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アンドレア・シュタカ『The Mistress (Das Fräulein)』チューリヒに降り立ったボスニアの天使

舞台はスイスであるが、そこに登場するのは世代の異なる三人の旧ユーゴ諸国からの移民女性である。各人の出自は様々で、チューリヒに来た理由も時期も異なるが、そのそれぞれが"生きているのに死んだような"状態にあり、それが旧ユーゴ諸国と完全に重なっていくのは必然なのか偶然なのかすら分からない。チューリヒで食堂を営むルジャはユーゴ戦争よりも前にスイスへと移り住んでいて、故国セルビアを"ユーゴスラビア"と呼んでしまうくらい、その記憶を封印してきた。映画は彼女の味気ないモーニングルーティンから幕を開け、一日中レジに立って一日が終わる。彼女の一日は事務的な会話以外は存在しないのだが、人を寄せ付けないそれら無愛想な対応によって、彼女は自分を守り続けているのだ。ドイツ語を母国語のように操るのは、その二面性の象徴のように聞こえてくる。職場の同僚ミラは、夫と共に故国クロアチアの海岸に家を建ててる計画のために出稼ぎに来ているが、夫が怪我をしたために要らぬ苦労が増え、彼の身勝手な行動にイライラがつのり始めている。

そこに、ボスニア人のアナが登場する。若い彼女は刹那的に生きていて、その日の宿もないような状態だ。"生ける屍"状態の二人に比べると、戦争を間近に経験した彼女はその忌まわしき記憶を覆い隠すような溌剌とした明るさに満ち溢れていて、その外面的な明るさが二人を変えていくことになる。しかし、内面は弟の自殺や自身の病気、戦争の記憶などでボロボロになっていて、刹那的な生き方も単に若気の至りとして片付けられない重みが加わってくる。それを"自暴自棄"と言ってしまうと彼女の魅力を矮小化してしまうのだが、結果的にそういった行為が悪循環を形成して徐々に身を滅ぼしていく様は非常に苦しい。だからこそ、底抜けに明るく振る舞うアナが、雪山の展望台で"死ぬのが怖い"と呟くシーンに、彼女が目を背けようとしてきた暗い過去が見えてしまう。そしてすぐに、まるで少女のように雪合戦ではしゃぎまわる。この素早い転換こそが、彼女を忌まわしき記憶から守り続けてきたのだろう。

彼女はふらりとチューリヒに現れ、死にかけていた二人の女性を"生"の世界に連れ戻して風のように去っていく、まるで天使のような存在だったのかもしれない。『冬の旅』や『イントゥ・ザ・ワイルド』の一つの場面を取り出してきたかのような幸福な映画にも見えてくる。しかし同時に、戦争を跨いだ断絶は多くを語らないまま埋められること無く終結し、戦争以前と以後という特異な視点を持ち合わせた本作品の提示するそれらの断絶は計り知れないものであると知ることにもなるのだ。

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・作品データ

原題:The Mistress / Das Fräulein
上映時間:81分
監督:Andrea Štaka
製作:2006年(スイス, ドイツ)
※2009年のUNHCR難民映画祭にて『クロスロード』の邦題で上映されている。

・評価:80点

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