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アノーチャ・スウィーチャーゴーンポン『ありふれた話』生命と宇宙、終わりなき変化のサイクル

私が昔タイに暮らしていたからと言って、タイの映画を観ていた訳ではない。その頃はまだ日本で有名なほぼ唯一のタイ人監督であるアピチャッポン・ウィーラセタクンですらデビューしたてだった、バーツ危機と政情不安の狭間の時期だったので、というかそもそも年齢一桁代だったので、私はタイ映画を観ることはなかった。私とてそんなエクストリーム人生は送ってない。代わりに『スターウォーズ/クローンの攻撃』をタイ語吹き替えで観た覚えがある。2002年の初夏だった。

翻ってアノーチャ・スウィチャーゴーンポンである。1976年に生まれ、90年代をイギリスの大学で過ごした彼女は、2006年にはハリウッド外国人映画記者協会の奨学金でコロンビア大学芸術学部を卒業した。彼女の卒業制作『Graceland』はカンヌ国際映画祭のシネ・ファウンデーション部門で上映され、タイ映画史上初のカンヌ入りを果たす。同作は翌年のサンダンス映画祭などで激賞されることになる。帰国して、バンコクに映画製作会社を設立した彼女が満を持して発表した初長編が本作品である。邦題が付いているのは福岡国際映画祭で上映されたからのようだが、それ以降日本での入手は困難となっている。

事故によって下半身不随となったAke、彼を看護することになった看護師のPun、そしてAkeが毛嫌いする権威主義的な父親。怪我によって嫌いな父親の豪邸で暮らすことになり、自分が何もできないという無力感がAkeを支配し、そんな負の感情をPunにぶつける。そんなAkeをPunは優しく支え続ける。必ずしも時系列を追わない二人の関係は、常に優しい眼差しを向けるPunからは時間を把握することが難しく、逆にAkeの表情の柔軟度という微笑ましい尺度によって、挿話がどの時間軸にあるのか、はたまたそんなことは考えなくても良いのかということを問い続ける。

そんな彼らを捉えるカメラは終始波のように揺れ動いている場面が多くある。目に余るほどではないが、そうと分かるくらいの振幅で揺れ続けているのだ。これはリナ・ロドリゲスもそうであったように、まるで観客がその場に居て、彼らの生活を横から"体験"しているような感覚に陥らせる作用がある。と同時に、Akeの心が落ち着いているときなど、映画として感情を盛り上げたいときに画面自体を完全に固定することで、映像を視覚的にも盛り上げることが可能になるのだ。

すると映画は、さも当たり前であるかのように、タイから飛び出して、地球をも飛び出してしまう。AkeとPunが旅をしてライターになりたかったという繋がりから、あまりにも矛盾なく"世界"へと繋がり、そのまま宇宙に飛び出す。時間について自由になった映画は三次元座標に関しても自由になるのだ。そして、初めて家の外に出た二人が向かう先は、プラネタリウムであり、連想の始点と終点を有機的に結合させたのだ。

終盤になって、唐突にデモなどの映像をぶっ込むのは、単純に考えれば政情が麻痺していたタイと下半身が麻痺しているAkeを並べているからだ。2006年、軍のクーデターによってタクシン首相は国を追われ軍のリーダーが政権を握った。父親との微妙な関係は、これら権力を握った人々と一般市民との軋轢を反映したものらしい。Akeが徐々に変化していく過程が、タイが経験するだろう"変化の時代"を表しており、人間も宇宙も絶えず変化し続けることで誕生から死、そして再生を繰り返す。宇宙の話はここで繋がってくるのだ。監督が時系列を乱したのは、この繰り返しをより意識して欲しかったからだそうで。

帝王切開によって生まれた赤ん坊が泣き叫ぶ姿の長回しで映画は幕を下ろす。超新星爆発によって星が輝きながら死んでいく過程を人間の人生に当てはめ、超新星爆発と人間の誕生を繰り返して配置することで生命の誕生と終焉、サイクルの歓びと神秘を高らかに謳い上げたのだ。

・作品データ

原題:Jao nok krajok / Mundane History
上映時間:82分
監督:Anocha Suwichakornpong (アノーチャ・スイッチャーゴーンポン/ アノーチャ・スウィーチャーゴーンポン)
公開:2009年10月10日(釜山映画祭)

・評価:86点

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