小説など好きに読めばいいとは言いながら、最低でもここまでは読めていなければならないという最低ラインがあるからこそ、国語テストなるものが成り立つはずなのに、教科書にも採用されている夏目漱石の『こころ』について、著名な文学者、作家、評論家たちがことごとく読み誤っている、というのが私のこのnoteの中心的な主張だ。
では詩ならどうか。小説だからこそ正されるべきであり、詩ならどうでもいいのか。この問題をもう一度考えてみたい。国語教材としては三好達治の「土」が有名だろう。
この詩にはさして面白くもない「教え方」のようなものが用意されている。比喩とイメージの結びつきを教えようとしている。「そう見える」という感覚を伝えようとする。(ちなみにこの詩はつまらないが、三好達治のウイキペディアは惚けていて面白い。)では、これではどうか。
この詩に対して「既成の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊を表現しています」などとダダイズムのイデオロギーだけを押し付けてしまうと、この詩そのものの意味が消失してしまう。わずかな韻、言葉遊び、逆説と矛盾、ひたすら真面目になるまいという意思が見えるも、深堀りできる要素はない。ではこの詩はどうか。
一見これは日露戦争に向けて兵士を鼓舞する詩のように思える。『趣味の遺伝』とは真逆の姿勢である。保身のために書いたのか、それとも大真面目なのか、一瞬判断に迷う。しかし「大和魂の歌」を書いた漱石がそう簡単に魂を売る筈もない。
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」とはまるで稲垣足穂の『一千一秒物語』である。これは見事な詩になっている。では『從軍行』はどうかといえば、いかにも真面目につまらなく、月並みな言葉を並べて最後に、「瑞穗の國に、瑞穗の國を、守る神あり、八百萬神。」と「殷たる砲聲、神代に響きて、」と書きながら最後には現人神を否定して笑っている。よく読むと、
もおかしい。
と、敵は北方にいることになっているのに、
ということは殿上人が敵なら武士はそちらに向かいますよと、妙な理屈になってしまっている。そう気が付いてみると、
も可笑しい。神代が腥さき世で幻影ではいけないだろう。罪の稻妻とは誰の罪で、暗く搖く呪ひの信旗とはどちらの国旗なのだろう。よくよく考えてみれば『從軍行』は唐代の詩人・王昌齢の「從軍行」からきており、「但龍城の飛將をして在らしめば胡馬をして陰山を度らしめず」と立派な将軍がいないことを嘆いた詩のパロディではないかという気がしてくる。これはやや乱暴な解釈ながら、ここまで考えたところで最初の「日露戦争に向けて兵士を鼓舞する詩」という印象がすっかり消えてしまっている。イデオロギーの皮、イカの皮を向いてみれば、漢詩の達人の崩し、破調、ダダイズムが見えてこないだろうか。さて、この感覚がどこまでが確かなことなのか、まだ検証が必要だろう。詩においても、詩だから読み飛ばしでいいという訳ではなく、まさに読み直しが必要なのだと私は考えている。