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谷崎潤一郎の『The Affair of Tow Watches』を読む 皇国史観に物申す

 ウイキペディアの作品リストを眺めると、この『The Affair of Tow Watches』の題名はなく、『刺青』(しせい)の前には早稲田文学に投稿した『一日』という没作品があり、この失意により神経衰弱になったとの説明がある。『一日』を読んでいないので落選の是非については何とも言えないが、『誕生』が小品ながらきりりとした知性を見せており、『象』は抜かりない小器用な作品である。『一日』にもそれなりの期待が持てることから、それが全集からも漏れていることは残念である。他にも収載すべき名作がたっぷりあることから抜け落ちてしまったのかもしれないが、選集ならぬ全集ならば、収載してほしいものだ。
 というのも『The Affair of Tow Watches』は一見『誕生』や『象』で見せた凝った意匠や隙のない文体を離れ、悪く言えば現代的な筋のない話に落ちているように思えるからである。この落差を説明する何かが『一日』にあるのではないか。

 杉(笑い声が大きい、青森出身、法科)、原田(二人をさん付けで呼ぶ、法科、下宿は千駄木)、私(一人だけ実家暮らし。文科。父親は相場師。山崎祿造)の三人(三人とも実家が貧乏。高等学校からの知り合い)の大学生が、丸善から刊行された定価百五六十円の「ヒストリアンスヒストリー」を手付の五円で手に入れ、百円で売り、月賦を二十か月三人で分担しようと計画しながら、時計を二つ質屋に売っても五円の手付が用意できず、結局牛鍋で酒を飲んで大きな話をするという……言ってみれば明治以降どの時代にもありそうな、貧乏学生の滑稽な「何も起こらない話」に見えるのだ。
 そしてその語り口は淡白でいささか軽く、素朴で、どこか野暮でさえある。
 無論、そんなあらすじや語り口を私が信用する筈はない。ここには明らかにおかしなものが隠れている。

「あれがかい? 眼のキリキリ吊るし上つた、パサパサした女だろ?」
「ふむ、さうだらうよ。さふ云ふだらうと思つた。あれは君、散々道樂をし抜いて、女に飽いた男が好くんぢゃ。あの女の糞なら嘗めるがナ私や。」
「其れだけは止して吳れ。穢いから。」
杉は仰山に顏を顰めて見せる。
「糞を嘗めるは好かつた。僕は賛成だ。」
何でも一風變つた事だと私はイコヂになつ賛成するのだ。
「いや、どうも君達には驚く。何も糞を嘗めて見せなくつても好ささうなものだ」(谷崎潤一郎『The Affair of Tow Watches』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 キリキリ、パサパサ、イコヂ……こうした表記には一種の軽さがある。キリキリはかなり古くからある擬音だが、パサパサと重ねることでやはり軽くなる。意固地と書かないでイコヂと書くと、少し足らない感じがしてしまう。安吾が権威を嫌って多用した表記だ。三島由紀夫ならここで狷介と書き、夏目漱石なら蒟蒻閻魔と書くところだ。
 この表現の隙でごまかしてさりげなく、「糞を嘗める」という嗜好が漏れているようにも思われなくもないが、ここは深読みを避けよう。

「どんなぐあいだ? 元気を出せよ。フォスターがお出ましなんだ。やあ、こんにちは!」彼はヴァイダにいった。「こいつは驚いた、すごい別嬪さんだ! こん畜生、ここへ来てよかったぜ! 一マイル一マイルが価値があったというもんだ。あんたのうんこのなかに立つためなら、こごえるような朝に裸足で十マイルだって歩いてみせる」(『愛のゆくえ』リチャード・ブローティガン、青木日出夫訳、新潮社、昭和五十年)

 ここで肛門ではなく排泄物に向う意識については「汚物嗜好は自虐的下降の極致とされる」(『ある夢想家の手帖から 2』、都市出版社、昭和四十六年)という専門家・沼正三の指摘を確認するにとどめておこう。

 平中は殆ど気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛れもない、飛び切りの沈の匂である。
「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」
 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子を煮返した、上澄みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木かな?」
 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急たちまち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」(芥川龍之介『好色』)

 確かに芥川の『好色』には自虐的下降とでもいうべきものが見られる。しかしむしろ問題はここで「糞を嘗める」ことを批判する杉がむしろ「頭が悪い」ことを告白していることなのだ。「毎朝五錢の往復切符で割引の電車へ乗り、複りの方を誰かに安く三錢位で賈るとするんだね。すると最初の日は五銭で買つて三銭で売るから差引二銭の損になるが、二日目から其の賈つた三銭に二銭足して割引へ乗り、又複りを三銭で賈る。今度は二銭出して三銭入るから一銭儲かる譯だ。」…と杉は言いだす。無論この刻蕎麦じみた間違った皮算用は、手付の五円で百円儲けようという抜群の思い付きの前振りである。彼らは計算ができない。合理的な判断ができない。真面ではない。ただあくまで形式的には、「糞を嘗める」ことを批判した杉こそが一番真面ではないという前置きになる。

 しかし山崎は本当に真面ではない。この頃はHypochondriaに陥っており、独りになると獰猛なる強迫観念に襲われ、居てもたってもいられなくなるところが、手付の五円で百円儲けようという話がまとまった夜に限って、そうではないものが現れる。下駄の鼻緒が切れたので手拭いで足を縛り付けたからだ。山崎は一つの真理を発見する。神経が下駄の方へ使われて、少しも怖ろしくないのだ。そしてそれからそれへとまとまりのない思想の断片が
脳中をくんずほぐれつする。

 而も其れ等が皆バイブルや論語の格言以上の價値と權威とを有するやうに思はれ、發見の度每に獨りで感服したが、次ぎの發見に移る時分には大概前の眞理を忘れて居た。(谷崎潤一郎『The Affair of Tow Watches』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 山崎は電車に乗って足が楽になると今にも往来へ飛び出して駆け出したいような恐怖に襲われる。動悸がうち、心臓の血が凝結するような気がして肋骨を抑え、「死にそうだ、助けてくれ」と隣の客にむしゃぶりつきそうになるのを何とか堪え、水天宮前で電車を降りると渾身の意識を「駈ける(ランニング)」という一点に集めて箱崎町の家まで奔馬のごとくポンポン駈ける。

 先日私は「昔はランニングとかジョギングなんてものはなかった。走ると野犬に追いかけられた。日本でジョギングがなんとか認知されるのは1970年代後半で、むしろストリーキングの方が先に流行している。今日私はサンダル履きでジョギングするおじさんを見たが、昔ならこういう人はたいてい泥棒である。」と書いているが、確かに夜中に素っ頓狂な声を上げて走っていくおじさんはたまにいる。谷崎潤一郎はここで明らかに独りでは神経衰弱になってしまう男が友人と酒を飲めば気が大きくなる様子を書いている。夏目漱石の神経衰弱善人説までは至らないまでも、そういうものと向き合いかけている。

 この小説は最後に足利尊氏は偉いという素っ頓狂な話で閉じる。秀吉や家康の比ではないと言われてすぐ、中島久万吉が足利尊氏を褒めたため商工大臣を追われたことを思い出す人もいるだろう。皇国史観に於いて後醍醐天皇に背いた足利尊氏は謀反人なのである。この皇国史観のねじれそのものは、幸徳秋水が指摘した南朝正統説や楠木正成の持ち上げられ方と併せて本当に訳の分からないものではある。ただとりあえず当時、足利尊氏は偉いと書くことはかなり剣呑なことなのである。だから私はこの谷崎潤一郎にも底知れないいかがわしさを覚えざるを得ないのである。ここには確かに明確なロジックがある。何かがこっそり否定され、何かがこっそり仕掛けられている。

 この小説は確かに大正二年、1913年、籾山書店から『悪魔』という本に収められて出版されている。南朝の後醍醐天皇に背いたからと言って、北朝の領く大正の世に何が剣呑なのかと、理屈の上でいうことはできるものの、皇居には確かに楠木正成像が威張っているので宮内庁に苦情の電話を架けても無駄である。白夜はカマトトすぎると文句を言うのは筋違いである。





【余談①】谷崎論は少ない(・・?

 夏目漱石論の多さ、そしてそのあまりのレベルの低さには呆れるしかない。誰一人あらすじにさえ辿り着いていないのに、好き勝手に書いている。しかしその一方で三島由紀夫の「作品論」や谷崎潤一郎の「作品論」は確かに少ない。三島由紀夫作品のいくつかを読み直して思ったのは、夏目漱石作品よりも難しい、→語彙が多いということが影響してはいまいかということだった。「日外」と書いていつぞやと読む。そんな作法が当たり前ではなくなりつつある。
 正確な話ではないが、かつて高橋源一郎が日本古典文学全集とスタンダールの両方を読んだ人間はいないというようなことを言っていなかっただろうか。これは実はきわどい指摘で、新日本古典文学大系と主要な世界文学全集、そして現代文学を一通り読んだという人は、これまで誰一人確認できない。まず自分の話として告白すれば『国家大観』を読みながら、これは果たして読んでいるのだろうか、それとも読み飛ばしているのだろうかと考えながら、読み飛ばしている。たまに引っかかる歌はあるものの、つっかえていては日が暮れる。普通の人の時間は、「万葉集」注釈を熟考することで終わる。主要な古典作品をさっと読み、主要な世界の名作をさっと読み、それで人生は終わる。だからといって焦っても仕方ない。私は谷崎潤一郎は早くして「大谷崎」になる決心をしたのではないかと疑っている。いくら見栄を張っても二十代で読んだ本などたかが知れている。そのことが解っていたからこそ、谷崎は福々しい老作家を目指したのではなかろうか。青年時代の人殺しでもしそうな鋭い目つきをそのままに、谷崎は三島由紀夫より真剣に日本文学のこの一筋に連なろうとしたのではなかろうか。
 谷崎論が少ないのは、谷崎が「大谷崎」だからでもあろう。谷崎を語るのに十分な情報を得るには何年の修養が必要なのだろう(・・?
 スイカを丸かじりするにはカバの口が必要だ。大谷崎を丸かじりする口は誰も持っていないだろう。

【余談②】そんなにするつもりなのか?

 昨日、両手に大量のトイレットペーパーを抱えて歩く若い男がいた。いわゆる買い占めというやつだ。しかしその量たるや尋常ではない。何年分かはありそうだ。そんなにするつもりなのかと不思議だ。マスクみたいに転売もできまい。
 うちの近所では箱マスクが三箱200円で売られている。そっちで拭いた方が安く……はないか。
 



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