意見と存在は別だよね【典座教訓】
意見と存在は別ということを、心がけたいです。
友達が、ものすごくあるアーティストにはまっていたとして、やれグッズだコンサートだと、毎回けっこうな金額を使っている。
そのアーティストの良さがちっともわからないし、お金の使いっぷりも心配。
熱狂的に、どんなに素晴らしいか語ってくれるけれども、自分の心は動かない。
もうこの話題飽きたんだけどなぁ、とちょっと思いながら相槌をうつ。
あなたは、その友達と「友達」をやめますか?
う〜ん、ちょっとついていけないなぁ、私置いてけぼりだなぁ、と感じて寂しいのは、その友達の言っている「意見」や「感想」であって、友達本体ではないですよね。
その人の「存在」は好きだから。
(いや違う、自分はそんなやつはもう知らん!と言う方は…また後日別のお話でお会いしましょう(笑))
これ、友達のような近しい人じゃなく、もっと遠い存在の人にも当てはまりませんか。
ちょっとしたことで、キライ、苦手、ムカつく…
意見が合わない、理解できない、=敵。
勿論、私もあります。よくあります。(笑)
そもそも色んな言葉を気にし過ぎるので、疑心暗鬼が先行して、悪い方に想像したりして、面倒臭いなと自分でも思います。でも、
否定されて嬉しい人はいない。
誰かの言葉に傷ついている自分がいて、そういう自分も知らないうちに、どこかに悪意を放っているかもしれない。
合わないとしても、その人だって朝起きて、仕事に行き、食事をし、考えて、笑って、悩んで、自分と同じように生きている。
自分が絶対正しいと思うから、争う。
その可能性を忘れないようにしたいと感じた一冊です。
仏教には詳しくないのですが、典座(てんぞ)という、山にこもっているお坊さん達の食事をまかなう係に興味を持ったので、読んでみました。
鎌倉時代初期の禅僧、日本での曹洞宗の開祖、道元禅師がしたためられ、藤原宗哲さんが訳され、途中で他界された為、柿沼忍昭さんが補完されています。
「食に上物下物なし」
「人に上品下品なし」
(本文より)
どんな食材でも、自分の瞳を洗うように大切に扱い、来し方を思い、ありがたく頂戴する。どんな食べ物だって、口に入れば、勝手に歯は噛み砕き喉を通り、身体への栄養になる。
どんな人間だって欠点はあり、ましてや、自分が欠点と思っているところが、他人から見たときに欠点だと、どうして、わかろうか。
とても、考えさせられ、自分を振り返させられる内容でした。
私は知らず知らずのうちに、少ない情報で、他人を判断していないか?
……
はい、やりがちですね。
人間って業が深いですね。(涙)
干し柿の白和えや、茗荷の炒め煮などレシピものっています。
穏やかな気持ちになりたい時に是非一度、読まれてみて下さい。
最後までありがとうございました。
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