見出し画像

芥川龍之介の『歯車』をどう読むか50 何故「は」なのか?

 文章そのものに「もつともらしさ」はあるが内容は出鱈目、それは多くの漱石論や芥川論も同じだ。

 たとえば卒論マニュアルで学習した大学生はものまね論文しか書けないだろう。

 妊娠時期と津波が見えていないで『あばばばば』に関して何かを書こうとするのはどう考えても知ったかぶりの張ったりだ。

 少なくとも私は独善的であることを嫌い、フェアにやってきたつもりだ。トリックは使っていない。しかし私が書いていることを頑なに理解すまいとする人しかいないことを残念に思う。

 たとえば「も」について書いた。

 この「も」に意味があることは、

「僕もこの頃は不眠症だがね」
「僕も?――どうして君は『僕も』と言うのだ?」

(芥川龍之介『歯車』)

 このように書かれることで十分に意識的に使用されたことが想像に難くない。そのはずである。
 しかしそのようには読まれてこなかったことに反省する人がいない。
 ではこの「は」はどうか?

 僕は又遠い過去から目近い現代へすべり落ちた。そこへ幸いにも来合せたのは或先輩の彫刻家だった。彼は不相変らず天鵞絨の服を着、短い山羊髯を反らせていた。僕は椅子から立ち上り、彼のさし出した手を握った。(それは僕の習慣ではない、パリやベルリンに半生を送った彼の習慣に従ったのだった)が、彼の手は不思議にも爬虫類の皮膚のように湿っていた。
「君はここに泊っているのですか?」
「ええ、……」
「仕事をしに?」
「ええ、仕事もしているのです」
 彼はじっと僕の顔を見つめた。僕は彼の目の中に探偵に近い表情を感じた。

(芥川龍之介『歯車』)

 やはりここも意識的に使われているのだろう。

 どの「は」のことか?

 全ての「は」だ。

 副助詞「は」は、「僕」は天鵞絨の服を着ていないこと、或先輩の彫刻家は立っていたこと、或先輩の彫刻家はこのホテルに泊っていないことを示している。そして「僕」の手は湿っていないことをも。

 しかし「僕」の手は湿っていない、と書いた人がいるだろうか?

 これも全部は調べられないが、恐らくいないのだろう。

 では何故、このホテルに宿泊していない或先輩の彫刻家が現れ、「君はここに泊っているのですか?」と尋ね、その手は湿っていたのか?

 それはこのホテルが宿泊以外の目的でも利用されるものであることを意味し、或先輩の彫刻家がハンカチでしっかり手を拭かなかったことを意味している。パリやベルリンに半生を送った彼が立ち寄ったホテル、そこはどんなホテルか。
 このホテルには宿泊客以外も出入りするのだ。

「どうです、僕の部屋へ話しに来ては?」
 僕は挑戦的に話しかけた。(この勇気に乏しい癖に忽ち挑戦的態度をとるのは僕の悪癖の一つだった)すると彼は微笑しながら、「どこ、君の部屋は?」と尋ね返した。
 僕等は親友のように肩を並べ、静かに話している外国人たちの中を僕の部屋へ帰って行った。

(芥川龍之介『歯車』)

 挑戦とは「僕」の部屋に来て、女の痕跡でも探してみればいいという意味なのだろう。「僕」がどれだけ一語一語味到する精緻な作風で知られているのかを試してみればいいというのだ。どの品詞の役目も知り尽くし、抜かりなく使う男であるという自負を示しているのだ。 

 思い返してみれば、このホテルは何故か外国人の多いホテルだ。

 それでも調子に乗ってあまり話し込むと壁を蹴られるかもしれない。

 或先輩の彫刻家がハンカチでしっかり手を拭かなかったのは何故か、そこは分からない。洗面所のタオルが切れていたのかもしれない。しかし一度も雨の降らない『歯車』の中にあって、或先輩の彫刻家の手が湿っていた以上、少なくともこの或先輩の彫刻家は手を洗ったのだと考えるべきだろう。

 では何故手を洗ったのか?

 それは分からない。

 彼は僕の部屋へ来ると、鏡を後ろにして腰をおろした。それからいろいろのことを話し出した。いろいろのことを?――しかし大抵は女の話だった。僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった。が、それだけに悪徳の話は愈僕を憂鬱にした。僕は一時的清教徒になり、それ等の女を嘲り出した。
「S子さんの唇を見給え。あれは何人もの接吻の為に……」
 僕はふと口を噤み、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬を貼りつけていた。
「何人もの接吻の為に?」
「そんな人のように思いますがね」
 彼は微笑して頷いていた。僕は彼の内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注意しているのを感じた。けれどもやはり僕等の話は女のことを離れなかった。僕は彼を憎むよりも僕自身の気の弱いのを恥じ、愈憂鬱にならずにはいられなかった。

(芥川龍之介『歯車』)

 二人の話は女から離れない。つまり「僕」が仕事もしているように、或先輩の彫刻家の手は彫刻刀以外にも触れたに違いない。それは何か。

 それだけは絶対に誰にも分からない。

 分かるはずがない。

 芥川は「僕罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった」と書き、「僕罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった」とは書かなかった。女に関する悪徳の話をする先輩の彫刻家を一緒に地獄に引きずり込まない。「僕」の地獄は自らコック部屋に迄さ迷い歩いて求めたものだ。

 コック部屋?

 何故厨房と呼ばない?

 地獄は女に関する悪徳くらいで誰にでもやすやすと与えられるものではない。

 廊下はきょうも不相変らず牢獄のように憂鬱だった。僕は頭を垂れたまま、階段を上ったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。コック部屋は存外明るかった。が、片側に並んだ竈は幾つも炎を動かしていた。僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちの冷やかに僕を見ているのを感じた。同時に又僕の堕ちた地獄を感じた。

(芥川龍之介『歯車』)

 ジャッキー・チェンでもあるまいにコック部屋を通り抜ける「僕」は、本当は腹が減っていたのではないのか?

 それにしてもろくに飯も食べないで「階段を上ったり下りたりしているうちに」とは、妙に元気なものだ。ほとんど何も食べていないのに、下半身だけは元気なようだ。

 それにしてもこのホテルには昇降機もないのか、そう言えば、爬虫類なんかいつ触るのだ? そもそも爬虫類の皮膚は湿っているのか? 河童か? 河童は両生類だろう。河童にとって蛙と言われることが最大の屈辱であるならば、やはり龍が「にょろにょろ君」と呼ばれることも屈辱ではないのか……。

 
 と、まだまだ書き足りないことが本当に山ほどあるが、『歯車』に関しては一旦ここで終わることにする。

 今日は「は」という副助詞の使い方だけでも覚えて帰ってください。

※「コック部屋」という言葉自体は、

そのうちにカッフェはおのずからまわり、コック部屋の裏を現わしてしまう。コック部屋の裏には 煙突  が一本。

(芥川龍之介『浅草公園――或シナリオ――』)

 ほか、

コック部屋の 隅  には、粗末に食い散らされた空の蟹罐詰やビール瓶が山積みに積まさっていた。

(小林多喜二『蟹工船』)

コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。 秋はいゝな……。 今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。

(林芙美子『放浪記』)

 など、割と使われていた言葉だった。当時は厨房は「くりや」として使われることが多かったようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?