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藤高和輝『バトラー入門』(2024)感想



ジュディス・バトラー、『ジェンダー・トラブル』とか読みたいな~~でも絶対に挫折するだろうな~~と思っていたところに、まさかの新書の入門書が! これは読むしかない!! サンキュー筑摩書房! ということで、藤高和輝『バトラー入門』を読みました。バトラーのことも、著書(藤高和輝)のことも特に何も知らない状態で読みました。



感想

24/7/14(土)~15(日)
藤高和輝『バトラー入門』(ちくま新書、2024)読んだ。

バトラー『ジェンダー・トラブル』の哲学的な内容の解説書ではなく、その著書が書かれることになった同時代のレズビアン・フェミニズムやクィア・アクティヴィズム等の社会運動の背景の解説に多くの紙幅を割いており、それによって結果的に『ジェンダー・トラブル』の意義や偉大さや魅力がものすごく分かりやすく理解できた。

「っていうか」や「はわわ」などを本文中に普通に使う、口語調のめちゃくちゃ砕けた文章はやや冗長にも取れるところがあり、拒否反応を示す読者もいるであろうと容易に想像できる。──序文で否定的に言及される「男性哲学者」たちの著作を好んで読んできた人々がまさに当てはまるだろう。

つまり、バトラーが「ピエロ」でもあったと述べるように、この藤高さんの軽妙な文体や構成は、それ自体がバトラーの思想を体現し、既存の男性中心の規範的で抑圧的な「哲学」(及びその解説書)の撹乱=トラブルを試みんとする、きわめて自覚的で戦略的で政治的なものである。

個人的には、それこそこのnoteとかで自分が使っているような文体(こうしてカッコでセルフツッコミ入れたりするやつ)に近いものを感じたので、親近感を持って読むことができた。"合って" いた。(ま、さすがに冗長じゃね?と思う箇所がなかったわけじゃないけど……) ヘーゲルやカントが好きな知り合いが「バトラーあんまよく分からん」と言っていたことも腑に落ちた。


本書の前半4割くらいは、バトラー入門というよりエスター・ニュートン入門になっていたんだけど、レズビアンの「ブッチ/フェム」という概念すら知らなかったので、それを巡るレズビアン・フェミニズムの反発とそれに対するニュートンやバトラーの批判の流れなど非常に勉強になった。

最近のじぶんの関心でいうと、「トップ/ボトム」という概念が日本語でいう「攻め/受け」にあたるものだと紹介されていて注目せざるを得なかった(p.26)。本書では、愛し合うレズビアンふたりが共に「トップ」だったためにセックスに「失敗」した……という実話が引かれていて、私は、じゃあフィクションにおいても「ふたりとも「攻め」だったから両想いなのにセックスができない」場合が描かれ得るのだろうか?と思った。(さいきん、カップリング二次創作──特に百合──における攻め/受け概念を知って「わからん!」となっています。)

本書では「トップ/ボトム」は各個人に内在する属人的な属性のように説明されているが、しかし私が把握する限り(キャラクターの)「攻め/受け」は個人の属性というよりも、ふたり(以上)の人間関係を前提としたときに初めて発生する権力関係の配分(role)であり、「2人とも攻め」「2人とも受け」みたいな状況は原理的に存在し得ないのではないか、と思っている。とするならば「トップ/ボトム」と「攻め/受け」の概念は決定的に異なるのか?

……いや、本質的な差異はそれらの語彙のあいだにあるのではなくて、現実(3次元)の人間か、虚構(2次元)のキャラクターか、という点にあるのではないか。すなわち、フィクションで「2人とも「攻め」だったのでセックスに失敗する」ことが考えにくい(=攻め受け概念が本質的に関係主義的である)のは、まずフィクションを創造する(/消費する)者の欲望(セックス(に成功)してほしい)によって駆動しているからではないのか。

……みたいなことを雑に考える契機となった。(たぶん探せば絶対に「2人とも攻め(受け)だったから上手くいかない」創作物もあるのだろう)


本書を読んで、竹村和子が『愛について』第一章であれだけ〔ヘテロ〕セクシズムのありようを強調するところから始めた理由が身に染みた。やはりジェンダー論や「フェミニズム」は本来的に「反-異性愛規範」「同性愛者の社会運動」というセクシュアリティの問題と切り離すことは出来ず、その文脈を引き継いで見事に理論化した『ジェンダー・トラブル』の訳者なら、そうなるに決まってるわ、という納得。

その上で、性差別と同性愛差別だけでなく、人種差別や階級差別といったさまざまな問題が交差するインターセクショナル・フェミニズムという視座の重要性を後半では繰り返し説いており、ポストコロニアリズム、岡真理、反資本主義、アナーキズム、高島鈴とも自分の中で繋がり、やっぱりこの辺はぜんぶひっくるめて大事だし、「私たち」という一人称複数形でつねに取りこぼされる者たちの存在を考え続けざるを得ない必然性があるなぁと理解した。

これらの要素に加えて、個人的にはやはり動物倫理(種差別・ヴィーガニズム)や反生殖主義(非存在差別)もまたこれらの交差性に合流すべきだと強く思った。これは岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』を読んだときにも感じたこと。

すなわち、フェミニズムは突き詰めると必然的に、その周縁化された「被差別存在」の周縁領域を無限に拡大していくことになり、「人間」である時点で、あるいは今ここに「存在」している時点で〈サバルタン〉を抑圧する特権性を帯びていることに向き合わざるをえない。反生殖主義の帰結は人類の(ゆるやかな)絶滅でしか有り得ないため(そうか? ここは要検討)、フェミニズムを徹底した先の「政治」は、もはや「政治」の対象となる人類の存続が否定されるしかなくなる。ここまでくると、ゆいいつ可能な「政治」は、われわれはいかに「社会」を持続的に運営すべきかではなく、いかに「社会」を終わらせるために運営していくべきか、になる。生きるための政治(=哲学=フェミニズム)ではなく、老いて死ぬための政治(=哲学=フェミニズム)。この地平では、本書の最初にあっさりと退けられた、男性中心の権威的な「哲学」の蓄積を利用する余地がまた墓場から生き返ってくるのかもしれない。

「老い」というテーマとも繋げられると思うけれど、このあたりの「人間なるもの」を線引きする権力についての記述は完全に国シリーズだ……となっていた。やはり国シリーズをバトラー(というかフェミニズム・クィア理論)で読むことの可能性は大きいと思う。

あるいは、ジェンダー規範によって抑圧され周縁化され非現実化される「理解不可能で奇怪な存在」という描写は、こないだの『ヒラヒラヒヒル』論の「美少女(ヒロイン)と化け物の癒着関係」にも通ずる話だと解釈できて、ほんとそれな〜〜となった。

やはりノベルゲームやエロゲをフェミニズム的に/クィアに読むことの意義は大きいし、何より自分がとても興味があることだと再確認できてよかった。



・そのほか

p.92にある、「ブッチの男性性は「女性の身体」を地=背景にすることでより強調された形で「浮き彫りになる」」……のでその「ギャップあるいは不連続性ががエロスを生み出す」というのは、要するに、ネットでよく言われる「「女装」はもっとも男性的な行為である(からエロい)」というクリシェと似たような話だと理解してしまった。……そんなに間違ってはないよね!?


ここからはかなり個人的・実存的(?)な感想になるけれど、本書を読んで、「ジェンダー」を「増やす」ことの意義、あるいはすでに存在している多様で撹乱的・不安定な「ジェンダー」を認識して理解していくことの意義を学んだために、じゃあ、いっそのこと、じぶんの「ジェンダー」も固定的に考えなくてもいいんじゃないかと思った。

前述のエロゲ評論もそうだけど、自分はnoteなど色々なところで「シスヘテロ男性」である、と自称してきたが、そう表象し発言することによって行為遂行的に自身の「ジェンダー」が常に再生産・再強化されて固定されてゆく節があると改めて自覚した。

今の自分が「女性」であると思うことは難しいけど、「男性」からいったん降りてみることはそれほど不可能なことでもないんじゃないか、自分をたとえば「ノンバイナリー」であるとして生きてみることはできないだろうか、と思った。

つまり、これまでのじぶんは、ジェンダー・マイノリティの人々、例えばノンバイナリーな人なら、「じぶんは「男性/女性」では絶対にない! じぶんはノンバイナリーとして生きていくしかない!」という切迫した切実な実感に必ず突き動かされて「ノンバイナリー」であるのであって、そうでない気楽なあり方は許されない、存在し得ないと思っていた。もちろん多くのジェンダー・マイノリティの人々は、そのように個別的に切実な意識のもとで、あるいはあまりにも自明な確信をもってそれらを自称しているのだろう。

けれど、本書を読んで、バトラーの思想が、じぶんをジェンダー・マジョリティだと思っているわたしのような人間のジェンダー観をも絶えず揺さぶってくるのを感じた。……というか、そもそも「ジェンダー」とは原理的に「起源なき模倣」でしかあり得ず、すべての人々に生きられている(≒模倣/パフォーマンスされ続けている)ジェンダーはつねにすでにズレているし失敗し続けているのだという思想を知って、もっと気軽にジェンダー・アイデンティティの不安定さ、曖昧さ、ズレに身を浸らせてみていいんじゃないか、と思った。

現在の自分のセクシュアリティ(欲望)の対象は「女性」であり、ゆえに「男性」である自分は「ヘテロ」であると思ってきたけれど、仮にノンバイナリーとするならば少なくとも「ヘテロ」ではなくなる。あるいはセクシュアリティの対象自体を再検討することもできて、「女性」に分類されないジェンダー──「男性」やそれ以外の人々を欲望することは本当に不可能であるのか、そして端的に「女性」といってもそれは一枚岩ではないわけで、本当に「女性」が欲望の対象を名指すシニフィアンとして適切なのか、そこにはズレや漏れや余剰があるのではないか……等々、再考の余地はあると思えた。


ただし、これまで「シスヘテロ男性」として(とくに自覚や意識することもせずに)生きてきた、まぎれもないマジョリティである自分が、このように呑気にその特権的な立場を「降りて」、ノンバイナリーなどのジェンダーを生きる可能性に思いを巡らせようとすること自体が、きわめて危ういものであることを忘れるわけにはいかない。

簡単にいえば、それは男性の特権性から「逃げる」あるいはそれを「隠蔽する」行為とも捉えられるし、そもそも呑気に「「男」じゃなくて「ノンバイナリー」だと思っても特に問題ないかもなぁ」などと思えること自体が、これまで社会で生きてきたなかで自身の「ジェンダー」を意識した(させられた)機会がいかに少なかったか、その特権性を明らかに示すことに他ならないのだから。

このような「危うさ」を自覚してもなお、本書でバトラーの思想に触れて、「やってみる」のは悪いことばかりではないのではないか、と思った。そもそも自分にはそんな余地はないと思い込んでいたのを少しでも揺るがされたのだから、それが特権階級の暴力的な「戯れ」だとしても、自分で自分のジェンダー経験をできる限りで撹乱してみようと感じた。

それに、「シスヘテロ男性」として生きてきた(生きることができてきた)特権性を引き受け続けることと、現在とこれからの自分のジェンダーの撹乱の可能性に思いを馳せることは、なにも排他的ではなく両立できるのでは、とも思う。

じゃあ具体的に、自分が「ノンバイナリー」だとして、どうするのか(これまでの生活と自己認識から何を変える/変えられるのか)?……に関しては、よくわからないのだけれど……。とりあえず、「ノンバイナリー」として積極的に何かする、というよりも、自分を「男性」だと当たり前に思うことをやめる(疑義を差し挟む)という消極的な実践から始めるのがアクチュアルかなぁと考える。


現在の自分は、一部の「男性」オタクが言うように、(それが生身の女性だとしても2次元「美少女」のことだとしても)「”女性” になりたい」とは一切思わず(それは自分のミソジニーのひとつの表象である可能性があるわけだが……)、どちらかというと、「男性」にしろ何にせよ、固定的・規範的な「ジェンダー」への違和感は強い。

「"男" から降りたい」というのは「男らしさの呪縛」とかが関係ある男性学の範囲な気もするのだが、「男性学」に自己をコミットすることで自身の男性ジェンダー・アイデンティティを強化してしまうのではないか、という不安もある。もしかしたら自分は女性嫌悪のみならず男性嫌悪もあるのかもしれない。「ジェンダー」規範一般への忌避感。(もちろん自身のミソジニーとミサンドリーを素朴に並列化して同一視するのはまずい。個別にも考えるべき)

なので、終章(pp.254-255)で引用されているバトラーの「あらゆる名前の隙間で生きようと努める」「私の名前から距離をとって生きる」という言葉にはとても「共鳴」する──することが許されるならば。

とうぜんジェンダー・アイデンティティの問題はそのまま「私とはなにか/誰か/本当に存在するのか」という "普遍的" な(という言い方がマズければ「ジェンダーが顕在化していない」)アイデンティティの問題──独我論や無我論──にも接続するわけで、ここまでくると、じぶんがフェミニズム等に関心を持つ前からの、それこそ幼少期からの個人的な関心・問題意識と連続性を見い出すことができるので、自分のなかでジェンダーやフェミニズムへの関心・共感がより深まる。


じぶんが現実で女性との関わりを避けるのも、それによって自身の「男性性」を意識させられるから嫌なのではないか。(他者としての)「女性」嫌悪と(自己としての)「男性」嫌悪が表裏一体となっている。

また、じぶんが現実の「同性愛」や(フィクションにおける)「百合」に、(異性愛主義への反抗としてフェミニズム的な意義は理解しつつも)そこまで心から “のれない” (=応援できない)のも、おそらくこの「ジェンダー」嫌悪が関係していると思われる。(にしても「理解」とか「応援」とか、ほんっと何様の目線で言ってんねん! この特権性に無自覚なマジョリティが!……という感じですね……)

ジェンダー関係なく、人間やキャラクターには生きていてほしい(※)。でも、こうしたジェンダーの透明化の願望はそのまんま同性愛の透明化という、男性中心主義と異性愛主義の暴力言説の最たるものでもあるんだよな…… フェミニストとしてそれは理解しているつもりなので、ここで「詰む」。

※「ジェンダー関係なく生きていてほしい」はお前バトラーの何を読んだの?ってくらいのとんちんかん発言だった。ひとは「ジェンダー」という規範から完全に自由になることも、超越することもできない。だからこそ、「ジェンダー」規範の内部でそれを絶えず撹乱して再配置して隙間を空けてトラブルを起こしていくことが大事。ひとつの「ジェンダー」に安住しないこと、常に「パロディ」していくこと。あらゆるジェンダーは「パロディ」でしかないことを念頭において、その中で自分の思うように生きること。

だから、バトラーや竹村和子の思想が自分には合うのだと思う。男も女も、異性愛者も同性愛者も、それ以外の者たちも、みんな、絶えず〈トラブル〉としてのジェンダーやセクシュアリティを生きているということ。そもそもジェンダーとは原理的に「ものまね」(起源なき模倣)であり、「不自然」であるということ。

自分も「わたしは(男性の)異性愛者だ」という認識の不安定さ、「不自然さ」を絶えず考え続けるから、あなたも「わたしは(女性/男性の)同性愛者/異性愛者だ」という認識を自然化せずに疑い続けてほしい。男性と女性、そして異性愛者と同性愛者には、現実社会のなかで歴然とした不均衡があるがゆえにこうしてフラットに並べることは公正ではないと頭では理解していても、それでも……。

自分もトラブルとしてのジェンダーを生きるから、みんなもそうであってほしい。そうなって初めて自分は〈他者〉を本気で応援したり連帯したりすることができるのだと思う。

何を書いても、どこまでも、ジェンダー・マジョリティとしての特権的で傲慢な目線による物言いを完全に払拭することができない……そのことにさっそく絶望しそうにもなるけれど、マジョリティなりに、マジョリティ "である" じぶんのなかからジェンダーやセクシュアリティという規範の自明性を疑って虚仮にしていきたい。あと『ジェンダー・トラブル』読みたい。


今年復刊というか新装版が出された竹村和子『フェミニズム』(岩波現代文庫)読んでるけど、めっっっっちゃくちゃ面白いです。竹村和子まじやばい。最高



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