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はかない興味に水をやらねば!

ゲーム少年だった私は、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』を散々プレイしていたのであるが、それらの元祖である〈テーブルトークRPG〉は苦手だった。

知らない人のために説明すると、テーブルトークRPG(以下TRPG)とは、コンピュータを用いない、いわば「ルールのあるごっこ遊び」である。
数人のプレイヤーがそれぞれ架空のキャラクターを演じながらシナリオを進め、その間、プレイヤーはキャラクターの基本的な設定を逸脱しない範囲でどんな行動もとれる。プレイヤーの行動を認めるか否か、また、その行動がどのような結果をもたらすかについて、ゲームマスターと呼ばれる人間が判定していく。


私はこの〈演じる〉という行為に入り込めなかった。恥じらいもあったし、そもそも対話を主体とする遊びは根暗な私には向かない。
だが、TRPGはハマる人にはハマるらしい。学生時代に付き合いのあった友人が熱狂的で、私は一時期、しょっちゅうプレイさせられた。

苦手意識があるから、当然楽しめない。それを正直に吐露すると友人は言った。


「TRPGは、楽しもうとしないと楽しめないよ」


なんじゃそりゃ。
持論だが、楽しもうとしなければ楽しめない娯楽は娯楽ではない。
以来、私はTRPGから距離を置いた。


『楽しもうとする』――この日本語表現に対する違和感は残り続けた。
楽しいという感情は、はたして努力によって得るものなのか。努力しなければ、その感情は得られないというのか。


数年がたち、学生でなくなった私は再び同じような台詞を耳にすることとなった。
当時のバイト先の店長は熱血タイプで、まだ女を知らなかったまだ瑞々しかった私に色々と仕事論を語った。


「仕事が面白いなんてこと、まあ、なかなかないよ。でもさ、例えばちょっとした作業で、ちょっとしたこだわりとか目標を取り入れるわけ。で、今日はいつもよりうまくいったぞ、なんてことがあると楽しく思える。楽しく思えるように工夫するんだよ」


この店長しかり、あの頃本屋でパラパラめくっていた自己啓発書の類しかり、「楽しむ姿勢が大事」うんぬんはよく書かれていた。
娯楽論としては、やはり受け手の姿勢に頼っているようでは話にならないと思うが、仕事論としてなら、今でもこの考え方が間違っているとは思わない。これで楽しくない仕事がわずかでも楽しいと思えるなら大いに使い道のある考え方だ。

だが、端から楽しいと思えることを仕事にできればそれが最良で、それが叶わない大多数による「せめてもの慰め」みたいな思考でもある。
小便を飲みながら「これはビールだ」と自己暗示をかけるに等しく、その暗示が強固になればなるほど滑稽と言わざるをえない。


かくいう私も滑稽にあくせくしているしがないサラリーマンである。
だから、せめて労働時間以外はその滑稽な思考を捨て去り、時折内心に芽生える純然な興味・関心を見過ごさぬよう注意を払っている。

興味とは、はかない芽だ。小さくてもろい。うっかりすると見失い、二度と見つけられないこともある。
興味の芽には、すぐに水をやらねばならない。最初が肝心だ。一歩めを渋るとたちまち枯れてしまう。


ある程度大きくできたなら安心していい。
楽しもうとする必要はない。
その時にはもう、楽しくて仕方ないはずだから。

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