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TVアニメ第2期『けいおん!!』(2010),『映画けいおん!』(2011)をようやく観た

1期の感想↑からすこし間が空いてしまいましたが、2期と映画版を観ました。



・TVアニメ2期『けいおん!!』(2010)


2023/2/21~4/6

・第1話「3年生!」

体育館での始業式への行き返りの渡り廊下で桜の花びらをしゃがんで拾う唯。ここの引き固定カメラ長回しの山田尚子感よ。やっぱりこういうところ山田尚子は細田守から影響を受けてるのだろう。

オープニング曲「GO! GO! MANIAC」がヤバい。曲も映像もすごすぎる。これ放送当時の衝撃はとんでもなかっただろうなぁ

OPのここのカットなんかしらんけどめっちゃ好き。疾走感というか圧迫感というか



・第4話「修学旅行!」
楽しい「修学旅行回」を作ろうとしているのではなくて、ひたすらに、「修学旅行を楽しむ唯たち」の姿を描くことに心血を注いでいる。すさまじい。
公共の場ではしゃぐなど、〈社会〉の迷惑になる行動をしまくっているが、若者はそれでいい(し、特に『けいおん』では学校空間こそが世界であり社会なのだから、なおさら)。教師はそれをちゃんと取り締まって教育しなくてはいけないけど。
宿での消灯後にお調子者(律)がボソッと言葉を発してクスクス笑わせるノリ懐かし~~。
京都市街の風景美術もえげつない。

・第5話「お留守番!」
3年生が修学旅行にいっているあいだの梓や憂たち2年生ズを描いた回。天才

・第16話「先輩!」
神回

・第20話「またまた学園祭!」
放課後ティータイム最高!!!
舞台上のHTTのライブ演奏そのものではなく、むしろ彼女らに歓声を送る周りの人々(クラスメイトたち、和ちゃん、先生etc.)を映し続ける。唯たちがいかに学校のみんなに愛されているかを描き続ける。きわめて明確な演出意図。『けいおん』は本質的に音楽・バンドアニメではない。あくまで「学園アニメ」、「学校生活」を主題とした作品である。限りのある、いつか終わりの来る「日常」の輝きを。1期から数えて3回も学園祭ライブを描いた意義がここにある。(今思ったが、「学園祭」という単語は、それ自体、「学園」という限られた時空間を祝祭的に描こうとしている本作を象徴する言葉でもある・・・。)

今回、定番曲「ふわふわ時間」のほかに新曲「ごはんはおかず」と「U&I」が披露された。・・・これは1期から感じていたが、正直いって、じぶんはこれらの放課後ティータイムの曲は単体の音楽としてはそれほど好みではない。曲としてダントツで好きなのは2期OP「GO! GO! MANIAC」である。要はアニメ本編で演奏される、高校生である唯たち放課後ティータイムの「じっさいの」曲はそれほど刺さらず、OPやEDのほうが曲としては断然良い。
だが、わたしはこの第20話のライブで、「U&I」でとても感動した。それは、放課後ティータイムというバンドのライブ演奏を観て感動したのではなく、『けいおん!!』というアニメ作品を観て感動したということだ。

わたしは、作中で実際に演奏されるHTTの曲がそんなに好みではなくて良かったとさえ思っている。上述のとおり、わたしにとってアニメ『けいおん』は音楽バンドアニメではなく学園青春アニメである。だから、作中の「放課後ティータイム」を音楽バンドとして好きになってしまったら、むしろここがブレるのだ。「ふわふわ時間」や「U&I」が曲単体ではそんなに刺さらないからこそ、わたしは放課後ティータイムを、彼女たちをとても愛おしく思う。この『けいおん』という作品が好ましいと思う。そして、ひとたびアニメ本編を離れた、やや異なる位置付けである、OP/EDを演奏する放課後ティータイムをこそめちゃくちゃいかしたロックバンドだと感じられることもまた、わたしにとっては心地よい。「ほんとうの」唯たちはこうではないのだ。OPやEDの曲調やMVの方向性を、本編での放課後ティータイムとは全く異なるものにしているのには、そういう効果がある。

2023年にごーまにドハマり無限リピートオタクになっていました。



2期の実質的な主人公は梓

唯はアニメ1期の1話と最終話のリフレインで「成長」が明確に描かれている。
対してアニメ2期で「物語」の主人公が唯から梓に譲渡される。この2期において、唯に成長はないが卒業はする、という点が本作の肝である。(ということはつまり、「物語」が不在で、ただ日常的な時間経過(の結果としての進級や卒業)だけが存在する、というところが「学校生活」の本質であるということだ。)
その唯(たち)のそばにいて眼差し、彼女らが卒業していくのを見送る存在としての梓。梓の同級生の憂、純のふたりの存在も効いている。

唯たち3年が卒業したあとに、ひとりになってしまった梓を見るに見かねて憂と純が軽音部に入るらしいが、それはどうなんだ?
あくまであの5人で軽音部である、という風に考えると、梓にはなんとかひとりで頑張って新入部員を勧誘して、1年後に後輩達に泣きながら送り出されてほしい。彼女が先輩になって、唯達からの流れをちゃんと継承するところが見たい。


・23話 放課後!
アイキャッチのテープレコーダー演出をここにきて回収するのは反則だろう……メタフィクション・ノスタルジー
限りある高校生活の時空間を描く作品と言ってきたが、マジで、テープレコーダーに録音された音という形で、そのまんま青春を閉じ込めてしまうとは……
映像と音の関係についても考え直したい。


・最終話 卒業!
完璧な最終回だった。すごすぎる。これはアニメの最高傑作とも言われますわ。
そもそも前話「放課後!」からしてヤバかったけど、最終話では露骨に作画というか画作りを変えてきて、なんかもういろいろと風格がやばすぎた。ずっと叫んでた。

「天使にふれたよ」を部室(音楽準備室)で演奏しているのを、部屋の外の階段のところでさわちゃんが聴いているシーンでもう・・・もともと崩壊していた涙腺がさらに崩れ落ちた。さわちゃん、1期の頃はこんなに良いキャラになるとは思ってもみなかったよ・・・ごめんね・・・


このためのストッキング&白ハイヒール。このための山田尚子の「足」演出



卒業式の前に、下級生が卒業生1人ひとりの胸元に花を付けるくだりで、唯(たち)に花を付ける2年生が梓 "ではない" というところが、『けいおん』の本質なんだよな。マジで初めて出てきた名前も顔も知らないモブであることが重要。あそこで梓が唯に花をつける役であってはいけない。梓は、あくまで(視聴者には見知らぬ)「誰か」他の生徒に卒業の花をつけられるのを、傍から眺めなければいけない。それが梓の役目。それが「先輩の卒業を見送ること」であり、大好きな、自分の高校生活にとってかけがえのない先輩が卒業するということだから。梓は唯に花を送るんじゃなくて、唯から花を、そして歌を貰うのだ。

ここ、アニメ『けいおん』の """本質""" です。



梓もまた、名もなきいち卒業生の先輩へと花をつける。

そして梓は唯たちをひとりでまなざす。



※ほんとうは、番外編(25,26話)の前に、先に『映画けいおん!』を観ちゃいました。



・25話 番外編1「企画会議!」
唯の前髪から22話後の時系列だとわかるの良いな笑
新歓用の部活紹介ビデオとして、練習シーンや演奏シーンが一切映らずに、軽音部を取り巻く生徒やとなりのおばさんなどの「軽音部への印象」コメントを並べてゆく構成は、言うまでもなく、そのまま『けいおん』の本質をあらわしている。
ライブ演奏の音だけがBGMとして鳴っているのも、23話のテープレコーダーと結びつけて考えちゃう。

平沢家の「となりのおばさん」を題材に一本けいおん論を書こうかな
両親が出てこない替わりの存在ともいえるし



2期の総評

アニメ第1期は「風格はたしかにすごいが、あと一歩のところで『大好き』とは言えない」くらいの印象だったが、この2期を観たあとなら言える。アニメ『けいおん』は、2期からが本番であって、1期はそのための下準備・序章に過ぎなかったのだと・・・。

1期は本編12話の1クールで、唯の高校入学~2年生終わりまでの2年間を描く。対して2期は本編24話の2クールで、3年生になった唯たちの、高校生活最後の1年間を描く。つまり、アニメの尺は2倍になったのに、描く作中期間は半分になっているので、単純に考えても2期は1期の4倍の時間密度で物語が進行していることになる。換言すれば1/4のスローペースで、ゆっくりじっくりと彼女たちの日常生活を描写している。

「物語が進行」と書いたが、じっさいのところ、何らかの目的のために奔走したり挑戦・挫折したりするようなドラマ性は『けいおん!!』にはほぼ無い。努力も成長もなく、ただ、高校生活最後の1年が日々過ぎ去っていく時間の流れが粛々と描かれる。これが「日常系アニメ」と呼ばれるゆえんであり、上で「唯に成長はないが卒業はする」と書いたのもこの意味だ。

アニメ1期『けいおん!』も、その日常性は同じようなものだったかもしれない。それでも、わたしが2期を『けいおん』の本領発揮だと感じたのはなぜか。

まず、1期では「初めて」の学校行事・イベント・出会いが多く描かれる。唯の軽音部への入部、仲間3人(や顧問)との出会い。ギター購入。(初めてのアルバイト。) マイペースにも演奏の練習をし始める。初めての夏合宿。初めての学園祭ライブ。クリスマス会。そして1年があっという間に経ち、初めての新歓、初めての「後輩」との出会い……。

このように、1期では唯たちが経験する「初めて」がたくさん描かれる。というより、ほとんど、それらの描写だけで全12話が構成されているといってもいい。なにせ、1クールで2年間を駆け抜けるという超ハイスピード構成なのだ。ほかの日常系アニメではあまりないタイムアタック感。「初めて」のイベントということは、非日常ということである。「なにげない日常も、唯たちにとっては素晴らしい祝祭的な体験の連続に変わる──」とかではなくて、もっと一般的な意味で、1期はもともと、唯たちの非日常的な日々で作り上げられていたのであり、じつは「日常系アニメ」ではない、とまでいえるかもしれない。あるいは、こういってはどうだろう──『けいおん!』1期は、唯たちが、「高校生活」の非日常性を咀嚼して、慣れて、「日常」として受容できるようになる過程を描いたアニメである──と。

1期は2期の下準備に過ぎない、と書いたのはこういう意味である。1年生編~2年生編を1期で駆け抜けたことで、唯たち軽音部にとって、高校生活のだいたいの「初めて」は経験し尽くした。1年というタイムスパンがどのように進行して過ぎてゆくのかも、だいたいわかった。梓という後輩も出来て、関係も確立して、これでようやく軽音部はスタートラインに立ったのだ。何の? 「日常」を始めるスタートラインに、である。

2期は1期と比べても、圧倒的に「なんでもないような日常回」が多い。部室の整理整頓に費やす2話、りっちゃんがしょーもないワガママを言い出す3話、6話「梅雨!」や11話「暑い!」なんて、マジでただの日常である。梅雨や猛暑はイベントというよりは季節の巡りそのものだ。梅雨や暑さといった季節の必然を「やり過ごす」「耐える」エピソードは、そのまま、このアニメが、挑戦や葛藤や成長や挫折ではなく、自分ではコントロールできない次元で進行している「時間」の流れに身を任せた高校生たちの「時間経過」を描くことを主眼に置いていることを示してもいよう。

やや補足:『けいおん』が学園モノ・学生モノなのはこのためなのかもしれない。すなわち、わたしたち人間の上には誰にでも等しく時間が流れているが、そうしたニュートラルな「時間経過」は、そのままではアニメという物語作品たりえない。社会人の判で押したように過ぎてゆく徒労の日常生活をいっしゅんだけ思い起こしてみればよい──そんなもの虚無すぎてアニメにできない。いや、断じてアニメにしてはならない。(そうだろう?) このように、大人の時間経過は、もはや「時間経過」だと認識できるアイコン・目盛りが存在しないためにアニメの主人公となるのは難しい。たほう学生、高校生であれば、当人が何も変化・成長しなくても、学校という時空間の制度が、彼女の時間経過に1年生・2年生・3年生という目盛りを、そして卒業という締めくくりを与えてくれる。この「時間経過」ならばアニメのなかで描くことができる。『けいおん』が学校生活という限りある時空間を描き切ろうとしているアニメであることと、日常系の代表作であることとは、このように必然的な構造として理解できるのかもしれない。

また、上述の通り、4話で唯たちの修学旅行を描いた次の5話「お留守番!」で、学校に残された梓の何気ない──騒がしい先輩たちがいない点ではちょっぴり非日常の──学校生活をも描くことを忘れない(というか、むしろ「行事」の裏側でいつも通り進行する平凡な生活を描くことこそを本懐としている)ところがほんとうにすばらしい。これぞ『けいおん』、これぞ日常系。

5話お留守番回や16話「先輩!」回など、2期では唯たち3年生ではなく2年生の梓(やその友人たち)視点のエピソードがしばしばある。これは一面では、明らかに最終話のあの展開のための下ごしらえであるが、唯視点だけでなく梓視点という、ひとつ下の学年からの視座も導入することで、『けいおん!!』の高校生活(の最後の一年)は立体的な奥行きを獲得している。これは日常性と非日常性のあわいを追求するうえでも効果を発揮しているだろう。1期で梓が入部する2年目までをも描いてしまったのはこのためだともいえよう。2年目までを描いてはじめて、梓という後輩がいる軽音部が「日常」になるのだから。見送るものと見送られるもの、という学校生活のバトンの輪廻の歯車が揃うことにもなるのだから。

たしかに学園祭ライブや、最終話で描かれるような卒業という大きな非日常的なイベントを扱ったエピソードの質は高く、ものすごく感動するが、しかし、『けいおん!!』の核心は明らかに、それ以外の、言ってしまえばマジでしょうもないことをやって限りある青春を浪費している話の積み重ねにあるだろう。浪費することそのものがもっとも青春を体現するという、われわれがよく知って(は)いる逆説をその身に纏いながら。

「初めて」づくしだった1期とは対照的に、2期では今度はあらゆるイベント・毎日に「高校生活最後の」という前置修飾節がつく。夏フェスを観たあとの夜の語らい、学園祭ライブを成功させたあとの部室での会話。どんなに「今」を全力で楽しもうとしていても、いずれくる「終わり」の気配から目をそらし続けることはできず、むしろ「終わり」から逆照射されるかたちで「今」が否応なしに輝いてしまう、ことへのアイロニックな想い。彼女たちはけっしてここまで言語化することはないが、山田尚子による統一的でコンセプチュアルな演出──彼女らの手や脚の繊細な動きを切り取ってゆくカット、軽音部以外の、名もなき3年生たちの日常の姿や、ただ佇む学校の校舎や石像や空間を映してゆく手法──によって、これをアニメとして見るわれわれには強く現前してくる情動が、雰囲気がある。

限りある学校生活という時空間の称揚。これが、わたしが『けいおん!』1期を見て感じとったテーマであった。それはむしろ2期によって徹底的に掘り下げられ、完成されていた。

1期の感想でわたしは以下のようなことを書いた。

『けいおん!』は、その「〈学校〉を、異物を排除してどこまでも純粋に描き切ってやるぞ!」という姿勢と完成度が高すぎるがゆえに、かえって、その試みの危うさ・残酷さに直面させられる。・・・平沢唯というこの「女子高生」は、どこまでも「女子高生」であり、高校生活3年間のあとでも存在できている姿があまり想像できないのである。(中略)「実際に」平沢唯という人間の今後の人生がどうなるのか、という次元の話ではなく、この『けいおん!』というアニメ作品があまりに自己完結的で楽園的で幸福であり過ぎるがゆえに、その「完璧さ」を根底で保証しているのが、「彼女らは高校生である」という期限付きの身分であることに思いを馳せずにはいられず、彼女(ら)の輝かしく幸福な「日常」をこうして完璧に描いてしまうことそのものが、なにかとても恐ろしいものを感じてしまうのである。

わたしのこの「不安」、「危惧」とでもいうべきものは、いうまでもなく『けいおん!!』2期までみることで解消される。平沢唯の高校卒業までを描いているからだ。「終わること」をメインテーマとして向き合っているからだ。この意味でも、わたしはアニメ『けいおん』の1期より2期のほうがずっと好ましく観れたのだろう。

アニメの『けいおん』では──このあとの劇場版もふくめて──平沢唯たちの高校卒業「後」は描かれない。つまり、高校卒業と同時に、この『けいおん』という世界から姿を消す。あるいは、平沢唯の卒業とともに『けいおん』という世界は終わる。「限り」がある。それは、ある意味ではとても残酷なことかもしれないが、わたしには、フィクションと現実へのきわめて真摯な回答のように思える。

(ここで例えば最近の映画『ゆるキャン△』を引き合いに出して、日常系アニメのキャラクターたちが学生の身分を卒業して大人に、「社会人」になった姿を(アニメオリジナルで!)描くのもまた、ひとつの挑戦であり、誠実なアプローチだと評価することもできるかもしれないが、残念ながらわたしは映画ゆるキャン△を許すことができない。)


また、1期感想でも言及したが、かきふらいによる原作漫画『けいおん!』では、唯たち4人の高校卒業の大学生編や、梓たち3人の高校3年生編が存在するということなので、いろんな意味で、ぜったいに読まなければいけない。読みます。あと、いまwikipediaをみてたら『けいおん!Shuffle』なる新作(!?)の存在を初めて知ったのですが、これ何!? まったく聞いたことなかったんだけど・・・。触れちゃダメなやつですか??




・『映画けいおん!』(2011)

2023/4/1 鑑賞

見終わったあと、めずらしく、なぜか感想メモをまったくとっていなかったので、2か月近く経ったいま覚えている所感を書きます。

えーと……ロンドンへの卒業旅行を題材とした「旅アニメ」ということで、旅程の風景の描き方にとてもテンション上がりました。ロンドン到着後もいいですが、出発日の朝~空港のシーケンスが特に好きだったような。

少女たちのゆるふわ日常系TVアニメの劇場版で、いつもの日常を飛び出して非日常的な旅行を描く──というのはよくある……というか、この『映画けいおん!』がその嚆矢、流れの偉大な立役者なのかもしれません。こうした、旅に出るタイプの日常系アニメ劇場版としてわたしがもっとも高く評価しているのは『劇場版 のんのんびより ばけーしょん』で、あれは〈日常系〉という枠組みと、(匿名的な)〈田舎〉というTVシリーズでの主題を、沖縄(という記名的/アイコニックな観光地の"田舎"を訪れて現地の同い年の少女と交流する)旅行というプロットで見事に批評的に扱った傑作劇場版だと思っています。(いつかちゃんと論考を書きたいと言い続けてはや数年)

閑話休題。えーと、映画けいおんの話でした。・・・といってもマジで特に内容をあんま覚えてないんだよな・・・けっしてつまらなかったわけではなく、ふつうに感動はした(終盤の屋上で4人が走るシーンとか)けれど、いかんせん、2期最終話が完璧すぎてそれを上回ることはどうあがいても無理だったというか、その「天使にふれたよ」初披露にまでに至る、別角度での補完的なエピソードとしての劇場版、という位置づけにいまいち積極的な価値を見出しづらい。

唯たち3年生から梓への歌「天使にふれたよ」の制作秘話という面がひとつの軸となっている映画ですが、唯たちにとっての梓を形容する語として最終的に「天使」に辿り着くまでに、ロンドン滞在中にいろいろなモチーフを散りばめている。特に、野外ライブステージでの鳥と赤ちゃんのイメージはかなり強調されていた。

赤ちゃんが嫌いというわけではないけれど、「梓=天使」という解答を引き出すまでのヒント・隠喩として、「赤ちゃん=天使」という図式を持ってくるのはそれほどスマートな演出だとは思えない、というのが正直なところです。天使の翼的な意味での鳥ならまだしも、無垢さの象徴としての、あるいは新たな生(活)の具象としての幼児を、そのまま梓に繋げるという流れには違和感があります。なんていうのかな、赤ちゃんのような「強い」モチーフを経由せずにあずにゃん天使説へと辿り着いてほしかったというか、幼児によって梓の天使性がむしろ相対化されてしまう気がするというか……。

海外という非日常的な舞台もあってか、この映画は(おそらく意図的に)「地に足のついてなさ」が演出されており、キレのいいコメディ調とか、天使へと至るまでの、唯の目にうつる世界の風景の暗示的・隠喩的な立ち現れ方とか、なんか全体的に、この映画版は一回観ただけだと「むずかしい」という印象です。ふわふわしていて、でも意味深で、スラップスティックだけど神妙で高尚でもあり……というトーンが、TV版とも違う受容を迫ってくる。わたしはまだ『映画けいおん!』を消化・咀嚼できていません。


映画でいちばん衝撃だったのは、なんといっても平沢家の両親が初めて登場したことです。えっ、ここで出てくるの!?!? それこそずっと家を空けて海外にいたんじゃなかったっけ!? と・・・。

後ろ姿だけかと思いきやふつーに顔も出てくる。これまでの、徹底的なまでの隠匿はなんだったんや・・・。既存のTVシリーズでの「ルール/常識」が破れる無法的・非日常的な空間としての劇場版…という位置付けはひとつあるのかもしれない。




・おわり

おわりです。漫画のほうも読んだら感想書くかも書かないかも。

あと、このアニメ『けいおん』と、去年(2022)の冬に放送していたアニメ『明日ちゃんのセーラー服』を比較?する動きがインターネッツの一部であったらしく、

この3時間弱の動画も最初から最後まで聴きました。(思い出そう!そもそもわたしがこのたびアニメ『けいおん』を観ようとしたきっかけは低志会↑の別の動画である!)

わたしはアニメ『けいおん』を2023年になって初めて視聴した正真正銘の初心者(原作漫画未履修)で、漫画『明日ちゃんのセーラー服』がオールタイムベスト級に好きなこじらせオタク・原理主義者(アニメ化にも反対していたし未だに受け入れられない)なので、いろんな意味で、この話題に首を突っ込む資格はなく、誰も幸せにならない結果を生むだけだと思うのですが…… 我慢しきれずに少しだけ私見を述べておくと、わたしは両作はまったく異なるものだと認識しています。どっちがすごいとか、そもそも比較することがナンセンスなほど別のジャンルの作品である、と。『明日ちゃんのセーラー服』はそもそもけいおんのような日常系ではないし、ましてや「限られた学生時代の青春の刹那のきらめきを云々…」という系譜の作品でもない。(アニメOP「はじまりのセツナ」?あんなんアニメスタッフが勝手にやってるだけや!!) これについては、気が向いたら、というか「我慢しきれなかったら」また別の記事として投稿します。すでに数千字の原稿は書いてあるので……



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