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ダルジャン・オミルバエフ 作品評集

1980年代に起こったカザフスタン・ニューウェーブの騎手であり、現在に至るまでコンスタントに映画製作を続け、カザフスタン映画史に多大なる影響を与えた巨匠ダルジャン・オミルバエフ。彼の作品を通して観ると様々な特徴が見えてきた…んだが、一つずつの記事にするには短すぎたので、ここに全ての長編をまとめてみる。


『July』 1988 25min

"カザフスタンの新しい波"の代表的な監督として90年代に頭角を現したダルジャン・オミルバエフのデビュー短編。ある夏の怠惰な日に少年が映画を観に行く話。ベッドの上の涼しい場所を探して体をくねらせたり、映画館で好きな女の子の隣に座って肘掛けでせめぎ合ったり、夜の映画代として奪ったメロンを列車の乗客に売り渡すときに背伸びしたり、本作品には足や手に注目した場面が多い。身体の動きと感情の動きをリンクさせているようで心地よい。夢の中でオーケストラのピアノを演奏する主人公の少年の後ろをラクダが通るというブニュエルみたいなシーンもある。

『Kaïrat』 1992 72min

ダルジャン・オミルバエフ初長編作品。デビュー短編『July』でも描かれていた電車と映画館が本作品でも登場する。とはいえ満員の劇場で観ている映画が全裸の男女が荒野で抱き合ってるシーンなので、観客全員が無表情のままスクリーンを見上げてるのは実に滑稽。本作品にはこのような不思議なシーンが多々ある。なんの脈絡もなく母親を地上に待たせて観覧車に乗って、途中で止められたり、試験でカンペ問題に巻き込まれて会場を追い出され、その足で運転シミュレーションに乗って遊んだり、電車で窓の外を眺めていたら石を投げ込まれたり。そして、そのほとんどの場合で動作や行動を中断させられ、宙ぶらりんのまま次のシーンへと流れていく。軸となるのは映画館で出会ったインディラという電車で働く女性とのロマンスで、彼女への愛情と一種の恐怖から妄想と広がって悪夢に襲われるというもの。その全てがシンプルで淡々としているが、終始宙ぶらりんな状態とは絶妙にマッチしていて、溢れ出そうな感情を必死に覆い隠しているような妙な豊かさすら感じてしまう。殴り合いが鳥の羽ばたきになるシーンや新人コックとインディラとの駆け引きが電気のON/OFFになるシーンなど興味深い部分も多くあるが、ラストが一番良い。『デ・ジャ・ヴュ』のラストを思い出した。

『Cardiogram』 1995 75min

ダルジャン・オミルバエフ長編二作目。カザフステップのど真ん中で暮らす少年は周りに隣人も情報もないために、テレビを使って性的な衝動を受け止めていた。しかし、テレビを観るには貴重な燃料が必要で、無駄遣いするなと父親には怒られ、母親とも微妙な距離感がある。ひょんなことからロシア語の寄宿学校?的な場所に入れられた少年は、内なる性的衝動を解放していく。そんなロシア語を話せない少年の旅は、シンプルだが濃厚な視線劇で彩られている。最も顕著なのが保健室で若い保健教師を挟んだ医師のおじさんとの駆け引きで、二人は保険教師の一挙手一投足を目で追いながら、彼女がカーテンの向こうに消えると互いにマウントを取るかのように互いの顔を覗き込む。やれ年齢的なアドバンテージだの、やれ怪我の具合だの。或いは女子風呂を覗く窃視的な目線だったり、裸婦画を撫でる艶めかしい手付きだったり、ムッツリな情景を物静かにかつ情熱的に描いているのが興味深い。

ちなみに、本作品でも前作『Kairat』に登場した"電気のチカチカ=性的な駆け引き"と思わせるようなシーンや、映画館での肘掛けの取り合い=恋の駆け引きみたいなシーンがあり、思いついたアイデアは使い回すことが分かった。

『Killer』 1998 80min

ダルジャン・オミルバエフ長編三作目。息子が生まれたばかりの青年マラトは、病院からの帰り道に交通事故を起こして相手方から多額の請求をされることとなり、短期間で金を得るために危険な道へと進んでいく。事件の発端となる交通事故は、マラトが後部座席にいる息子の方を向いていたから起こったのだが、事故が起こるまで一切フロントガラスを映さず、黄色信号→息子の泣き声だけで事故を完成させているのが良い。また、本作品からドアの開閉を意識した構図が多数登場し、空間の線引と広がりを感じさせる。近代化によって貧富の差が拡大したカザフスタンの都市アルマトイにおいて、仕事はなくなり、科学は実用的価値なしと判断され、弱者は搾取され続けるというテーマの重苦しさは次作『ザ・ロード』にも引き継がれている。静寂に包まれた冷酷な現実を描くという点で興味深く、オミルバエフのキャリアの転換点とも呼べるかもしれない。

『ザ・ロード』 2001 85min

ダルジャン・オミルバエフ長編四作目。"作る映画すべてが傑作!"と紹介される映画監督の話。静かな車移動、川辺での殺人、帰宅したら見知らぬ男たちがいて画面外で殴られる、など前作『Killer』と全く同じシーンも散見されるが、この人は気に入ったシーンは何回も使い続けるので特に驚きはなし。ただ、"川辺での殺人"は映画内映画の一部分として、"どうやったら上手い表現になるか"という推敲を重ねていくように、様々なパターンで繰り返されるのが面白い。単純に撃って相手のマフラーが川に流されていくのか、近くにいた子供の投げたボールを取ったら撃たれてボールが転がっていくのか、犬の散歩をしている女性は映すのか要らないのか、等々考えるタイミングによって目に映る事物を取り込んでいって殺人シーンの表現手法のあれやこれやを考えていく様が面白い。暇な時間を使ってベストな表現手法を考え抜く感じはオミルバエフ本人を模しているのだろうか。彼の作品は毒にも薬にもならない唐突な夢オチ妄想シーンが多くて腹立つんだが、これは非常に面白い試みだった。

また、科学者やその発見は無価値とされている現代カザフスタンに薄く切り込んだ前作からその話題を発展させ、映画監督である主人公に"明白な評価基準のある科学は羨ましい"と述べさせているのも印象的だった。だが、素人エキストラにろくに説明もせずにエロシーンに出演させた上で、"芸術には犠牲が必要"と開き直るのはダメでしょ。散々プロデューサーが"この映画では…"と言っているのに、"映画は…"と主語をデカくして保身に走るのはダサかった。"作るすべての映画が傑作!"と紹介され、自分のスピーチでも映画について熱く語った後の新作プレミア上映で全く関係ない古い中国映画が流れて、観客が気に入っちゃってプレミア上映がおじゃんになるとこ好き。

『シュガ』 2007 91min

ダルジャン・オミルバエフ長編五作目。「アンナ・カレーニナ」を現代カザフスタンに翻案した作品。今回も実際に殴られるシーンを見せなかったり(『Killer』『The Road』)、観劇中にアルティナイ→アブライ→シュガの視線移動が成立していたり(『Cardiogram』)、過去作と全く同じシーンを繰り返していて心配になる。反面、原作におけるブロンスキーに相当するアブライと、アンナに相当するシュガに関連するシーンはどれも良い。列車の廊下で二人がすれ違うシーンでアブライがシュガの方を振り返る瞬間とか、二人が逢瀬を重ねるシーンでバックミラー越しに運転席のアブライ→助手席のシュガを映して二人が手を重ね合わせるシーンとか。特に後者はずっと後部座席に座ってきたシュガが主体性を持って助手席に座っているという対比が良い。似たようなシーンは『The Road』でも登場したが。最も印象的なのは(自分がカザフスタンのタルコフスキーと呼ばれているのを意識しているのか)人物がカメラを向くと扉が勝手に閉まるという超自然的なシーンで、ここで息子、夫、アブライの世界から閉め出されたシュガの状態を間接的に描いている。しかし、間接的に描くことに拘りすぎた結果、シュガの死を"蠍座の子供が生まれると親族が死んだという意味だ"とか言わせるなど意味不明な回り道をするシーンもあって散漫な印象を与える。そして、90分の中にアンナ、カレーニン、ブロンスキーの三角関係に加えて、リョーヴィンとキティの物語まで加えるので全体の描写が淡白になっているのは否めない。

『ある学生』 2012 92min

ダルジャン・オミルバエフ長編六作目。以下参照のこと。

『ある詩人』 2022 105min

ダルジャン・オミルバエフ長編七作目。以下参照のこと。


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