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いつまで馬に乗ってるの?

ある物事が〈当然〉になると、当然が果たされないことに不満を覚えるようになる。更には〈当然〉に求める基準が高くなっていき、その分だけ人の心は狭くなっていく。


近頃、私の心はまた一段狭くなった。
気づいたのはスーパーのレジに並んでいる時だ。目の前の客が財布からちまちま小銭を出しているのを見て私はイラついた。ピリ辛ほどではあるが確かにイラついた。釣銭をキリ良くするために一円玉なぞ数えていやがる・・・・、と思った。時間にしたらたかが数秒のもたつきにストレスを感じたのだ。
冷静に考えれば不思議なものである。ほんの数年前まで私も現金払いが主で、まったく同じように小銭をあさっていたのだ。それが電子決済サービスを使うようになった今、悪態のターゲットと化した。
これからは反省して鷹揚な人間を目指します――などと言いはしない。そんな殊勝な結論で終われないのが私という人間である。


現金派が私のような輩に文句を言われる筋合いはない。だが同時に、私が心の狭さを咎められるいわれもないと考えている。
ルール上問題がなくとも、実際には周りから白い目で見られる行為というのは存在するのだ。
例えば、道路交通法において馬は軽車両扱いだから、一般道を騎馬で駆け抜けてもルール違反にはならない。だが実際に馬で通勤などしている奴がいたとしたら、周りのドライバーにとってそのうっとうしさはノロノロ走る原付の比ではない。
「いつまで馬乗ってんだよ」と「いつまで現金使ってんだよ」は、そのうち同義になる。


世の中には次々と新しいモノや仕組みが登場する。特に年輩の人がそれらに適応していくのは大変らしい。まだ三十代の私はキャッシュレス決済やセルフレジ程度のものに抵抗を覚えることはないが、新しく何かを習得するのが億劫になる気持ち自体は理解できる。
しかし、だからと言って「ついていけなくなっても仕方ない」で済ませる思考が自分を幸福にするとは思えない。
加齢と共に体力が落ちたからといって運動しなくなれば余計に体力は落ちる。新しいものへの適応についても、それが億劫になったからといって避け続けていれば余計に抵抗感が強まるのは必然だ。
抗えるなら抗おうじゃないか。なるがまま類型的な年寄りになってやることはない。


小銭をぎゅっと握りしめながらバスに揺られたあの頃は、新しい経験の連続だった。降りる駅を間違えないよう、前のめりになっていた。
目を見開いて、耳を澄まして。
幾つになろうと手に汗握って、寄る年波や時代の荒波に揺られて行かねばならないのである。

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