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ルイ・フイヤード『ファントマ』時代を築いたある"犯罪者"のアイコン

嗚呼サイレント映画、私の心を掴んで離さない魅惑の映画たち。最小限の説明に最大限の効果を発揮させ、倫理感がいい意味でも悪い意味でもぶっ壊れていて、世界中がもっと密に繋がっていた時代の結晶。第八芸術となるために、絵画や文学に喧嘩売ったり迎合したり、カメラの新しい使い方を競い合ったりといった発展は、20世紀を映画の世紀にした。そんな大好きなサイレント映画の中で、長年の課題になってしまっていたのがルイ・フイヤードの連続映画としてこの世に生を受けた『ファントマ』シリーズなのだ。理由は長い上に入手困難だから。ということで、今回は映画版『ファントマ』シリーズを小説版と絡めて全部紹介しよう。

★『ファントマ』(Fantômas - À l'ombre de la guillotine)1913年

[すべての犯罪はファントマだ!] 

『ファントマ』シリーズはフイヤードの連続映画の最も成功した作品であり、新聞に掲載された悪党小説『ファントマ』をもとに第一次世界大戦以前に作られた一連の連続映画群を指す。私が『レ・ヴァンピール/吸血ギャング集団』に熱狂したことは以前どこかで述べたが、本作品は日本でも中々出回らない鑑賞難易度の高い作品群だった。

本作品は『ファントマ』映画群の第一篇であり、勿論小説第一巻『ファントマ』を参考に描かれている。原作の冗長な表現をテンポの良いアクションにするため、主に三部構成となっている。ダニドフ公爵夫人の宝石強盗と"すべての犯罪はファントマに帰する"という主題の提示、ベルタム卿失踪事件とジューヴ警部&ファンドールによるファントマ逮捕、そして死刑判決とファントマの脱獄である。原作では誘拐された舞台俳優ヴァルグランがファントマの代わりに処刑されてしまうが、あまりに残酷なためソフトになっている。

"ファントマとは誰でもない、しかし誰かなのです!"という台詞が象徴する小説におけるファントマの変幻自在性をフイヤードは映画的にするため、冒頭の人物紹介でファントマが誰に変装するかを見せてしまう。しかし、これによって実際に何者でもなかったファントマという怪物がルネ・ナヴァールの顔を借りて世界に誕生したことになる。ファントマのイメージと言えばマグリットが後年『炎の逆流』でそのまま登場させた山高帽に仮面を付けタキシードを来た紳士がパリに足をかけている姿なのだが、その姿は本作品では登場しない。

また、興味深いのは演劇(ヴァルグラン)を映画(ファントマ)が処刑するという構図である。アリス・ギィの作った短編娯楽映画群→社会派映画や文芸映画など映画をより高位に押し上げようとしたフイヤード最初期映画群→それだと客が入らんということで心機一転したコメディ『ベベ』シリーズや『ブ・ドゥ・ザン』シリーズなどフイヤード初期連続映画群というゴーモン映画の流れから見ても、この構図は演劇など前世紀的な芸術と袂を分かつという意味で必然と言えるだろう。

19世紀末からフランスは空前の新聞小説ブームであり、有名どころではデュマの『モンテ・クリスト伯』などが連載されていた。時代が下ると新聞各社が鎬を削り、世には大量の新聞連載小説が出回ることとなった。この最盛期から衰退期にかけて登場するのがジャーナリストのピエール・スヴェストル及びその右腕であるマルセル・アランである。スポーツ関係のジャーナリストだったスヴェストルが無くなった広告の穴埋めに小説を書いたことからキャリアをスタートさせ、繁忙期にはタイプライターで打つ暇がなく音声収録をそのまま文字に起こして出版したくらいの間隔で小説を書きまくった。そのなかで仕方なく生まれることとなった"口語体の語り口"や実際の三面紙を題材にしたような"なさそうであるような通俗的な事件"という側面がシュルレアリストたちを熱狂させることとなった。

ファントマ、ジューヴ、ファンドール。彼らの普遍的な価値を決定付けた本作品の流麗な幕開けにより、『ファントマ』シリーズはスタートする。

★『ファントマ対ジューヴ警部』(Juve contre Fantômas)1913年

[迷宮都市パリを縦横無尽に駆け巡る追跡劇]

本作品はフイヤード版『ファントマ』映画群の第二篇であり、小説第二巻『ジューヴ対ファントマ』を原作としている。

ジューヴとファンドールは怪しい医者とその手下の女を尾行し、ふたりはファントマを幾度となく追い詰めるが取り逃がす。やがてファントマの愛人であるベルタム卿夫人に辿り着いたふたりは彼女の屋敷に乗り込むが、すんでのところで屋敷を爆破される。生死不明というクリフハンガーだ。小説版は一冊で完結しているのでこのクリフハンガーが映画ならではだろう。

第一作で小説版から明瞭になったファントマ像が黒装束の登場によって再び不明瞭となるのが本作品の特徴であり、世に言う"ファントマ"像を映像で見せた最初の作品でもある。また、第一作では室内でのセット撮影だったものが本作品では郊外での撮影も増え、実際にパリを股に掛けるファントマの追走劇が幕を開ける。

また、本作以降小説版『ファントマ』の表紙を書いた挿絵画家ジーノ・スタラーチェによる影響が無視できなくなってくる。というのは、ファントマの一般的なイメージとして有名な第一巻の表紙は厳密にはスタラーチェの作品ではないものの、第二巻以降はスタラーチェがオリジナルで描いているからだ。そして、彼は作品の最も特徴的な場面を引用するのではなく、最も興味深い場面を引用するため(それはジャケ買いを誘発するための興味を引くように描かれているからだ)、フイヤードも印象に残って離れなかったのだろう。
第二巻の表紙は樽に入って転がるジューヴとファンドールであり、映画ではかなり唐突な展開になるもののフイヤードは必ず入れたかったらしい。これ以降の(フイヤード版以外の)ファントマ映画でも第二巻原作のものではほぼ必ず引用されている場面なのだが、ストーリー的には必ずしも必要ではない、というのが面白い。スヴェストルとアランが0(無)を1(文字)に、スタラーチェは1(文字)を10(絵)にすることで人々の記憶に残り続けたということだ。
ちなみに、第三作『ファントマの逆襲』では表紙絵の再現はないが、第四作『ファントマ対ファントマ』では黄金の小箱を拾い上げるシーン、第五作『ファントマの偽判事』では部下を鐘に閉じ込めて殺害するシーンはそれぞれ原作となる小説の表紙絵をモチーフに作られている。

★『ファントマの逆襲』(Le mort qui tue)1913年

[悪は日常生活の目と鼻の先にいる!]

本作品はフイヤード版『ファントマ』映画群の第三篇であり、小説第三巻『殺人する死体』を原作としている。ちなみに、五作ある映画では最長となっている。

第二作のクリフハンガーの回収。ベルタム邸爆破事件で辛うじて助かったファンドールはジューヴの死亡記事に嘆く。時を同じくして浮浪者クラナジュールが密売組織の新入りとして働き始める。ある日、陶芸家ドロンがファントマに襲われて目を覚ますと、そこにはパトロンの死体があり、彼は逮捕される。そして看守に殺されたドロンはファントマによって運び出され、手を切断される。その後警察は次々と起こる事件を指紋採取によって解決しようとするが、ファントマがドロンの手から作った"指紋手袋"によって操作は撹乱される。やがてクラナジュールとなっていたジューヴとファンドールは再会し、"指紋手袋"のトリックを見破るが、再び逮捕に失敗する。

実は小説『ファントマ』シリーズを連載する前にスヴェストルとアランが連名で書いた新聞連載小説『指紋』が原作の土台となっている。そのため、第一巻『ファントマ』と同様推敲する時間があったせいか比較的"まとも"な作品に仕上がっているらしいが、ジューヴの生死のクリフハンガーのお陰でファントマ像が見え辛くなったのも確か。
勿論"指紋手袋"など科学的にはあり得ないと思うのだが、そういうエセ科学的な側面も『ファントマ』シリーズの魅力と言えるだろう。

この時代まで犯罪者とは労働者階級から出てくるものという認識があったが、ファントマは上流社会に溶け込み、しかもカーテンの後ろに潜んでいるという悪の普遍性を体現する存在に見えてくる。当初はどんな身分にも化けていたファントマも次第に上流階級の人間にだけなっているという変遷も見ていて面白い。
また、カーテンを開ければそこにはファントマがいるという悪の普遍性というか、ベル・エポックの実際のパリでファントマが悪事を働くリアルさというのが本作品の魅力の一つであろう。

スタラーチェは1(文字)を10(絵)にしたのに対し、フイヤードは10(絵)を100(動画)にしたという点で評価できる。フイヤードが脚本家畑からゴーモン、ギィに引き抜かれた→ギィの結婚引退に伴って看板監督に就任した話は『レ・ヴァンピール/吸血ギャング集団』で、その後芸術映画を作るも評価されず連続映画を作り始めた話は『ファントマ』で触れた通り。スヴェストルとアランがゴーモンに吹っ掛ける形で脚本を手にしたフイヤードは脚本のある程度の改変に彼らの許可を得ていた。原作がまだ完結していない時に映画化されたためフイヤード版『ファントマ』は原作小説『ファントマ』の人気を爆発的なものにするきっかけになり、スヴェストルもアランもフイヤードに感謝していた。

最早、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズのようになってきている気がするが、乱歩も怪人二十面相に本作品の影響を相当受けているであろうことが窺える。

★『ファントマ対ファントマ』(Fantômas contre Fantômas)1914年

[ファントマがいっぱい] 

本作品はフイヤード版『ファントマ』映画群の第四篇であり、小説第六巻『ならず者警官』を原作としている。原作全三十二巻のうち最も内容が濃い小説らしい。

ファントマが中々捕まらない中、ジューヴこそファントマである(『デスノート』でLがキラである的な)という投書からジューヴが逮捕される。彼の無実を証明するためファンドールは調査に乗り出す。やがてベルタム卿夫人がファントマ逮捕の懸賞金を目当てに仮装パーティを開き、ファンドールはファントマを挑発するために黒装束を身につける。別の警官もファントマの格好をして現れ、本人も登場して”ファントマ”が三人出席したパーティがお開きになる頃、本物ファントマは警官扮するファントマを殺害し、パーティから逃げ去る。かくしてジューヴは釈放され、ファンドールと共にファントマを逮捕するが、再び逃げられてしまう。ラストの落とし穴にジューヴとファンドールを落とすシーンは爆笑必至。

前作と同様、冒頭でナヴァール=ファントマ=黒装束という方程式を我々は見せられるのだが、パーティでファントマが三人出てきたことで彼のアイデンティティが揺らぎ始める。観客は終始誰が誰なのか判別できず、ついに判別出来るようになるときには一人の"ファントマ"が死んでいるのである。ここで提示される"ファントマ=不死"という小説全体或いは映画全体を貫く考え方はご都合主義的であるものの、ファントマの全能性を強調する側面もあり憎めない。

小説『ファントマ』シリーズそして連続映画『ファントマ』シリーズは当時の戦前アヴァンギャルド詩人たち或いは戦間期シュルレアリストたちに熱狂的に迎えられた。そして彼らはフイヤードは100にしたものを無限大(芸術)にすることで永遠に忘れ得ることのない普遍的な価値を”ファントマ”に付けることに成功した。彼らが熱狂した理由は様々言われているが、それが新聞連載小説という極めて通俗的かつ非芸術的だったこと、そして聖典と化していたロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』から継承された悪党の系譜という二点が多く挙げられているようだ。
社会規範はブルジョワが作ったものであり、それに追随する既存の芸術(演劇やら絵画やら)はカビ臭い代物だ、とした彼らにとって大量生産大量消費を前提に口語体で描かれた小説版『ファントマ』の登場はさぞかし強烈だっただろう。
また、『マルドロールの歌』に登場する悪漢マルドロール神出鬼没性や作品を貫くブラックなユーモアが『ファントマ』と合致しているらしい(読んだことはない)。
そして、小説版の登場後間を置かずに作られた連続映画によって、より高位の芸術となった"ファントマ"はベル・エポックの忘れ得ぬ輝かしき想い出として、人々に記憶され続けたのだ。

★『ファントマの偽判事』(Le faux magistrat)1914年

[さよならファントマ!パリを股に掛ける犯罪者ファントマの幕切れ]

本作品はフイヤード版『ファントマ』映画群の第五篇であり、小説第十二巻『泥棒判事』を原作としている。個人的には最もリズムが良く楽しい作品だった。

テルガル侯爵夫妻が金に困り、宝石を売ることになるが宝石も金も奪われてしまう。ファンドールはこれをファントマの仕業と睨むが、当のファントマはベルギーで収監されていた。フランスへの引き渡しに応じないため、ジューヴが彼の代わりとなり、彼を脱獄させてフランスへ入国させることで国内で逮捕することを思い付く。かくして脱獄したファントマは尾行を撒き、乗り合わせた予備判事プラディエを殺害して彼に成り代わる。赴任先のサン=カレではテルガル伯爵夫人を脅して金を巻き上げたり、元部下から宝石をせしめようとしたりするが、ファンドールに気付かれて逮捕される。しかし、プラディエとしての命令で釈放された彼はまたしても逃げ仰せたのだ。

第一次世界大戦によってその後の撮影が中断され、フイヤードは復帰後も二度と『ファントマ』の続きを作らなかった。しかし彼もまたファントマに囚われた人間の一人であり、『レ・ヴァンピール/吸血ギャング集団』『ジュデックス』ではそのファントマ的イメージの変遷を追うことが出来る。フイヤードは1925年に亡くなるまで連続映画を撮り続けたが、大戦前の熱狂を終ぞ取り戻すことはなかった。フイヤードは連続映画の最盛期を生き、その死とともに連続映画も葬られたのだった。

さよならファントマ。

★総括

本作品に決定的に欠如しているのはなんと言ってもヒロインの存在である。そして、それを解決したのが「レ・ヴァンピール/吸血ギャング団」だ。私は後者の方がリズムも良く、より適当で好きなのだが、本作品が熱狂的に迎え入れられたのも非常に理解できる。フイヤード、にくいねぇ。

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