映画『ラブライブ!サンシャイン!! The School Idol Movie Over the Rainbow』(2019)感想
昨日2期を観終わったいきおいで、今日劇場版をみました。
2024/7/11(木)
前半は、ガルパンの劇場版(2015)とけいおん!の劇場版(2011)をミックスしたような感じだった。2019年公開という時系列は非常に合点がいく。
一時的に仮の本拠地とする「分校」は、ガルパン劇場版で大洗の町で避難したあの廃校舎そのものだったし、まさかのイギリスならぬイタリア卒業旅行編とは……
鞠莉さんのお母さんがイタリア出身なのね。てっきりパパが海外出身なのかと。
沼津の高校と統合するのが、まさかの「父兄」の反対で保留になるという意味わからん展開。そして鞠莉が母親から逃げている理由が、まさかの「縁談」というコテコテ過ぎる展開。このように、前半はとりあえずの「劇場版っぽさ」を打ち立てようと、形骸的な要素のツギハギでなんとか進行している感じだった。そういえば、『サンシャイン!!』TVシリーズでは〈大人〉が彼女たちの敵に回る展開って無かったよなぁと気付かされた。それが、劇場版になって突然抑圧者としての大人要素が登場してくるガバガバ感。
…………思うに、これは劇場版で新たに、TV版からの進歩・変化として「大人vs子ども」的な構図を導入したのではなく、細かいことはいいから舞台装置としてそういうものだと受け入れてくれ!というトーンだと了解した。鞠莉ママがあっさり手のひらを返したのも意味不明だし、「父兄」なんて姿形すら存在しないあやふやなものだ(一応部活動報告会のシーンで映るけど……)。そういうのは全て舞台装置であり、この作品の本懐は、アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の締め括りとして、3年生が卒業したあとのAqoursの新たな始動を見届けて、それによって内浦という土地および浦の星女学院という学校を永遠に残る思い出として確立することだろう。それらはある程度達成できていたと思う。
1期で「0から1へ」をAqoursのスローガンとして掲げていたけれど、この劇場版では「0にはならない(戻らない)」という思想を宣言していたのが良かった。ラブライブ!シリーズの「2作目」である『サンシャイン!!』にとって、「0から1へ」を強調し過ぎるのは初代の存在を蔑ろにしているのではないか?と無粋なことを思ってしまっていたからだ。
この締め括りにおいて、ようやく「0になんてならない」という言葉を千歌の口から聞くことが出来て良かった。積み上げてきた歴史があるからこそ、また新たな輝きが始まることができる。(ま、そういう私は初代ラブライブ!をアニメすらしっかり観たことないんですけどね……)
沼津やヴェネツィアの街中で突如始まるミュージカルパートが良かった。ステージの上でのライブパフォーマンスよりも、日常シーンからシームレスに繋がるミュージカルのほうが好き。思想的に。ダンスは人に見せるものではなく、日常の生のなかにあるもので、だから〈アイドル〉というイデオロギーは解体するべき……。
そして、まさかのフィレンツェでびっくりした。しかもドゥオモの最上階!!! こないだの『冷静と情熱のあいだ』でめっちゃ見覚えがある場所~~~~!!!と爆笑せざるをえなかった。まさかこんなところで繋がるとは……観て良かった……(?) Aqoursのみなさんも『冷静と情熱のあいだ』の聖地巡礼をしてたんですね~~~~ 順正……あおい…………
この映画でいちばん良かったのは、SaintSnow絡みのパート。理亞ちゃん…………この映画の主役といっても過言ではない。「ラブライブ!決勝 "延長戦"」の2人のパフォーマンス最高だった。理亞の心境を誰よりも理解して動くルビィのまなざしがまた泣けること……黒澤ルビィ………… 2期でもS.S.絡みの回はストレートに泣けた印象だけれど、ド直球姉妹百合に着地していた。この劇場版では、偉大な姉が卒業したあとの妹の再出発をどうするか、というテーマを(6人でのAqours自体の再出発というメインテーマと重ね合わせながら)描き切っていて、より一層刺さった。理亞さん頑張ってくれ~~~
「延長戦」のライブシーンは、せっかくのパフォーマンスなのにそれをお互いに小っちゃいスマホ1台の画面で(顔を寄せ合って)観ているのがまた良いんだよな……じぶんもよく映画をスマホで観るので…………(これはデスクトップPCで観ました)
遠隔でのライブ中継による「決勝」という構造は、そのまま沼津と函館というローカリティの固有性とそれらの〈距離〉を鮮烈に作中へ描き込むことにも成功している。屋上ビルの俯瞰ショットから衛星写真のようなスケールへのトランジション演出はまさにそう。
ただ、「世代交代」を主題としていながら、3年生トリオがなかなか(画面から/舞台から)退場しなくて笑った。「お前らとっとと卒業せい!」と。引退しても後輩の部活動に顔を出す(どころか思念体となって舞台にも上がってしまう)OGは嫌われるぞ~~老害まっしぐらだぞ~~……
(いや、もちろん作中では千歌たち後輩陣が先輩もいる "9人" でのAqoursを最後に結晶(成仏)させようとして一緒に踊っているのだという、その方向性は理解しているんだけど……)
本質的な問題はむしろ、母校が統廃合になり3年生が卒業したあとの "新生" Aqoursの始まりの瞬間を描きながらも、『サンシャイン!!』というコンテンツ自体が、「やっぱりAqoursはこの9人でなくちゃ」という固定メンバー(神ナイン?)への執着を捨てることが不可能であるという矛盾にあると感じた。
よーするに、個人的には、とっとと統合したあとの新年度が始まって、新しい学校での新入部員、新メンバーがAqoursに加入するところを見たい!!でもそれはこのコンテンツの根幹的にぜったいに不可能なんだろうなァ~~ッ!ざ~んねん!!……ということです。
その点、SaintSnowは2人のうちひとりが卒業してしっかりと終わり、理亞ちゃんが新しいメンバーと新しいグループを作ろうと頑張って(苦しんで)いるから本当に偉いし、素晴らしいと思う。そこが好きだ。
たほうAqoursは、こないだキャスト「9人」でのファイナルライブが告知されたように、アニメ作中でAqoursは浦女統廃合後も新陳代謝して続いていくように匂わせておきながら、けっきょく最初の9人で最後まで固定なんか~い!……という詐欺感がある。
これはわりと深刻な問題だと思われる。なぜなら『サンシャイン!!』はまぎれもなく「学校」への愛を謳った物語であったはずだから。
「学校」とは、ひとりひとりの人生にフォーカスすれば、3年間などの有限性を持った時空間であり、そして「学校」そのものにフォーカスすれば、絶えず構成員(生徒)が入れ替わっていくことで永い固有の歴史をその土地の歴史とともに築いていく共同体=生き物である。そして、Aqoursというスクールアイドルは、浦の星女学院の存続とアイデンティティをレペゼンしていたはずだ。つまり学校とスクールアイドルは象徴的に同一のものとして重ね合わされてきた。そうであるならば、Aqoursというスクールアイドルもまた、〈学校〉というシステムと同じように、卒業するメンバーがいれば加入するメンバーもいる、絶えず構成員が変わっていくことで動的な同一性と永遠性を獲得するグループであるべきだったと思う。
じっさい、この劇場版では、浦女が統廃合して3年生たちが卒業したあとの残った6人が新たな地でどうAqoursを始めていくか、が物語の主軸であった。だったら、いつまでも3年生の幻影を夢見て "9人" でのエモい大団円とかを演出していないで、とっととCV黒沢ともよの統合先の新キャラ生徒とかを加えて新たにAqoursを始めるべきじゃないのか。……それをやり出しちゃうと劇場版では収まらずに3期が必要になるだろうから仕方ないとはいえ…………。でも、わたしはもう、Aqoursの「ファイナルライブ」の情報を知っているので、3期とかはなくて、この劇場版のあといくら(作中世界の)Aqoursに新メンバーが入ろうとも、いくら千歌たちが卒業したあともAqoursが永遠に受け継がれていようとも、「正規の」Aqoursはあの9人であるという事の顛末、ネタバレを知ってしまっている。「Aqoursが好き」ということは、あの9人が好きだということと同義で、それは『サンシャイン!!』アニメの作中世界における「Aqours」とは決定的なズレを孕んでいる。
つまり、『サンシャイン!!』というアニメは、こんなにも、スクールアイドルの魅力を通じて、浦の星女学院の魅力や、内浦という地域の魅力を発信してきたにもかかわらず、結局は、みんな、新陳代謝によって延命するシステムであるところの〈学校〉とか〈地域〉とかよりも、あの9人のキャラクターが好きなんですね~~~………… それは当然のことかもしれないけど、この9人のAqoursを唯一絶対のAqoursとして崇め立てて好きでいることは、他でもないAqoursの、そして『サンシャイン!!』という作品の核心にある思想を徹底的に侮辱する行為ではないのか、と、この劇場版を観て、そう思った。少なくともこの劇場版には、そうした、作品テーマと実際にプロットで描いていることに重大な矛盾を孕んでいると思った。そう思えるのは、あきらかに、わたしが、この『サンシャイン!!』という永く愛されているコンテンツに対してなんの思い入れもなく、ファイナルライブが発表されたついこないだから触れ始めた「にわか」だからこそである。幼馴染や姉妹、そして幼い頃の自分との重ね合わせといった〈歴史〉の堆積を称揚していく物語は、その歴史と共に連れ添って老いて添い遂げる理想的な同伴者=ファンにとっては必然的に良いものになるが、わたしのように歴史を持たない者にとっては必然的に無価値なものとなってしまう──あるいは、逆にその歴史をこうして毀損しようとする素振りによってしか価値を見出せないものになってしまう。
考えてみれば、理亞が、姉の引退と共にSaintSnowを終わりにして新たなグループを始めようと決意したように、千歌たちも、3年生の卒業を機にAqoursをいったん終わりにして、統合先の学校では新たなグループを作れば良かったのではないか? なぜそうせずに、Aqoursを続けることにしたのだったっけ。覚えてない。浦女の終わりとともにAqoursも終わりにしたならば、その両者が完全に合一して、この劇場版で最後まで9人で踊ることや、「ファイナルライブ」をこの9人でやることも受け入れられたのに。でもそうしたら、1・2年生たちの自立をうまく描けないのかぁ。
……やっぱり、根本的な問題は、続編かつ完結編たる「劇場版」という、本編はTVシリーズ2クールでいちおうしっかり幕を閉じたあとの、もう一つのフィナーレ・大団円であり、やり残しを回収するおまけファンディスク……な、めちゃくちゃ難しい立ち位置にある気がしてきた。新作-続編-完結編-劇場版ってムズイんだよな~。
そう考えると、劇場版けいおん!が、最終的にTVシリーズ(2期)最終話のあの「天使にふれたよ」のシーンを別の角度から、別の意味付けをほどこして「再奏」したという選択はきわめてスマートだったと思えてくる。TVシリーズの「続き」ではなく、終わりの時系列を収束させる手法。
ちなみにガルパン劇場版は……そもそもがコメディ調なので自由度が高いという前提がまずあった上で、本編でいったん解決したはずの廃校問題をちゃぶ台返しするしょうもなさすぎる天丼展開に、本編では敵だった者たちと共同戦線を張ってより強大な敵に立ち向かう──というバトルものの王道展開をなぞっている。3年生はまだまだ卒業しておらず、世代交代ではなく学校間・各チーム間での陣営の変化によって新展開を生み出している。(ガルパンはこの劇場版が大当たりし過ぎて、更なる何番煎じかの〈最終章〉全6章というあまりにも馬鹿馬鹿しすぎる続編を本気でやっているところがすごいところでありズルいところだ) このように内容は全然違うけれど、しかし上述の通りの「廃校舎」一時寄宿要素や、なんか全体的にぼんやりと故郷との別れの寂寥感を漂わせているエモい感じはサンシャイン!!もガルパンも似てるんだよな……じっさい、この劇場版を見ながらガルパン劇場版のことは頭の片隅で思い出して再上映していた。
ただ、ガルパン劇場版が本質的に「うちにかえる」物語であるのに対して、サンシャイン!!劇場版は、母校という故郷、先輩たちとの9人でのAqoursという故郷を喪失した者たちがその喪失を乗り越えて次のステージへと進まんとする物語であるため、やはり構造は決定的に異なる。(ただし、何度も繰り返すように、そうであるとしたらサンシャイン!!劇場版は言ってることとやってることが食い違ってない?「劇場版」という終わりと始まりのあいだの特殊な時空間をうまく処理することが出来てなくない?と疑念は残ってしまう結果となった。)
『サンシャイン!!』のこういう矛盾を鑑みるに、ラブライブ!シリーズの最新作(のひとつ)であるところの『蓮ノ空』は、ちゃんと学年が進んで新入生が加入しての世代交代の話をやってて偉いな~~と素朴に思った。
「活動記録」1年目の10話まで観ました
蓮ノ空のスクールアイドルのユニット(名・コンセプト・楽曲etc.)は、蓮ノ空女学院スクールアイドル部に伝統的に受け継がれている設定であるため、あの9人でがむしゃらに始めて頂点まで駆け上がったAqoursとは根本的に異なる。(まぁ厳密にいえば「Aqours」だって最初は9人じゃなくて3年生たち3人だったけど……)
ただ、現実の年月感覚と同期してリアルタイムで進む『蓮ノ空』は、2024年7月現在「2年目」であり、主人公の先輩格にあたるメンバーの「卒業」は未だ行われていない。『サンシャイン!!』劇場版は本質的に、3年生メンバーが卒業したという事実が重要であって、この『サンシャイン!!』と同じ地平に立って比較されるためには、『蓮ノ空』も梢先輩たちの代が卒業したあとの花帆たち(主人公)の話をしなければならない。すなわち蓮ノ空は「2年目」の今年で終わりではなく「3年目」まで続けるのかどうか、という点が肝心だ。じっさい梢先輩たち3人の人気はすごいらしいので、人気キャラが引退するとなるとコンテンツ運営へのダメージはデカいだろう。それがリアルタイム性を謳ったコンテンツであるならば尚更だ。しかし、単に1年間が経って新入生が加わるのみならず、しっかり引退・卒業するキャラクターを描いてこそ真の部活モノ、スクールアイドル部……という気がする。新陳代謝する学校≒スクールアイドルという概念を真に創造するためには。ところが前述のように、その理想の実現は、本質的にキャラ商売であるところのコンテンツ進行のデメリットと常に板挟みである。
そう考えると、ラブライブとは直接関係ないけど、同じ花田十輝脚本アニメであるところの『響け!ユーフォニアム』はちゃんと先輩の引退と新入生の加入の両輪で駆動する「部活」という生物の新陳代謝システムを描いているからやっぱりすごいな~と思った。部活モノにおける進級と新陳代謝……という観点は、この類のアニメを観るときに常に持っておきたいな。
部活モノじゃないけど、現代の2次元青春コンテンツであるところの「バンドリ」や「プロセカ」とかはどうなんだっけ。どちらも1年の進級はしてた気がするが、主要キャラが「卒業」したという噂は聞かない。ソシャゲの構造上、学生キャラの引退や卒業を扱えない……という制約がある。こうなると途端に人生の時間が進まないサザエさん時空および「日常系」アニメに接近(というか後退?)する。TVシリーズの感想で書いた通り、同じアイドルものでも「アイマス」はそちら側に属する。
日常系と卒業(の不可能性)──というお題目だと、やっぱり『けいおん!』が何度も回帰してくることになる。学園生活という〈日常〉の終わりは卒業にある。逆にいえば、卒業という終わりが保証されているからこそ、学園生活は尊く、なんでもない〈日常〉たりえる……というありふれた議論。
ラブライブ!シリーズの話に戻ると、たしか『スーパースター!!』(花田十輝シリーズ構成)は2期で進級して新入生が加入するんだよな(1期しか観てない)。『蓮ノ空』と同じく「先輩」キャラも2年生始まりなのでまだ卒業はしていない。『虹ヶ咲』はどうなんだっけ。2期で進級はせずに留学生として新キャラ追加だったな。劇場版で完結するという噂を聞いたけど、進級はいっさいせずに完結するのかな。
結論……スクールアイドルの進級と卒業と新陳代謝について考えるためにも、『スーパースター!!』2期と『蓮ノ空』の続きを観なければ!!!(初代もいいかげん観なきゃ……優先度は依然として低いままだけど……)
あとこないだ大団円を迎えたらしいアニメ『響け!ユーフォニアム』第3期を観るためにはやく1期から見返さなきゃ……
花田十輝脚本アニメでは、進級とか卒業とか先輩-後輩といった「学校」の時空間から敢えて距離を取ったものとして、『宇宙よりも遠い場所』や『ガールズバンドクライ』もまた欠かせませんね。描かないこと、否定すること、距離を取ろうとするそのことによって、かえって「学校」という時空間の実体をありありと描き出しているとも見做せるだろうから。
あと、今夏アニメ『ATRI』のシリーズ構成も花田十輝が担当すると知ってテンションが上がっている。なぜなら原作ゲーム版の『ATRI』は、ギャルゲーとか、美少女アンドロイドものとか、ポストアポカリプスSFである前にまず「学校」という空間を描き出すことに於いて傑出したビジュアルノベルだったと評価しているから。花田十輝が手がける「学校」青春モノの系譜に『ATRI』も加わると思うと、楽しくなってきた~~!!!(明日から放送開始か……)
↑『スーパースター!!』1期の感想はこちら↑
後出しでズルいのですが、今回はじめて『サンシャイン!!』アニメを劇場版まで観て、以上のような感想を抱いたのには、少し前にTwitterで見かけたこちらの方の発言が少なからず影響していると思われます……(まったく交流のない赤の他人の発言をこうして無許可で引用してしまって申し訳ないですが、自分のような『サンシャイン』歴数日のにわかだけでなく、歴戦のラブライブ!オタクの中にもこうした考えを持っている方がいることに非常に感銘を受けたので、感謝と尊敬を込めて言及させていただきます。言われたら消します……)
『ラブライブ!サンシャイン!!』、『ガールズバンドクライ』、花田十輝、『けいおん!』……ということで、連日の引用で恐縮ですが、こちらの舞風つむじさんのnote及び低志会・週末批評周辺の方々などの文章・批評・論考からも非常に多くの学びと刺激を日々受けております。
(こないだの低志会春アニメどうだった回のnoirseさんの「ガルクラ」評は痺れました……あと低志会報むさしの特集めちゃくちゃ面白かったです。てらまっとさんの文章が個人的には特に良かった……)
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