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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか⑱ にょろにょろ君じゃないか

 私はこれまで『歯車』という作品の中で、「歯車」がいつ間にか「銀色の翼」に変わることの合理的な説明を目にしたことがない。あるいは芥川が言うところの「歯車」の意味も「銀色の翼」の意味もさして明確ではない。
 一般に「銀色の翼」は飛行機、軍用機の翼の形容であった。むしろそうでない用例は乏しい。そう考えてみてもやはり「歯車」がいつ間にか「銀色の翼」に転じる意味は明確にはならない。「歯車」は組織の一部として、部品のようになり下がり、人間らしさを失った人の生き方の比喩としてしばしば用いられてきた。しかし『歯車』では主人公の視界を塞ぐ具体的な障害として現れ、そうした月並みな比喩性を拒む。
 つまりそれはどういうことか。

 ある日私は道路に落ちていたジグソーパズルの一ピースを見た。それは間違いなく現実なのだが、まるで使い古されて、擦り切れた比喩のようだった。

 芥川は「或狂人の娘」という言葉を『或る阿呆の一生』で分かりやすくあの人のことだと解説しながら、「歯車」がいつ間にか「銀色の翼」に変わることの合理的な説明を断固として拒否した。
 その「銀色の翼」は芥川作品に出現する言葉たちとの関連から上空を飛ぶ飛行機や、剥製の白鳥や、人工の翼などと言われてきた。

 それにしても皆さんは、伝説のドラゴン、つまり龍というフォルムにおいて、その翼が如何にも貧弱で、全くロジカルではないことをどう捉えて来られたのであろうか。

 私はこう考えている。龍はその理不尽な翼でこそ天に昇るのだと。よくよく考えてみれば、芥川龍之介が世間大評判になったことは、芥川龍之介の知性から眺め降ろせば、実に珍妙な光景だったに違いない。夏目漱石に『鼻』を激賞されたところまではいい。しかし『羅生門』の先進性は同期には認められなかった。ただ顔がいいので皆で押した。結果として芥川は時代の寵児、麒麟児となった。こんな理不尽な翼はなかろう。

 

 芥川龍之介自身がそのドラゴンの翼の小ささを疑問視していたことはまた確かだ。例えば『後世』を眺めてみればよい。

「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフェニックスと云う鳥の、……」

(芥川龍之介『歯車』)

 そう言ったそばから現れるWorm、つまり「にょろにょろ君」もまた「麒麟や鳳凰のように或伝説的動物を意味している言葉」なのだ。

 僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子(じゅりょうよし)」と云う言葉を思い出した。それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐して帰郷したと云う「韓非子」中の青年だった。今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。

(芥川龍之介『歯車』)

 翼のあるはずのドラゴンが自らにつけた寿陵余子というペンネームは、やはりまた「にょろにょろ君」である。

――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払うようにし、丁度僕の向うにあったポスタアの展覧室へはいって行った。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。しかもその騎士は兜かぶとの下に僕の敵の一人に近いしかめ面を半ば露わしていた。僕は又「韓非子」の中の屠竜の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。

(芥川龍之介『歯車』)

 

 空高く舞うドラゴンは誰にも刺殺されることは無い。

 聖ジョオジらしい騎士が一人刺し殺していた翼のある竜の翼は役に立たなかったのだ。その竜はにょろにょろ君だったのだ。

 固定された『歯車』という題名は本人が付けたものではない。その題名が主題として強く意識され過ぎて作品の解釈が歪んでは仕方ない。歯車はいつか翼に転じる。

 そのことは「あの飛行機は落ちはしないか?」という「にょろにょろ君」の不安につながるのだろう。
 龍之介が蛇行匍匐する青年、寿陵余子というペンネームを思いついた時、当人はさぞ愉快だったに違いない。「にょろにょろ君」という意味に辿り着けない人にしてみれば、生前に墓を建てる次男以下の人? と曖昧なものではあろうが、意味が解ってしまうとこれほど皮肉なペンネームはない。

 あるいは寿陵余子というペンネームの意味が「にょろにょろ君」であることを明かしたことも、この『歯車』という作品の意匠の一つであると言って良いだろう。

 ずっと笑ってこなかった人は今更ながらくすっと笑ってあげてはどうだろう。

 なんせ龍之介が「にょろにょろ君」なのだから……。



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