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アンドレア・シュタカ『Cure: The Life of Another』クロアチア、私はあなたにはなれない

1993年、ドゥブロヴニク包囲から間もない頃。離婚した父に連れられてスイスから当地にやって来た少女リンダは、地元の少女エタと親しくなる。リンダの父親は医師であり、地元の人々から贈り物をされるくらい信頼は得ているようだが、戦争後に来たリンダには味方も少ない。大人になってから事情を理解して戻ってきた父は、クロアチア出身で、その仕事の重要性や優しい性格も含めて好意的に受け入れられているようだが、リンダはスイスで育って故国クロアチアを知らないので、砲撃で壊れた街の表面的な修復は終われど心の傷は癒えない(そして国境付近では未だに紛争による黒煙が上がっている)人々たちによって、好奇と侮蔑の入り混じった感情をぶつけられているのだろう。最終的に爆発した彼女の"スイスは戦争せずに独立した"なる挑発的な発言は、クロアチアにもスイスにも属せない彼女の内面を一言で表す印象的なセリフだ。

リンダとエタのパーソナリティは衝突と融和を繰り返す。街の歴史を身を持って知っているエタと知識としてしか得られないリンダは実に対照的だが、息苦しい街から出ていきたい前者と放浪するアイデンティティを故国に探し求める後者では、その求めるものが互いの中にあるという奇妙な"ねじれ関係"にもあるのだ。ある日、エタはリンダを"秘密の場所に誘う"として連れ出し、彼女の男経験について、ドイツ語の単語について語り、服を交換しようとまで言い出す。前作『The Mistress (Das Fräulein)』でも"ドイツ語を話すことについて"というのは自身の帰属意識をどちらの国に持っていくかという永遠のテーマに絡めていたが、本作品でも"ドイツ語"はエタの憧れとして登場し、ドイツ語を話すこと自体が魔法であるかのように作用している。そして、服を交換した二人は突然喧嘩になり、リンダは崖の下にエタを突き落とす。死んだエタはリンダの服を、それを見下ろすリンダはエタの服を着ている。興味深いのはこれら同性のパーソナリティの融合をテーマにした作品では二人の顔を重ね合わせる、所謂"ペルソナ構図"なるショットが一度は登場するのがお決まりなのだが、本作品では一切登場しなかった。

それから、死んだエタの声を聴くリンダは導かれるようにエタの家に辿り着く。エタの母親はリンダを足蹴にするが、エタの祖母は認知症なのでリンダをエタと誤解する。ここにきて漸く故国クロアチアに実家を持ったかのように、リンダは急速にエタに近付いていく。エタの日記を読むことでエタの過去に触れ、祖母によってエタとして扱われることで、本人が経験することのなかったエタの未来に触れ、鏡の中にエタを見るなどリンダとエタは映画内で入り混じり始める。それはシュタカの願望なのだろう。しかし、知識としてしか戦争を知らないリンダは、エタの過去と未来に触れても彼女になれるはずもなく、アイデンティティは放浪したまま、国が大変だった時に国にいなかったという罪悪感のようなものまでもが、変わることなく放置されている。

旧ユーゴ系移民の子供たちのアイデンティティの放浪を、青少年期特有のそれに重ね合わせる手法は、以前Ena Sendijarević『Take Me Somewhere Niceでも使用されていた。そして、戦争以前と以後の超えられない断絶を描いたのは監督の前作『The Mistress (Das Fräulein)』でも同じだった。それら全ての作品において帰結は同じ。断絶は埋められず、"ステキな場所"は"ここではないどこか"なのだ。

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・作品データ

原題:Cure: The Life of Another
上映時間:83分
監督:Andrea Štaka
製作:2014年(スイス, ボスニア・ヘルツェゴビナ, クロアチア)

・評価:90点

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