島田一人でもう沢山なところへ
ここにおいてなかなか読み切れなかった例の手紙の趣旨は結局「金をくれ」というものだったことが明らかになる。実際ありとあらゆる、いや、99パーセントのメッセージは「金をくれ」に尽きる。「金をくれ」「買ってくれ」それ以外のメッセージはごくわずかだ。
この『道草』という作品は一面において健三が寄ってたかって金をせびられる話だ。
現時点ではまだ姉の御夏が小遣いの値上げを要求しただけだが、門司の叔父の「儲け話」が既に控えている。さあ、次は誰が来るのかと考えさせるところだ。
經濟上の苦境に陥いって来た
と言っているそばから妻の父の苦境が出てきた。どうも父の財産は長太郎が使い果たしてもうない。元養父がややこしいことを言ってきている。門司の叔父もややこしいことを言って来そうだ。突然御常が来るかもしれない。そこに妻の父がきたらこれはさすがに無下にも出来まいが、何しろ金が足りないというので忙しいのに仕事を増やしたばっかりだ。夜の帰りも遅い。
段々負荷がかかってきた。
己は駄目だ
岩波はこの「記憶に関する新説」に注解をつけて、それがベルクソンの『物質と記憶』にあらわされた説だとした上で、漱石蔵書目録に『物質と記憶』はなく「作中で健三がベルクソンについて詳しく知っていることは、作品に設定された時間からは不自然なことである」とする。
いや、漱石蔵書目録にないのだから、「不自然」ではなく「不可能」なのではなかろうか。
そもそも岩波は「現実世界とは異なる時間に支配されているのが作品の世界である」と規定していた筈である。つまり漱石は何でもありの世界を書いているので現実的にはあり得ない「存在しないテキストの引用」が可能なのだ。
これは一人漱石だけが操るレトリックではない。元少年Aはダフネ君に一度だけ見せ、ダフネ君が即座に丸暗記し、ワープロで打ち込み、印刷して、事件の証拠として警察に提出した長文の詩「ちょう役十三年」を『絶歌』でそのまま引用してしまった。
そんなことはありえないのではないか、とは誰一人言わない。馬鹿々々しい話だが、そういうことはたまに起こるのだ。
あの辺も昔と違って大分だいぶ変りましたね
今目の前で起こったように映像で流された事件でさえ、犯人が誰なのか解らないということがある。例えば9.11。調べてみれば調べてみるだけ解らない話だ。あるいは地下鉄サリン事件。これもおかしなところが多い事件だ。テレビはケネディ暗殺事件祖から安倍元首相殺害事件までおかしな映像を流し続けてきた。
健三も「あの辺も昔と違って大分だいぶ変りましたね」と「この間比田の所をちょっと訪ねて見ました」には面食らっただろう。それではまるで「用というほどの用があったわけでもありませんが久々に」が省かれて「この間比田の所をちょっと訪ねて見ました」のようであり、「しばらくあそこらへは行っていなかったもので行ってみると」が省かれて「あの辺も昔と違って大分だいぶ変りましたね」と言っているかのようである。これは四十六章なのだ。
つまり、二十七章の
この比田の話が俄然怪しくなってくる。袴を返しに来た長太郎からは既にこの間の相談通り島田の要求を断った旨を聞いている。それが三十六章。つまりいまさら島田がぶらりと久々に比田を訪ねましてねといえる筈がないのだ。仮に比田の言うことが正しければ、島田が適当なことを言っていることになる。しかし二十七章からこの四十六章の間に健三の曖昧で不確かな「過去」が挟まれていることから、いかにも時空が歪んでしまったような感じがする。
もう大分久しく会わないには違ない
それにしても「歪んだ事実」とは何だろう。あるいは「歪んでいない事実」というものがどうやったら見つけられるだろうか。「岸田首相の襲撃を捉えたカメラは事前に事件を知っているようで茶番だ」は誤り。といった日本ファクトチェックセンターが確認した事実が「歪んでいない事実」なのだろうか。日本ファクトチェックセンターは
と結論付けているが、逆に映像は一般人の背中に邪魔されているのでポジション取りが出来ていないことが解る。報道のプロがポジション取りが出来ていないことの検証はされていないようだ。つまりその映像だけからは「段取りを知っていた」かどうかは判断できないが、逆にその映像のみで「茶番でない」とまでは言い切れない。何故か報道のプロがポジション取りが出来ていない位置から経験に裏打ちされた撮影技法を見せた?
そう言うところは調べないで、「茶番」までを打ち消したい願望が見えるところがこの組織の怪しいところだ。
健三が島田に見た邪気もそういうものであろう。
七章と姉の言葉「この二、三年はまるっきり来ないよ」と四十六章の島田の「もう大分久しく会わないには違ない」はやはり絶妙に食い違う。何しろ島田は今の御夏と子供時分の御夏を比べているかのようだ。これでは「この二、三年はまるっきり来ないよ」とはならない。誰かが嘘を言っている。
しかし健三は明確には姉を疑うことができない。ここまで食い違う話をしている島田を疑うことで逃げようとしている。
法印か何ぞのように
岩波はこの「法印」に注解をつけて「この髪形をしているために、帽子をかぶらない習慣であったと思われる」としている。坊主なら頭巾の方が良かろうが、坊主でないなら帽子を被らない理由にはならない。根拠のないところからの思い込みによる主張である。
なぜ日本ファクトチェックセンターはこの点を指摘しないのだろうか。それはおそらく「この髪形をしているために、帽子をかぶらない習慣であったと思われる」という岩上の見解が現政権にとって危険なものではないからだろう。
問題の取り上げ方から立場というものが見えてくることもある。
[余談]
永久に、なら使えそう。