ろで綺麗に引き取られていない。「鶉居」とは住居が一定しないこと、また、一時的な止宿先、かりずまいのことである。
これは言わずもがなこのとき読んでいた「つづらふみ」(『藤簍冊子』)の上田秋成に無腸ほか「鶉居」という号があり、『藤簍冊子』巻六の「鶉居」のところを読んでいた、という事情があっての唐突さなのであるが、そう説明されなくては何の話か理解できないだろう。
つまり「つづらふみ」(『藤簍冊子』)がなんなのか解らないと、何故「鶉居」なのかが解らない。
この「鶉居」の由来は正々堂々と隠されている。
そしてこの「鶉居」が後ろで綺麗に引き取られていないのは、この「御降りや竹ふかぶかと町の空」に「鶉居」の取り合わせがないからだ。
ちょっとしたもの書きならば必ずここに「鶉居」と「御降り」の取り合わせを持ってきたいと考える筈だ。しかし大変遺憾ながら芥川龍之介はちょっとしたもの書きではない。滅多に理解されなかつた恐しい糞やけになつた詩人である。
そんな男はやることが違う。
既にあるものを利用して落とす。こういうやり方をアウトソーシングというのだろうか?
隠れ住んで此の御降や世に遠し 漱石
生涯借家に住み続けた師・夏目漱石の句がくしくも「御降り」という題と「私の家は鶉居ではない」というふりを綺麗に取り合わせてくれている。
これで落ちている。
こういう偶然はない。
こんな天才は他にいない。
しかし誰にも理解されないまま空しく死んだ。
いまだに誰にもその天才が理解されていない。
そんな馬鹿な話もないものだと思うが、これは紛れもない現実なのだ。
誰も芥川作品の凄みを知らない。
師・漱石も。
むすぶより荒れのみまさる草の庵を鶉の床となしや果てなん 無腸
【暮らしのメモ】
一時雨礫や降つて小石川
これは芭蕉の句だが、小石川とあるので知らない人に漱石の句だと言えば信じそう。
芭蕉の句を素早く検索したいときは、このサイトからCTRL+Fで「何々」とやるのが効率が良い。駒込動坂淸風山房主人に感謝。
【付記】
一つ見落としていた。
「私の家の御降りは、赤ん坊の泣き声に満たされてゐる」に対して芥川の俳号が「我鬼」なので餓鬼とかかっている?
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