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エニェディ・イルディコー『Tamas and Juli』移り気なタマシュと一途なユリ

フランスの映画会社"Haut et Court"によって1998年に企画された国際映画プロジェクト"2000, Seen By..."の一本。他に9本の作品が同じプロジェクトから製作されており、有名どころだとツァイ・ミンリャン『Hole』や、ハル・ハートリー『ブック・オブ・ライフ』などがある他、アブデラマン・シサコやヴァルテル・サレスなども撮っていて、企画のワールドワイドさを物語っている。さて、本作品は企画の通り20世紀末である2000年を前にした人々の物語なので、ちょうど初長編『私の20世紀』が19世紀末の話だったことを考えると興味深い対応関係になっている他、『Magic Hunter』と『シモン・マグス』という映画史上の至宝に囲まれた作品でもあり、開始5秒くらいでその片鱗を垣間見ることが出来る。

舞台は大晦日の炭鉱。雪山、動きを止めて風に揺られる運搬カーゴ、ぬらぬら光る表面を晒すベルトコンベア、風に揺られて風鈴のような音を奏でるドッグタグと静かなイメージを並べた後、正月休みを前に浮かれる炭鉱夫たちが集う集会場が現れる。彼らの殆どが家に帰れるが、管理のためにも数人は残る必要があり、年末最後の定例会の中で指名された人物の名が読み上げられる。そんな中、本作品の主人公タマシュは恋人ユリから貰った手紙を読み返している。"あのカフェで待ってるわ"。しかし、当然のごとく管理者に選ばれたタマシュは、一言も発さずに炭鉱の深部へと下っていく。

本作品の大部分は回想として構成されている。タマシュとユリの出会い。初デート。喧嘩。仲直り。再び喧嘩。また仲直り。これらは全て夏の風景であり、移り気なタマシュと一途なユリのぎこちない恋愛の合間には、全てが雪に覆われた現在の姿を配置している。夏=回想の騒々しさと冬=現在の静けさは前者が移り気なタマシュ、後者が奥手なユリという視点人物の性格を表しているようで、非常に心地よい。特にコンベアから落ちる石炭→降り落ちる水→滝の連想が良い。炭鉱深部=タマシュと地上=ユリを繋ぐ場面は電話とテレビ取材という直接的な電子機器での繋がりを示したシーンが登場するが、それ以外ではここしかない。ただ、このタマシュの"移り気"というのが結構な問題で、ユリと踊りに行ったクラブで、彼女の小学校の同級生と出会った場面では、同級生がクラブのダンサーとして下着で踊ってるのをチラ見してたり、その後ユリと喧嘩別れして入ったバーで上村ひなの似の可愛い女の子をガン見してたり、炭鉱受付の若い娘に惚れられていてその気になっていたり、登場する女性陣には必ず一回は色目使ってるんじゃないかというくらいの浮気性。それが炭鉱、そして夏の騒々しさと共鳴しあっているのは良いんだが、そこまでユリのことを好きそうにも見えないのが中々強烈。手に入れられないからこそ的な燃え方なんだろうか。

最初からそれが起こることを知っていたかのような感動的なラストは、たった数秒だけの魔術的な空間のために60分の映画があったかのような感覚にすらさせられる。喧騒と静寂、黒=炭鉱と白=冬の地上、男女が混じりあった永遠とも思える若者たちの見つめ合いの美しさたるや。直後に新世紀の訪れとともに崩れ落ちていく炭鉱のイメージは逆にどこか刹那的で、『Magic Hunter』や『シモン・マグス』の優美な帰結とは異なり不穏さがある。ただ、これまでの別れと仲直りの経験を踏まえると、甘美で永遠とも思える仲の良い期間と、刹那的な感情のすれ違いからの喧嘩別れとは対応しているし、その不穏さが短尺な本作品を特異なものとしている。

・作品データ

原題:Tamás és Juli
上映時間:63分
監督:Enyedi Ildikó
製作:1997年(フランス, ハンガリー)

・評価:100点

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