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ノベルゲーム『ヒラヒラヒヒル』感想メモ

瀬戸口廉也さん企画・シナリオの最新作『ヒラヒラヒヒル』をようやくやり終えたので、感想メモを投稿します。不満点もありますが、概ねとっても面白かったです。

クリア後の感想だけ読みたい方は、目次↓から「クリア後の感想」に飛んで下さい。



総プレイ時間:23時間
実プレイ日数:6日間

プレイ中のメモ

・プロローグ

『SWAN SONG』と同じような、テキスト表示の場所がシーンやイラストによって移動するビジュアルノベル形式。
テキストWINの背景の濃さを調節することは出来ず、入念にデザインされたものを読んでほしい、という設計。(しかしUD(ユニバーサルデザイン)フォントに変更することは可能になっている。→読み易さのために以後UDにした)
システムが行き届いている。個人的には、ボイスがバックログ移行時や通常画面へ戻る時にも中断されないのが助かる。


・千種正光の章 一 

冒頭のシーンは三人称だが、「第一章」からは男主人公の一人称。
男主人公にもボイスがある!!
千種正光(ちぐさまさみつ):駕籠町病院に勤務する二十代後半の新人医。父が元海軍中将の貴族院議員。自分なりの臨床の信念がある。
「看護婦と看護人」……時代背景を考慮した敢えての使用だろう。
現行の風癩病監護法に医療的観点から修正を加えるために「実況調査」に赴く。『向こう側の礼節』でも見た話題。
千種の産みの母親は風癩病だった。じゃああの両親には引き取られた? 養子?
ハテナ写真:「景色と人物の別々の写真を合成したもの」……ノベルゲームの素材?
千種が患者の人生に肩入れし過ぎるのを加鳥先生が諫めるのも、メタに読んでしまう。
辻菊 栄(つじきく さかえ):写真家。加鳥先生は千種に老婆心を働かせて彼女とくっつけようという算段か。
めっちゃ泣ける……老婆、というか母の子供への愛の話に弱い…… めっちゃ重い、そして社会派な内容だ。すばらしい
うわ〜〜ここで選択肢!!!
>(老婆に金銭を)渡さない。


・天間武雄の章 一 銀座のひひるたち
上田麗奈さんの声がする 常見 明子(つねみ はるこ)さんは、北国出身の一高生、天間 武雄(てんま たけお)の下宿先の娘で女子師範学校生。
常見鎮柳(ちんりゅう) 明子の父で高名な小説家。月曜19時から毎週「戌一会(じゅついちかい)」を開いている。
松埜(まつの)勝二:洋画家。カフェー・イヴェール店主
カフェ店内の背景の机に、明子さんの立ち絵の上半身だけが座っているように映る。『白昼夢の青写真』でもこういうの見たな

野村夜:22, 3歳ほどの風爛症の高名な画家。白い仮面を付けている 「ひひるさん」
前章の風爛症患者とはまったく異なる階級、扱われ方。
明子さんと武雄さんのカップル、めっちゃストレートに萌えなんだけど。上田麗奈さんのCVがヤバい。1章とトーンが違いすぎる
俺TUEEE系で草 また私が何かしてしまったでしょうか。いつでもお訪ね下さい。一高の天間武雄です。

「補稿 万治元年に書かれたと或る下級武士の手記」 東山藤次郎 江戸のひひる狩り


・天間武雄の章 二 常見家
武雄も明子に気があるのか。ウキウキしてきた 田舎の18歳の長身真面目男子と都の17歳の秀才女子の幼馴染関係
常見家の21歳の女中、お辰さんマイペースでおもろい人だ
武雄の父は常見鎮柳の高校の同級生。藤村鴎、芳賀伊秋……

昼食時の鎮柳先生の御高説。前章の加鳥先生の講釈もそうだけれど、こういうテキスト形式のビジュアルノベルにおいて、ややロングショット気味の(複数人が映る)スチル場面で、長々と喋ることが出来る、というのはそれだけでひとつの権力の表れだ。そのことが、画面中央にテキストがズラーッと表示されるこの形式では一層感じられる。「上座」

また、どこで改ページをするか、というのも重要で、特に今作では背景スチルの構図を踏まえて行われていると思う。小説だと基本的に、そのページの端まで埋まったら次のページに自動的に行くものだけれど、こうしたビジュアルノベルではそこもライターの技量とセンスが問われる。
「ギョオテ」の『ファウスト』(森鴎外訳)を読む武雄。(明子は既読)
明子「みんな一緒なんです。本当は」 天才だが病弱な明子さんの気持ち
衣川兵太郎(きぬかわ ):武雄の学友

・天間武雄の章 三 ブランコ松の下で
「女衒」には風癩症患者の女性が多い、なぜなら子を孕まず、色白で、痛みも感じにくいから…… エロゲのヒロインのメタファーとして読んでしまう…… 前章でも感じたが、『沙耶の唄』とかは露骨に参考作だろう。「おぞましいもの」から過激さを削ぎ落として、我々と同じ「人間」にまで持ってくるという大変な作業。

衣川が通っていた貸座敷(風俗)の「ひひる」美代の変わり果てた姿を見て、彼女との約束から介錯しようとしている。
士たるもの一度した約束は絶対に果たさねば……的なことを謳っておいて、ひとりでは怖気付いて殺せないから手伝って、ってダサいな……まぁお坊ちゃんの学生だしな…… 入れ込んだ風俗嬢への向き合い方に悩む大学生男子、ということで、図らずも『初めての彼女』に通ずる。

選択肢! これ、1章と同じで、積極的な決断をしないとすぐに話が終わってしまうパターン?
>衣川を止めて、別の方法を考える。
衣川ほんとしょうもない奴で好き
「学生さん」

・天間武雄の章 四 ひひるの居場所
またも俺TUEEE展開で草
萩田ミツ、21歳、北関東(埼玉)の寒村の出
ほんと『星霜編』を思い出す話だなぁ

一般的なエロゲ(などのサブカル作品)だと、すぐに大切な女性とふたりきりで逃避行やら先のない生活をしようとして、閉塞的な二者関係に閉じこもろうとするが、本作ではまったくそういう方向性ではなく、しっかり社会のなかで「ひひる」の存在や家族などの人間関係、制度問題、経済問題、医学的問題……など重層的なものを扱っているのがえらい。
そもそも、衣川という男主人公の友人ポジションにそういう問題を発生させて、そこに第三者として協力する形を取っている時点で二者関係ではなく三者関係の話になっている。
また、1章から続けて私宅監護の実態を描いており、風癩症患者の親や家族や親戚、といった周囲の人々の苦しみにも焦点を当てているため、なおさら、ぽつんと可哀想なヒロイン(と男主人公)だけがいる構図には成り得ない。
それでいうと、1章の千種先生も2章の天間武雄も、大正時代の「帝都」の圧倒的なエリート階級の男性であり、「かわいそう」な属性に親和性が薄い。(千種の産みの母が風癩症だったらしいが今は華族である。) つまり、「かわいそう」な風癩症患者やその周囲に対して類似性から同情するのではなく、この男主人公たちは遥かに恵まれた存在として接することになる。それが1章の選択肢の葛藤によく表れているが、悲惨で不条理な社会の仕組みを丹念に描く物語において、その視点人物が特権階級であることの誠実さが本当にすばらしいと思う。ノベルゲームにおいて「(男)主人公」とはひとつの特権階級なのだ。

とか息巻いて書いてたら、衣川がまさに俺の家で引き取るとか言い出し始めた……が、それを主人公(武雄)は冷静に第三者目線で検討し、そして1章の加鳥先生が都合よくやってきて手を差し伸べた。……そうだそうだ! 社会から零れ落ちそうな人物(ヒロイン)がいたら、彼女の手を取ってロマン主義的逃避行をするのではなく、まずは専門の医療機関に相談すべきだ!! それを言ったら、衣川だってミツさんをこっそり自分の家の倉に連れてきて匿うのではなく、ちゃんと警察に赴いて正式な手続きを経ようとしているのがえらい(し、生ぬるい坊っちゃん学生らしくもある)。

加鳥周平先生、立派で偉大で良い人なのは間違いないが、同時に胡散臭さもどんどん漂ってくる絶妙なキャラクターで良いですね

めっちゃベタだけど泣ける。どの章のラストでも(決して派手でしつこくなく)さらっと泣かせてくる塩梅が上手いわほんと。
加鳥先生の「さらばだ! 美しき若人たちよ!」という呼びかけの対象に、武雄や衣川だけでなくミツさんも入っていたらいいな。

第1章の千種は恩師であり上司である加鳥周平を尊敬しつつも臨床の思想に相容れない部分があった。それに対して第2章の男主人公:武雄は初対面でわりと素朴に加鳥先生の凄さに魅せられたようで対照的。そして衣川は逆に信用しきってはいなかったのも良い。こうして様々な人物視点で描かれることで、加鳥周平というキャラクターに奥行きが出てくる。

てか今更ながら、風癩症患者って『SWAN SONG』のあろえっぽさはあるな。まぁ一種のよくある「白痴系」ヒロインの系譜
ただし本作では、それを「ヒロイン」に押し込めず、ジェンダー的にもビジュアル(ルッキズム)的にも、そして"社会"的にもしっかり敷衍させた「風癩症」という形で扱っているのが評価されるべきだ。

・千種正光の章 三 帝都にて
千種編に戻った!! お偉い医学者たちを煽りながら風爛症患者の死体解剖講義をする加鳥先生。ドイツ留学時代の色恋沙汰……
辻菊さんほんと好き。加鳥先生が言うようにまさに「豪傑」の呼び名が相応しい、堂々としたプロ写真家
さっきの武雄が衣川の主張をあっさり論駁したように、ここでも加鳥先生が千種の幼稚な反論にあっさり切り返しており、頭の良い人間を書くのが上手い。頭も文章も良い。天下の瀬戸口廉也にこんなこというのは逆に失礼かもだが。
制度を変える/整えることの大切さ。ちゃんと社会運動と政治運動の大切さを描いている。えらい

千種先生、歳上のベテラン「看護婦」の田村さんに、めちゃくちゃ正しい指導を何のひるみもなく出来るの凄いな…… 遠慮というものがない。天間武雄のように正義感に燃えているのでもなく、ただただ、客観的な正論を吐くマシーン。優秀。にしても、こういう、現場での生の人間味と立場上の「正しさ」のコンフリクト及び、歳上の部下への指導って職場の人間関係あるあるだから生々しくてちょっと嫌だな……ノベルゲームをやってる最中に仕事を思い出したくねぇ
実家暮らしの千種
野村惣一(そういち):千種の学生時代からの友人 喧嘩の強い「ひひる」 「朝さん」……画家:野村夜の兄かこいつ!

野村のニタリと笑う顔の立ち絵すごいな てか、全ての立ち絵と背景美術とスチルのクオリティが高い!! これは『終のステラ』とか、最近の最先端のノベルゲームの水準だな……
高校在学中に発症。同室で最初に発見した千種が風爛症学へ進むきっかけになったのか?
帝国大学の仏文学科卒 新聞社勤務経験あり 最近は無職でアナキストの雑誌に寄稿している!が、固着した思想はない風来坊

ひひるは、この世界であらゆる意味で責任を負うことは出来ねえからな。

妹の野村夜が、風爛症のバックグラウンドをも活かして画家として称賛されているのとは対照的に、兄の惣一の書く文章はまともに受け取ってもらえない。同じ風癩症患者の創作物でもメディア性の差異でここまで受容が異なるのは興味深い
風癩症患者が就けない職業はごまんとある。選挙権とかも無いのだろうか。基本的人権は…… 法律に組み込まれていないのならば無いのだろうな。逆に惣一はよく新聞社に入社できたな

「ふん、ひひるの病院なんか世界に一つもいらねえんだよ」

野村惣一の加鳥周平批判。加鳥先生は本当に、すべての風爛症患者を入院させようとしているのか? だからミツさんも速やかに入院させたのか? 惣一はさすがアナキストかぶれなだけあって極端な思想を持っている。

「正光、それはさ、医療の問題じゃなくて、国の豊かさの問題じゃねえか?」

医療と経済と法律と……

……それにね。もしみんなが豊かで充分に資産があったとしても、家族の情愛なんてものは法律で強制するようなものじゃないんだよ。

いいこと言う〜〜
そして自由論へ。惣一は自由主義者? libertyではなくfreedom。とにかく制約と抑圧が嫌いな解放主義者。現代でいうとリバタリアン? ネオリベってやつ?
「もしかしておまえは『ひひる』になりたいんじゃないのか」と千種に冗談めかして問いかける惣一。

ミツさんを描いたあの絵は「立ち絵」ではなくスチルだったか。「ひひる」が立ち絵として映されることはないのか?……と思ったが、野村夜さんや惣一などはバリバリ立ち絵だった。夜さんは仮面を付けているからともかく、惣一は異端なのか?
立ち絵とはビジュアルノベルにおいて「日常」の人間像の具象である。そして(イベント)スチルは非日常感を端的に表現するものだ。よって、「ひひる」に立ち絵をつけるか、スチルのみに描くか、という点は本作のテーマ上きわめて重要であろう。

・天間武雄の章 五 戌一会の夜
『ミヤコドリ』主催の芳賀伊秋先生、立ち絵ないのか……
法学部志望の武雄
明子さん好きです…… 本当は留学したいのではないかと訊く武雄。病弱な身体と父の言い分を言い訳にしている?

・千種正光の章 四 頭の中でパタパタと
千種の一高時代の回想 惣一が風爛症に罹った夜のこと
惣一が仮死状態中に見たという「女」の話 魂のかわりに頭に虫の卵を入れる。ヒラヒラひひる=蛾のような光の玉。えっそういう感じ? 千種や加鳥先生の言う通り、てっきり風爛症は医学的疾患だと思ってたけど、こんなにファンタジックな回収をしてしまうのか。だったら根本的に考え直さなければならないが……。 「女」が「魂=白いもの」を抜き取っていくって性行為のメタファーとして読まないほうが難しいよなぁ。

昔は公的機関と宗教施設が「ひひる」の受け入れ先だった。共同出資の洞穴の展示を見学するふたり
「寂しい」
千種先生の医者としての貫徹具合が素晴らしい…… もっと上手くやれば、追い出されずに彼女の状況を少しでも良くしてあげられたのかもしれなけれど、それでも。

・千種正光の章 五 野村夜の家で

夜さん(朝さん)くそかわいいな…… 気心の知れた千種の前ではとても幼い。まだ二十数歳なんだもんな 惣一を「お兄ちゃん」呼びするのとか萌え。ハスキーな声も最高。早見沙織さんや能登麻美子さんとも少し異なる声質 誰だろう
野村兄妹と正光の関係、めちゃくちゃいい この三人がこれまでもこれからも仲良く幸せに生きていくのだと思うだけで涙が出てくる
なるほど、正光が生まれてすぐ母が風爛症を発症したから、彼にとって「母の顔」(=他者の顔、人間の顔の原体験)は風癩症患者の顔だった。だから一度も風癩症患者の顔を変だと思ったことはない。惣一が発症しなくとも、もともと風爛症医学を志していたのか?
正光は養子ではなく、妾の子なのか。
これはふつうに父親が酷すぎるな。当時「妾」の扱いはこれくらいが当たり前だったのかもしれないが。
母の無償の愛。ゆえに最愛の我が子をこれ以上傷つけてはならない/傷つけたくないという想いから、苦渋の決断をする。こんなん泣くわ。
「一枚だけの、僕らの顔が写った写真」……  辻菊さんと写真の要素がここに繋がってくる。

「天井板の節穴」 『CARNIVAL』の理沙が幼少期に見ていた畳の目のようなものか

瀬戸口作品って、やっぱり「男(父)=圧倒的な暴力性/女(母)=献身的な慈愛」のような典型的なジェンダー図式があるのだろうか。『CARNIVAL』の理沙父とか……。「ひひる」に成るときに「女」が現れたという惣一の話を踏まえると、やはりここらへんでかなり危うくなってくる。
とはいえ、辻菊さんとか野村朝さんとか、今のところエロゲの女性キャラ(ヒロイン)的な薄っぺらさ、ヘテロ男性の欲望の対象としての造形からは離れており、生き生きと自立していて評価できる。明子さんは典型的な天才病弱いいとこのお嬢さん、とヒロイン感が強いが、それでも厚みを見出したい。

ここはやはり「ひひる」のジェンダー的な扱いが肝になるだろう。つまり、男性の「ひひる」がかなり重要になってくる。最初の私宅監護の患者や、千種の病院の患者など。惣一はあまりにも美形で「キャラ」が立っているから、あんまりこの線で重要だとは思えないが。

さっきから、話の切り上げ方がとてもストイックというか、場面をジャンプさせる手付きが鮮やかだ。ダラダラ続けない
文章もとても上手いし…… 情景描写の巧みさよ


・天間武雄の章 六 棺は蛹に似ている
武雄ww こいつだけずっと客観的にはベタななろう主人公みたいなことやってるんだよな……ヒロイック。内面はめっちゃいぶし銀で堅物の超好青年だからこちらの心象は悪くないものの、行動と結果だけ見れば呆れちゃうほどに俺TUEEE系で明子さんという「ヒロイン」を獲得する道を順調に歩いている。
お辰さんww 良い意味で空気読めないとこほんと好き

てか、主人公以外の立ち絵ありキャラ複数人が喋っているとき(ここでは明子さんとお辰さん)、台詞を発するときに必ずしも立ち絵が出ているわけじゃないんだな。お辰さんが場に登場して(立ち絵が出て)喋ったあとに明子さんが喋っても、明子さんの立ち絵は出ずに、画面にはお辰さんの立ち絵だけがそのまま映っている。これってビジュアルノベルあるある? ちょっと映画的な演出かもしれない。ようはお辰さんのバストショットに切り替わったまま、画面外の明子さんの声が聞こえる、ということだから。

「寂しい」という単語が3章続けて出てきた。ここらへん大事だなぁ 「寂しさ」といえば国シリーズも思い出すし……

未来ある聡明で健全な若者たち(両想い)が慎ましくイチャイチャするのをニヤニヤしながら読んでいる……

ここで冒頭に繋がるのか。今度は三人称ではなく武雄の一人称で同じ出来事を描写する。王道にうまい構成。線香のイラストは同じであり、ビジュアルノベルならではの要素も見出だせそう。
上田麗奈さんの声を完璧に判別することができればもっと早くに気付いていた……

・天間武雄の章 七 一人にしないで

いちおう立ち絵あるねぇ 最初はちょっと寄り気味で "立ち"絵 らしくないものだった(それはこれまでもしばしばあった)けど、引いてより立ち絵らしくなったものが何回か映った。経過観察を続けよう

とりあえず今日はこの章まで。
これでようやく本番というか、半分に差し掛かったくらいなのだろうか。それともまだまだ?

それまで、良い意味で散漫で上品だった物語が、急にひとつの筋に収束して、「これがやりたかったのか」と、各要素がまとまりを持ち始めた。収斂せず、明確な筋を持たないままにひとつの時代と社会のラフスケッチ的に物語り切ったら偉大だとは期待していた。それが一気にありふれた(既知の)ストーリーになったことを残念に思うけれど、まだ失望はしていない。

どうしても『星霜編』を思い出さずにはいられない展開だなぁ…… まぁ古来からエロゲ/ノベルゲームではありふれたお話ということなのだろう。今作を読むことで、逆にあっちの再考察が捗る気もする。何が違うのか。「老いてゆく私へ」だからな。看取る-看取られる の非対称な関係ではない。介護する側もまた老いてゆく身であるということ。今作でいうと陳柳先生にはそんな感じがするが、しかしあちらは元から人間ではないフィクションの存在を「主人公」(≠男主人公)にしているがゆえの意義深さがあるだろう。

上で明子さんだけが露骨に「ヒロイン」であることに触れたらすぐさまフラグ回収してしまった。「ひひる」に女性("ヒロイン")性を強く印象付けてしまうことへの落胆は、ある。今後の展開次第とはいえ。
千種正光の母とか、ミツ(美代)さんとか、これまでも割とそういう節があったとはいえ…… 男性の風癩症患者をこれからどう描いてくれるか、だなぁ。どうか凡庸なギャルゲーに堕しないでくれ。お願いだ。

となると、やはり辻菊さんはより重要になってくるか。「写真家」という、他者をまなざして撮る側なのがすごい象徴的で意義深いんだ。多くの場合ギャルゲの男主人公の特権である能力を有しているというわけだから。

やはりこれから武雄は衣川と加鳥先生経由で千種先生と接触するのだろうか。男主人公同士。

・天間武雄の章 八 監置室
そりゃあ選択肢来るよなぁ
>常見家に残って明子の世話をしたいと主張する。
相変わらず主張・交渉が上手いなぁ、この作品の人物は。

・千種正光の章 六 山の中の檻
選択肢まで。
武雄の章のほうが急激に収束して近視眼的になったのと好対照に、千種の章は地方調査という形で空間的にも、人間関係的にも、そしてプロの医師であるという立場的にも、まだしっかりと物語に社会的な広がりと奥行きを持たせていて映えるなぁ……としみじみとしていたところで、こっちまで突然に近視眼的になってしまった。マジかよ。けっきょくこういう形でしか物語をまとめられないのか……
動揺が少し収まった千種が、これからのことを考えよう、と努めて冷静に言ったのには感動した。

>東京に連れ帰って、最期の時間を共に過ごす。
こうなったらさらに近視眼的なほうに行こうと思って。。

・千種正光の章 七 それから五日後に母さんは死んだ
三田村さん良い人すぎる…… 朝さんがたくさん出てくるのも嬉しい
「車椅子」はまだ普及していない時代 電車での市井の人々の温かさ
千種のお母さん(育ての母、父の正妻)もとても優しい人だな…… それだけ正光を息子として愛しているということでもある。
ふたりの「母」が互いにお辞儀をし合う場面のなんと気高くて尊いことだろう。

こういうベタな人間ドラマに弱い…… 母の愛への恩返し……
露悪的な章題だと思っていたが、巧みだなぁ 最初に身構えさせて読ませることで逆にじんわりとした温かみを出せる。

・千種正光の章 八 発症

うわっすごい演出 相も変わらず章題で身構えさせてくれていたとはいえ、これは流石にびっくりしたな

・千種正光の章 九 患者はきみだよ
なるほど〜 こうなるのか。『沙耶の唄』のヒロインと主人公の両方をやる、ってことか。

とりあえずここまで。これまた、予想出来て良かったがまったく予想していなかった急展開になった。これはこれで、どう終わるんだ? というか、千種正光の章ばかりで、天間武雄の章はどうなったんだ。2つは交わらないのか。こうなると千種側だけで終わらせるのは難しそうだからやっぱり武雄のほうと合流して終わるのかな。
さすがに風爛症の発症条件に、血縁的なものや、風癩症患者との関わり(感染?)などが再度浮上するのだろうか。加鳥先生が読んでいた海外の文献もその辺りのことだろうし。風爛症という「謎」がある程度明らかになって終わる、という着地だったらこの作品にとっていいことなのだろうか。

武雄編の展開について、介護する-される の非対称な関係がどうこうと上で言っていたけど、それが千種編のほうで本当に反転した。監護室の格子のこちら側とあちら側の反転。発症してすぐの急性症状状態では『沙耶の唄』の男主人公のような、古典的な狂気的一人称の語りノベルゲームって感じだったが、やがて収まり、幻覚は見るもののそれなりに落ち着いてきて、自身は医者から患者へと立場(「役割」)が変わったことにそれほど動揺していないのが面白い。

もちろん、何より「ひひる」を「ヒロイン」のメタファーとするような武雄編の悲痛な展開に対して、男性患者の存在が重要だと言っていたまさにその通りに、こっちでは「男主人公」が発症することで、心配していたようなジェンダー的な危うさは割りかし弱まった。(発症時に見るという白い光の「女」の件はまだ気が抜けない)

これまで、風癩症患者を視覚的に(スチルや立ち絵で)描く過程で、その「グロテスクさ」を解体し、「ひひる」も我々と同じく人間であるということを丁寧に追求してきた。風癩症患者をまなざしの対象(客体)として定置したうえで、そのまなざしの暴力性の検討を行ってきたわけだ。しかし、今回の展開によって、今度は風爛症患者がまなざす主体となった。ここでは、千種正光のビジュアルは描かれない。なぜならノベルゲームの(男)主人公だから。鏡に映った自分の顔を見て動揺するシーンでも一切画面には映されないことは示唆的である。こうして、「ひひる」のジェンダー的な位置づけを男性側(男主人公側)に引っ張り返して、女性側(ヒロイン側)とのあいだに適切な緊張関係・バランスを築いてくれることを期待している。

・千種正光の章 十 一番自由で気楽な場所
『沙耶の唄』の男主人公的な「狂気」の世界(観)を、狂気的に、おどろおどろしく演出するのではなく、これまで通りのBGMや背景美術で、あくまで凡庸で退屈な「日常」として描くこと。これは前半の「ひひる」=怪物的(沙耶的)なものを「人間」として(立ち絵として)描くことができるか、という問題系にちょうど反対側から取り組んでいるといえる。

別の言い方をすれば、「信頼できない語り手」の信頼できなさを、われわれ全ての「語り手」の有する信頼できなさへと普遍化-軟着陸させることで、そこからセンセーショナルさを剥ぎ取って無化する。叙述トリックを仕掛けて、そのうえで、そんな「トリック」など、「どんでん返し」など、どうでもいいと、そこはビジュアルノベルにおいて真に重要なものではないと高らかに宣言しているかのような。劇的な展開があって、それが過ぎ去って、それでもなお、下降線を辿りながらダラダラと続く退屈で幸福な人生を、その日常の営みを描くこと。そこには「社会」があり、「対話」があり、「病識」があり……

遠山さんにお餅を食べさせるために病院職員が一致団結した話泣けるな。こういう、本筋に関わらない、些細なエピソードにこそ心を揺さぶられる。いい作品だ。

まじか! そうなるのか〜〜 選択肢出るかと思ったけど出なかった。すごいな……
千種の両親も優しい愛ある人達だな…… 父親が妾(正光の産みの母)をあんな状態で遠ざけていたのは酷いが。
正光はまだ幻覚を見る。主に「母さん」の。しかしそれも、狂気だとか伏線だとかゾワッとするものではなく、ただただ、そういうものである。日常に溶け込む。病と一緒にやっていく。そういう世界を受け入れる。すばらしい。

・天間武雄の章 九 もうハルじゃない
千種正光の章と比べてこの重苦しさよ!! 読み進めたくない!!! 千種先生助けてぇ〜〜〜
武雄の腕っぷしが強い、俺TUEEE系属性も、このためだったんだな…… 明子さんを押さえつける。言うまでもなく、それは傍から見たら強姦未遂のようなもの、「暴力」だ。それを武雄自身がいちばんよく認識してしまっているという悲痛さ。
武雄がいろいろと強靭過ぎる。スパダリとかいうレベルじゃない。『俺物語!!』の猛男を思い出す。
これでちょうど良い機会だから駕籠町病院に預けることになって、千種先生と邂逅して、そして大団円へ──という流れになるのかなぁ。どう締め括るのかまったく想像出来ないが。

・千種正光の章 十一 非常に重要な試み
・千種正光の章 十二 一番大事な患者

なんかめっちゃベタなヘテロ関係√に入ったな…… 朝さんの顔ぜんぜん崩れてないじゃん! 騙された!!

加鳥先生は、正光に女性関係を持ってほしそうだったからそりゃあ喜ぶだろう。

・天間武雄の章 十 じゃあ、よろしくたのむよ
ジュール・ヴェルヌ
読書しようとする姿が泣けること泣けること
お辰さんがいてくれて本当に助かる…… というのも、もはや父親が諦めてしまった以上、彼女がいなければ、武雄がただひとりで明子さんと向き合い続けることになり、それでは結局、男主人公が可哀想なヒロインを救ういつもの構図の再生産となってしまうから。武雄とお辰さんのふたりで話し合いながら、明子さんに接してなんとか過ごしていく生活を描いてくれることが嬉しい。

千種先生! ここにきて初めて立ち絵が出た。。

……物語の真っ只中にいるきみは信じたくないかもしれないが、愛情は消耗するものだからね

これこれ!! 「愛情は消耗する」。これをちゃんと描いてくれるノベルゲーム(物語)がどれだけあるだろうか。どうしても、ギャルゲー/純愛エロゲでは、「永遠の愛情」が尊ばれてしまう。それがいちばんロマンチックで美しく、安心して浸れるからだ。麻薬のように"楽"だからだ。現実ではあり得ないとしても、だからこそ、虚構の中くらいは夢想に浸らせてほしい、と。そうした欲望自体は私にもあるし否定しないが、しかし自分は、よくある病身系ヒロインとのタイムリミットのある儚く熱い急峻な物語ではなくて、そういう青春期が終わった後もダラダラと続いてしまう「人生」の話が読みたいし、そういう志向の作品はとても偉大だと思っている。

まず第一に手間を減らすんだ。……そういった細かいことの積み重ねが、周囲の人間の愛情を長持ちさせる。わかるかい? わからなければいけないよ。きみだって、その素晴らしく美しい愛情を失いたくはないだろう?

「無駄な手間を減らすこと」が解決策として専門家の男主人公からもう一人の男主人公へと授けられるノベルゲーム、素晴らしいな。とても日常的で具体的で凡庸で地味な、その「細かいことの積み重ね」こそが大切である。これはこのゲームの全面的な質の高さそのものにも当てはまっている。

・天間武雄の章 十一 朝日

……言ったそばから!! 両想いの若い男女ふたりで逃避行じゃねぇか!!! お辰さんも連れてってくれよ〜〜〜 お辰さんなんでそこで引いちゃうの……彼女の心境的に、天間家や武雄に迷惑をかけるわけにはいかないとか考えたのだろうけれど、武雄がお辰さんを誘ってもよかったのではないか。くそ〜〜〜悔しい〜〜〜〜

父の葬式後に明子さんの病状が一気に回復して以前のように会話できるようになったことについては、まったくご都合主義だとは思わず、とても腑に落ちる。人間の精神ってそういうものだよね(そうなることもあるよね)。


・天間武雄の章 十二 北へ

この画めっちゃ好き

元より、警察の目を逃れるつもりもなかった。明子さんのこの先の生活には、安心出来る住まいと適切な医療環境が絶対的に必要であるのだから、先の見えない逃亡生活をしてもどうにもならない。

武雄にこの冷静さ、良識があるのが救いだよなぁ。安直なロマンス逃亡劇や無理心中モノになってもらっては困る。

大正時代の汽車の風景といい、雪国の景色といい、この画風といい、ますます『ハルカの国』を思い出させる要素が…… これ本当に、瀬戸口さん国シリーズをプレイしてるんじゃないか? 十分にあり得るよなぁ そうであってほしい。こういう実力も実績も人気もある商業のライター/作家に、あの同人ビジュアルノベルを読んでもらいたい。絶対に届くから。(パクリと糾弾するつもりは毛頭ない。大正モノということで似ている要素があるのは当然のことで、どちらにせよ本作の独自性と価値は損なわれない)

「ああ、もう、うるさいっ! 私に指図しないでっ! いま、大事な話をしているんだからっ!」
 誰もいない空間に向かって叫んだ。

これめっちゃ良いな。明子と武雄はここで雪景色のなかふたりっきりで、とても激情的である意味ベタなやり取りを交わしている。それは、この物語が凡庸な「男主人公とヒロインの閉鎖的な二者関係を美しく描くロマンス」になってほしくはない自分にとって、かなり厳しいものだった。しかし、ここで明子が風爛症の症状から幻覚を見て、実在しない「第三者」を顕現させている。それは武雄たちにとっては好ましくないものかもしれないが、一歩引いたプレイヤー視点の自分にとってはきわめて好ましい。そうか、風爛症の幻覚症状にはこのような(物語にとって)ポジティブな作用があったのか!! そこに実際にはいないものを見る、というのはまさしくフィクション創作/鑑賞の暗喩でもある。風爛症を忌避するのではなく、地道に向き合いながら肯定すること。

武雄、雪山へと逃げようとする明子を力強くで抑えるのでも言葉で説得するのでも抱きしめるのでもなく、ただ黙って歩調を合わせてピッタリついていくの完璧だな。
……とか言ってたら抱きしめた。でも絶好の告白チャンスなのにここでも何も言わない(でこっそり泣くだけ)とか……武雄ほんとすげぇ奴だな……

・天間武雄の章 十三 来年の春に

おお……なんかものすごく幸福な終わり方に…… 風癩症患者でも結婚は出来るのか、そうか。生殖はできないらしいが。

ふたりのこれまでの歩みを考えれば喜ばしいことではあるが、手放しで称賛はできないなぁ。やはり、あまりにも形骸的なハッピーエンドであり近視眼的であるから。それはこの作品の持つ社会的な射程の広さと深みに釣り合っていない。しかし、これは「終章」ではないし、千種編がまだある。そもそも武雄編のエンドだってこれだけではない可能性もある。期待。

・千種正光の章 終章 このために生まれて来たんだ

おわり!!!
ずいぶんとささやかなエピローグだった。あの双子、次作主人公になりそう。げみにずむではないが。

4年後に見直し、私宅監護法の完全撤廃までにはさらに三十年か・・・現実的だな…… というかおそらく、実在の何かの歴史を参照しているだろう。ハンセン病とか? 浅学にして分からないけれど。

未回収CGは3枚。……意外と選択肢での物語分岐は少ないのか?

直近の選択肢(=物語の後半)から選び直そうかとも思ったが、おそらく既読部分が多いであろうことから、最初の選択肢からえらび直すことにした。

・千種正光の章 二 田舎の母子
>老婆に金銭を渡す。

えっ!? 画面下部の「MENU」ボタンで、これらのツールボタンを隠せるということに今更気付いた…… これを知っていればもっとテキストが読みやすかっただろう。ああ勿体ない

・天間武雄の章 三 ブランコ松の下で
>衣川の話を聞き、最終的な意志を確認する。
お〜〜 直前(目前)で再び新たな選択肢が!
>手を下す。
そういえば物語終盤で、天間の生まれ故郷で周りから受け入れられていた風癩症患者(ミツと同じように顔が崩れていた人)がいて、彼自身も親しみを持っていた、という来歴が語られるから、ミツの顔が崩れているくらいで動揺して、衣川の言に従って殺害を決行してしまう、というのは考えにくいものだなぁ。

・天間武雄の章 四 きみがタオルをくれた
おっ、知らない四章が!!
バッドエンドじゃなくて、そのまま普通に続くんだ……すげぇ……

千種3章「帝都にて」で、老婆に金を渡したことからくる、新規の会話が発生。
加鳥先生のありがたいお言葉。

そして、人でなしは真の意味では患者を救えない。だから、たとえ愚かであったとしても、我々は人間でなければいけないのだよ。良い医者であるということは、人間そのものであるということなのだ。つまり、浪漫だよ

ヒューマニズム。このひとすげぇなぁ〜〜 自らドラマチックなパフォーマンスの重要性(人は感動展開に弱い)をよく理解しているからこそプラグマティックにそれを使いこなそうとする。この人自身はそうした「浪漫」を一歩引いて冷ややかに眺めている。

・以降の新規テキスト部分のメモ
天間5章「戌一会の夜」 朝食の団欒中に、明子さんが武雄の精神的な異変に気付くが、父に諌められる。
千種4章「頭の中でパタパタと」 祈祷師に詐欺られている、田舎の裕福な家庭の父親にかける言葉がやや変わっている。より患者に寄り添うようになった? しかし結果は変わらず、現状を変えて患者を助けることはできない。
千種5章「野村夜の家で」 酒が入った状態で、朝さんに実況調査↑の件を話す内容が少し変わっているか。
天間6「棺は蛹に似ている」 明子さんが海外留学の話を打ち明けてくれたとき、武雄は殺害行為という秘密を自分が抱えていることに後ろめたさを覚える。
天間7「一人にしないで」 明子の風爛症発症に対する、武雄の心情が異なる。やはり自分でかつてひとり殺してしまっている手前、「ひひる」へのネガティブな印象が強くなっており、人間ではない存在として扱おうとしている。……これはあとでじわじわと後悔するパターンか?
あー衣川の対応は変わらないのか。彼も、彼なりに風爛症について調べた上で、美代さんとの約束を果たそうと決意した、と。

・天間武雄の章 八 監置室
>鎮柳に従って常見家を出て入寮する。
・天間武雄の章 九 退去
お〜〜 知らない九章だ! この分岐はかなり影響がでかそうだ。
えっ、駕籠町病院に入院させたのか! もしかして千種編で明子さんが出てくる?

・補稿 とある日の駕籠病院の風景
三人称。第二狂躁室。降旗先生が担当医。症状は安定していない。
めっちゃバッドエンド感あるけど大丈夫?

・千種正光の章 六 山の中の檻
>ここは母さんの故郷だ。長兄を許し、ここで静かに最期の時間を過ごさせる。

愛情はそれらの環境が適切に整備された上で初めて正常に機能するものなんだ。愛情は大事なものだけれど、環境が整っていなければ、いとも簡単に狂ってしまう。だから狂わないようにするんだ。

二週間後に亡くなることは変わらない。とすれば、少なくとも正光にとっては東京に連れ帰って良かったのだろう。でも叔父さんたち家族との最期の時間だって、本人にとってまったく価値がなかったわけではないだろう。

千種8「発症」 発症前の実況調査3件目で、娘を私宅監護している母も風癩症患者だと見抜いたとき、その母にかける言葉がやや異なっているか。いや同じかも。明らかに既読なパートも、選んだ分岐が異なるために未読として表示されているので人力スキップがめんどい。

千種9「患者はきみだよ」 第二狂躁室で、正光と明子の個室が隣!! ここで初めて、正光側で入院中の明子が言及された。どうなるんだろう。
野村兄妹との会話も少し変化している。
ここで正光は千種家を出て一人暮らしを始めるのか。

・千種正光の章 補稿 狂躁室の少女
明子の担当医となった正光。しかし鎮柳が自死してしまうことは変わらない。ブランコ松じゃなくて自宅で首吊りか…… お辰さんにも暇を出していて一人暮らしだった。最期の夜に明子にひと目だけでも会いたかったが、正光は規則に従って拒絶していた。
采尾さんが狂躁室から出る決意をするところも描かれている。
明子は正光のことを「平岡先生」と呼ぶ。父関係の知り合いにいたのかな。
お〜〜 明子が診察時に会いたいと話したことで、武雄が病院に面会のために来る。しかし明子は「武雄」だと認識できない。

うわっ! 武雄が正光に、美代を殺したことをいきなり告白した。つまり、殺していない上で武雄が学生寮に入った場合、この面会でこの告白はなされないってことだよな。確かめなければ……。
風癩症患者も人間であると理解した武雄は、自分の犯した罪を認め、自分にはもう明子さんに関わる資格がないという。うーん……難しい……

千種11「非常に重要な試み」 医者間での報告会議の場で千種が見てしまう幻覚が、野村兄妹のものから母のものになっている。母の最期を共にできなかった後悔から?

・千種正光の章 十二 ひひるの運命
知らない新章だ。野村朝と同居せずに病院の近くで一人暮らしをしていることからも、朝さん√じゃなくて、いない母さん√に入っているようだ。母を東京に連れ戻すか否かで分岐するってことね。
既読の12章と同じ野村兄妹の回想〜現在シーンで始まる。しかし会話内容はやや異なり、正光と朝の関係の話題を惣一は提案せず、兄妹ふたりで生きていく感じだ。
えっ。やはり朝さんは具合が急に悪くなるが、惣一が正光を呼びに行こうとするのを「恨みますから」と止める。朝さんと同居の道は絶たれた…… どうか死なないでくれ
てか三人称だ
妹を背負って病院を回る惣一にも症状が出始める。白い蝶の演出!!

いやぁ……これはきつい…… 死んではないにしろ、これは…… あちらのルートでは東京に母さんを連れ帰ることで、一時的に朝さんの家で私宅監護をすることになり、それによって正光との関係がより深まったということか。しかし、こちらではやや疎遠になり、朝さんは正光の負担になりたくないという想いから犠牲になってしまう……

・天間武雄の章 十 天間武雄の今
え、そういうこと? あのとき明子さんは正気に戻っていて、わざと武雄に冷たい態度を取ったのか……(そしてそれに武雄は気付いていたのか……)
うわ〜〜 かなりバッドエンド感がある。これで終わりなのであれば。

・千種正光の章 終章 母と子
駕籠町病院を退職したのか! 元「ひひる小屋」で改革を頑張っている。母さんと朝さんの件で後悔して、身の振り方を考えたと。
……恵まれていない現場で一人ひとりの患者に向き合うか、それとも恵まれた環境で法律改革など、よりスケールの大きな仕事に携わるか。これは仕事あるあるの二律背反だなぁ。ビターなエンドだけど、決して正光に前向きさが無いわけではない。かなり現実的な落とし所。これをバッドエンドと呼んでしまっては作品に対して失礼だろう。
そして最後は母と暮らした生家へ。うーむ……これは、前言撤回してかなりバッド気味ではあるな…… 正光の心にはずっと痛みが残り続ける。それを糧にして仕事に打ち込もうとしてはいるが、症状も出ていて、かなりつらそうだし先も暗そう……。

CGは全回収していた。
・天間武雄の章 三 ブランコ松の下で
>彼女を殺すべきではない
衣川ひとりでは絶対に美代さんを手にかけることができない、というのが肝よな。それで武雄はやがて、自らのした行為を悪夢にまで見て後悔し続けるのだし。

その後、「美代を殺さなかった上で武雄が学生寮に入って明子が駕籠町病院に入った場合、この面会でこの告白はなされない」ことを確認した。そこで武雄は明子が演技をしていたのではないかと言いかけるが、そのまま出ていく。彼女の言葉を尊重して、もう明子さんには関わらずに生きていくってことか? 殺してなくても? 武雄まじかよ
え〜 常見家から逃げ出してしまった罪悪感から、明子さんに会いにいくのを躊躇っている、と。
「──もう、全ては終わったのだ。」 これはかなりバッドエンド……



クリア後の感想

※√全回収したと思ったら、読み残しがあったことが後で判明するので、一部「プレイ中のメモ」の続きになっています。ご了承ください。

もしかしたらまだ分岐条件次第での読み残しがあるかもしれないけれど、CGは全回収したし、おそらく一通りは読み終えたはず! おわり!! ということにしよう!!! ・・・分岐式のノベルゲームの場合、こういう風に、自分がいつ全クリアしたのか/してないのかが判断できず、「終わった」という感慨に浸れる節目がないことがある。だから一本道シナリオのほうが好きなんだよ!と文句を言いたくもなる(シナリオ既読率などの表示もないし)。

結局、「終章」は千種編だけにあって、武雄編は13章「来年の春に」の婚約ハッピーエンドか、10章「天間武雄の今」で入院中の明子さんから離れる決意を固めるバッドエンドの二種類ってことか。やはり明子さんが発症して、鎮柳先生の申し出を受け入れて学寮に入るか、常見家に留まるかが分かれ目だった。前者だとバッドエンド、後者だとハッピーエンド。衣川とともに美代さんを殺めるか否か、はそれほど重要ではない? 美代さんを殺めた上で「来年の春に」に行けるのか確かめてみるか。

そして千種編の分かれ目は、再会した母を東京に連れ帰るか田舎に残すか。前者だと朝さんと同居して、研究医を目指して海外赴任をも検討しているエリートコースのハッピー気味エンドであり、後者では朝さんの症状悪化を止められず、その後悔から「ひひる小屋」改善のため現場で泥臭く働くことにするが心身ともに辛そうなバッド気味エンド。とはいえ前者でも、武雄編の「来年の春に」のように、全てが楽観的な薄ら寒い結末ではなく、私宅監護法の完全撤廃までには30年以上かかった、という「事実」が最後に提示されるところは、さすが社会と法律の次元で進めてきた物語の着地として相応しいものだったと思う。

ふたりの男主人公を立てて、それぞれの「章」=物語を並走させ、ところどころ交わるものの、双方に二種類ずつENDを用意している構成はなかなか面白い。前例はあったとしても少ないんじゃないだろうか。雑にいうと2×2=4パターンだし、より細かい分岐を含めるとそれ以上ある。

振り返れば、けっきょく最初に選んだ各分岐パターンは、どちらの章でも希望的な終わり方をしていて、もっとも読後感は良い。私は「正しい」選択をしていたわけだ。……まぁ良識的な選択肢を押したらそのままハッピーエンドになる、というひねりのない構成だったからなんだけど。

武雄編では明子さん、正光編では朝さんが、それぞれEND分岐を象徴する「ヒロイン」に位置づけられている。正光と深く関わる女性としては写真家の辻菊栄さんもいたけど、結局彼女は最終的には影が薄くなっていたな。別に恋愛関係とか同居とか、そういう感じになってほしかったわけでは全く無いのだけれど、どちらの結末にも特に関わってこないのが寂しい。男主人公のノベルゲームにおいて、カメラマンの女性キャラを丁寧に描いてくれるだけでも非常に好感を持っているし、具体的な辻菊さんのキャラクター造形/描写もめっちゃ良かっただけに、なおさら残念。


・美代さんを殺めた上で「来年の春に」に行けるのか確かめてみる
→えっ!? 人を殺めた上で入寮せず常見家に残ったら、鎮柳先生が明子さんの首を絞めようとした時、代わって武雄が……
マジかよ…… 遥かに決定的なバッドエンドあったじゃん……

・天間武雄の章 十 ブランコ松

私が暮らしていたこの社会は、こんな場所だったのか。

狂っているのは「ヒロイン」でも「主人公」でもなく「社会」である。

要するに、ブランコ松で美代さんを殺めた時点で、明子さんと添い遂げる道は絶たれており、あとは学寮に逃げて明子さんと距離を置くビターエンドか、それとも常見家に居続けて最愛の人を手にかけて自殺するバッドエンドかの2つしか残されていない、と。なるほど。じゃあ武雄編には計3ENDあることになるな。
……殺めなかった上で入寮したら?→ビターエンドで変わらなかった。

えーとつまり、武雄編と正光編のそれぞれに2つずつの選択肢があって、ってことは最大でそれぞれに4ENDあるのか??(ふたつの編の分岐条件が絡み合うことはないと仮定した場合。)

正光編は、
・老婆に金銭を渡さない→母を連れ帰る
・老婆に金銭を渡す  →母を連れ帰らない
・老婆に金銭を渡す  →母を連れ帰る
・老婆に金銭を渡さない→母を連れ帰らない
の全4パターン試したが、やはり後者の分岐だけが最終的なENDに直結しているっぽい。

つまり、正光編は2END、武雄編は3ENDある。


・・・やっぱ分岐いらなくない? 一本道で、武雄編のTRUE END「来年の春に」だけもう少しハッピーエンド感を抑えて現実的な落とし所へと書き直してもらえたら完璧だった。千種正光編のほうは「このために生まれて来たんだ」ENDでまぁ文句はないから。

選択肢があるとさぁ……これぞノベルゲームだとか、もしあのとき違うほうを選んでいたら……と想いを馳せることでひとつひとつの話に深みが増すとか、色々と肯定的に捉えられがちだけれど、個人的にはあんまり同意できない。少なくとも今作に関しては……。まぁ、どちらの章でも最初にTRUE ENDを見てしまったから、それへの思い入れが深くて「正しい」ものだと思っている節はある。だからこそ、武雄が明子さんに手をかけるというのは(たとえ分岐式のバッドエンドだとしても)考えにくい。というか、そういう形骸的な「バッドエンド」が用意されている構成が、この重厚な社会派ビジュアルノベルには相応しくないように思う。彼ら/彼女らの物語はこれだ!!という、作者が納得のいくひとつの物語として見せてほしかった。正光編のBAD ENDのほうも……あれは単純に朝さんが幸せでなさそうで悲しいから受け入れられない、というだけかもしれないけれど……。

大正時代という「歴史」モノだからこそ分岐制ではなく一本道にしてほしかったのかな、とも考えるけれど、それは違う気もする。


・各章、各ENDについて

武雄編TRUE END「来年の春に」を全肯定はできない理由として、流石に何もかも上手く行き過ぎていることが挙げられる。
風爛症という架空の(しかし実在する精神病などと類似した)病気を患う人々やその周囲、社会、法律などを広く深く描いておいて、その悲惨さ、困難さを描いておいて、結局は急性症状が収まったら社会復帰できて、それほど苦労もなく、男主人公の故郷で幸せに結婚して暮らせましたとさ……では、これまでの描写はなんだったんだ、単なるマッチポンプなのかと思ってしまう。

あえて意地悪くまとめれば、武雄編とは、田舎に住む完璧超人好青年が、都会の幼馴染お嬢様のもとで下宿して、(そのお嬢さんの病気とか)なんやかんやあって彼女を故郷に連れ帰ってめでたくゲット("所有")できました、というお話だ。むろん、具体的な文章を丹念に読めば、いかに天間武雄が、そういう典型的なギャルゲ男主人公とはかけ離れた、誠実かつ冷静で社会倫理を備えた人間かは伝わるので、彼個人に嫌な印象はまったく持ち得ないのだけれど。それでも、この結末では、まるで男主人公がヒロインを手中に収めるための風爛症だった、という見方もできてしまう。(それを相対化するための他ENDであり千種正光編である、というのは理解しているが。) それは本作がもっとも表現したいことに対してあまりにも矛盾している。勿体ない。

(かといって、明子と武雄が疎遠になり、明子は天涯孤独の身で病院内で(ひょっとすると強姦などをされながら)一生を終えるという結末を受け入れられるはずもなく……。幸福な結末であることはそのままに、もう少し地に足の付いたものを見たかったのだと思う。明子さんがお辰さんと離れ離れになるのもツラいので、あのまま東京で3人で……というお辰さんと同じ夢想を私も抱いているのかもしれない。お辰さんまでをも青森の武雄の故郷に連れて行くのは流石に非現実的か。しかしそれを言ったら明子さんを連れ帰る時点でものすごくギャルゲー的なので……。むずかしいですね。私はわがままな読者/プレイヤーです)

他方、千種正光編は総じてかなり良かった。野村朝さんが大好きなので、彼女が幸せに暮らすことがいちばんなので、やはりBAD ENDは受け入れられず、TRUEしかあり得ない!という気持ち。千種正光の風爛症医師としての身の振り方・生き様が中心に据えられている物語であり、まだ学生である武雄編と比べて、扱う話のスケールが一段高く広い社会的なものであったことが好ましく、風爛症の抜本的な治療法を研究するために海外赴任を目指すTRUE ENDまで一貫していたのも素晴らしい。エリート!

途中で正光本人が発症して、さらに医師に復帰する、というトンデモ展開には驚いたが、描写が丁寧なのでするっと飲み込めた。病院内で働きたい、という風爛症患者の声を拾って加鳥先生に相談していた等の下拵えを入れ込むのがうまい。それは安易な「伏線」でも「言い訳」でもなく、彼らの取り組んでいる風爛症医療の社会的改革、という大義に照らして説得的かつ現実的なものだからだ。


・登場人物たちについて

写真家の辻菊栄というキャラクターも非常に良かった。私はどうしても全ての作品をメタに読んでしまう癖があるので、このミソジニーの岩盤の上に築かれたギャルゲ/エロゲ/ノベルゲー文脈において、「男性=主人公=見る(所有する)者 / 女性=ヒロイン=見られる(所有される)者」という強固な性差別図式に真っ向からアンチを張る「女性写真家」(無論この言い方自体が典型的な女性性の有徴化であるが)キャラとして、辻菊栄という人物を生み出して物語のなかで息づかせてくれたことの嬉しさよ。彼女のビジュアルや服装や性格・言動そして千種正光との交流関係のどれをとっても好ましい。単に、私のようなフェミニストエロゲーマーを安直に満足させる(反-)図式的な造形というわけではなく、大正時代のこの社会に確かに生きているんだという強度があった。(それは他のどのキャラクターにも当てはまる。)

そんな辻菊さんがどの√でも終盤は出番が減った(朝さんや母さんの比重が増した影響で)ことを残念にも思うが、そうするにそれは彼女が正光と同居や恋愛などの意味で親密な関係にはならないゆえだろう。「TRUE END」とは大抵の場合、男主人公がヒロインと添い遂げる(か劇的に別れる)話のことを謂う。そうした規範自体への文句はあれど、辻菊さんが最後まで「所有」されずに自立的なキャラクターを貫いたことは評価している。

他に印象深いキャラクターについて。

加鳥周平先生:とにかく有能で偉大な医者であり「政治家」で、好き。正光がするように尊敬できる。こういう超人的な人間、大学・学問の世界には確かにいるよね……という妙なリアリティ。

薄っぺらい作品だと、こういう上司キャラが後半でコロッと主人公の「敵」になって、彼の行動原理を説明するためのお涙頂戴の過去回想パートがあって……となってしまうのだけど(念頭に置いている具体的な作品名は今あなたが思っている通りです)、加鳥周平大先生はそんなこともない。そもそも過去やプライベートがほとんど語られない。海外から取り寄せたハイカラな道具でコーヒーを飲むだとか、(風爛症幻覚ギャグとして)院内で拾った猫を診察中も膝に乗せている、などの描写でかろうじてお茶目な人間臭さが垣間見えるだけだ。そして、だからといって加鳥周平というキャラクターが描写不足だとはまったく思わないのが凄い。この物語にとっては必要十分であり、そして加鳥周平のような人物は往々にして、我々のような凡人の前には生活感を見せないものなのだ。

衣川兵太郎:登場して早々に、そうだと知らずに先輩に連れて行かれたから仕方なく……とかダサい言い訳を並べ立てて風俗嬢に入れ込んで苦悩している、という可愛らしいエリート男子学生の姿を見せてくれて、主にそのしょうもなさ、凡庸さ、世間を知らない恵まれたお坊っちゃまの卑小さという観点で逆に好感が持てたキャラクターだったが、最初に人間性の底をさらけ出してしまったということで、あとは株が上がるだけだった。典型的なホモソーシャルの体現であるところの、エロゲの「親友」男キャラが一般的に苦手なので、その意味で彼もまぁ、そこまで刺さりはしない。「かわいい」とは思う。

野村惣一:上に同じ。男主人公の同性の親友ポジション。やっぱ「兄」キャラって家父長制の円環のなかにどうしても閉じ込められてしまうよね…… 彼は(自分たちを否定する)両親や伝統的な「家族」(結婚制度)は否定していても、どうしても(ハンデを背負った)妹への庇護の愛情によって、皮肉にもそうした暴力性を引き継いでしまっている。兄妹の回想で、彼の顔の傷の由来が明かされたときも、尊い兄妹愛に感動……!とかではなくて、あー……はいはい……とため息をついてしまった。それが妹にとってむしろ罪悪感を助長させる重荷になる可能性にどうして思い至れなかったのか。それはいくら後々に朝さん自身が感謝していても、本質的には独りよがりの愛である。そもそも泣き喚く幼い妹に無理やり筆を握らせて描かせる、という行為は家庭内虐待では……? 傍からいくらそう見えても、ここで描かせないと妹は一生を棒に振ってしまうんだ、という理屈は分かるが、だからこそ、兄妹=家族という親密な人間関係の鎖のグロテスクさをまざまざと見せられた。
ただ、肉を食うことに疑問を呈するとか、アナーキズム系雑誌に寄稿しているとか、ちょくちょく親近感を覚える面もあった。

あと、彼が風爛症を発症した瞬間に見たという女性、白い蛾(=ひひる)のようなもの……のイメージは何だったんだ。BAD ENDでは一人称でそうした演出がなされるが、この『ヒラヒラヒヒル』というタイトル回収要素がさほど回収されずに終わった。……いや、別に良いんだけどね。このくらいの塩梅が節度があって丁度いいのかもしれない。

お辰さん:マイペースで絶妙に空気読めないところ好き。

田村看護婦:こういうおばちゃん、ありがたいよね……。

志緒さん(朝さんの看護人):立ち絵がなくていい理由がない

野村朝(夜)さん:いちばん好き。声が良い。妹萌え。仮面萌え。でも、素顔が明かされて、それまで文章で言われていたほどの顔の爛れはなく、まぁふつうに(2次元キャラとしては)美少女/美人として「消費」できる範疇のものだったのでやや落胆した。美代(ミツ)さんほどとはいかなくても、もう少し思い切っても良かったんじゃないか。それは別に「露悪」ではないのだから。

常見明子さん:ぼくに勉学を教えてください。

上田麗奈さんの技量は高すぎて、役にハマりすぎていて、一周回って逆にもうあんまり聞きたくない、あまりに色んなところで起用されてほしくない……と思い始めてしまっている。『アリスとテレスのまぼろし工場』とかね。


・風爛症とノベルゲームについて

本作の架空の病「風爛症」にはこの現実世界でさまざまな対応物・参照元が想起され、物語においてもテーマにおいても、我々の生きてきた/生きている/生きていく社会に向けた力強い思想や感情が丹念に描かれている。「ヒロインを人柱として犠牲にするか、世界を滅ぼすか」という典型的な(偽)セカイ系やら、「ふたりだけの逃避行/無理心中」に代表される閉じた男女の二者関係やらがセンセーショナルに描かれてきたエロゲ/ギャルゲ/ノベルゲー文脈において、本作のようにちゃんと、嘘ではなく「社会派」と呼ぶに相応しい作品はそれだけで貴重であり称賛に値する。地道に目の前の人と向き合って寄り添うことと、社会制度や社会通念を変えるために純粋学問だけでなく政治的な次元で動く必要があること。そんなミクロ/マクロ双方の次元がそれぞれに、そして連続的なかたちで真摯に描写されていた。決してエンタメとしての物語性を損なうこともなく。それだけで偉業といっていいだろう。

病気・病人と向き合うということは、男主人公-ヒロイン の閉塞的でロマンチックな二者関係に留まってはいられないことを意味する。病人はひとりで生きていくわけではなく、そこには家族などの周囲の人間がいて、看護人や医師、そして社会制度といった包括的なサポートが必要になってくる。こうして、架空の病を真剣に主題としているからこそ、そこには現実的な公共性への志向が宿ることになる。自殺して終わり。世界を滅ぼして終わり。ヒロインが犠牲になって終わり……ではないのだ。それでも病は、人生は、社会は続いていく。続いていってしまう我々の生=社会を、すでに老いているし、これからますます老いていく我々の生=社会を、決して挑発的で「映える」やり方ではなく、その日常に宿る優しさや寂しさを丁寧にすくい上げながら描いてくれた。

このように本作はしっかりとした「社会派」ビジュアルノベルであり、物語の自立性/強度はきわめて高いのだけれど、それはメタに読む可能性を閉ざしはしない。ノベルゲーム/ビジュアルノベルとして本作を鑑賞したときに注目せざるをえないポイントがいくつかある。最大の観点は、立ち絵とスチルの使い分け・関係についてである。

伝統的にエロゲ/ノベルゲームは「化け物」を描いてきた。おぞましいもの、目を背けたくなるものとしての「化け物」。それは勿論、視覚的(ビジュアル)に人物を描くことができるデジタルゲームの場の力によって基礎付けられている。歴史を辿れば『弟切草』『かまいたちの夜』『雫』『痕』などのホラー/ミステリ/怪奇系ノベルに源流があるのかもしれないが、私がプレイしたことのある作品に限って言及するならば、やはり『沙耶の唄』(2003)をひとつの金字塔として挙げるのが相応しいだろう。

『沙耶の唄』は、脳神経に異常を来した男主人公の一人称視点で語られるビジュアルノベルである。男主人公はおぞましくグロテスクな化け物を「ヒロイン」として第一に視覚的に転倒させて認識し、上記の「閉塞的な二者関係のロマンス」の極北にして典型例を成立させている。そこでは生理的な嫌悪感を覚えるべきはずのグロテスクな対象に快楽-エロスと愛情-ロマンスを感じるというセンセーショナルな倒錯性が前面に出ている。ノベルゲームの一人称性を、テキストでもビジュアルでもサウンドでも総合的に表現しきったこの短編作品の歴史的な偉大さは到底論じ尽くせるものではないが、だからこそ、エロゲ/ノベルゲームのミソジニーにまみれた負の伝統を正統的に包含しているともいえる。つまり、見るもおぞましい対象=化け物と、見るからに愛らしい対象=ヒロイン(美少女) のあいだにはねじれた強固な繋がりがある。ちょうど女性嫌悪(蔑視)と女性崇拝が矛盾せずにむしろ同じ価値観の両面、表裏一体であるように。"美少女"ゲームで "化け物" が伝統的に描かれてきたことには必然性がある。

沙耶は化け物のはずだが、作中では美少女として描かれる。スチルだけでなく、最初は立ち絵として男主人公の前に現れる。一般的にノベルゲームにおいて「立ち絵」とは日常性の具象であり、反対に「(イベント)スチル/CG」は非日常性を端的に表すための表現手法/素材である。したがって、本来、見るもおぞましい「化け物」は「立ち絵」にはなれない。なぜなら立ち絵として描かれてしまったら、それはそのグロテスクさが完全に脱色/解体され、退屈な日常風景のなかで関わる "他者" として位置づけられるということだから。沙耶は男主人公の神経異常によって化け物から美少女になったことで、立ち絵としても描かれた(=貶められた)。

そして『ヒラヒラヒヒル』における風癩症患者(「ひひる」)もまた、時代や社会によっては「化け物」として忌避される存在である。皮膚は爛れ、目蓋は腐れ落ちて眼窩が虚無を思わせる黒い穴として空く。一度死んだはずの「死体」が再び動き出す、という個別的な経緯を抜きにして視覚要素だけに絞っても、十分に「化け物」たりえる。そんな存在を、それでも我々と同じ「人間」なのだと、人生経験と医学的見地に基づいて寄り添っていくのが本作の主題である。したがって、「ひひる」がゲーム画面上に可視化されるとき、「立ち絵」としてなのか「スチル」としてなのか、という点はテーマに照らしてきわめて重要である。

ゲーム冒頭の棺から動き出した「ひひる」は明らかにイベントスチルであり、這い進もうとする彼女を横から映す構図である。次に映るのは、医学部の加鳥先生の講義で「実物」として招かれる患者である。このシーンも明らかにイベントスチルであり、加鳥先生と共に映っている。駕籠町病院での風癩症患者としては、狂躁室の格子越しの采尾さんもまたスチルで描かれている。──同じ場にいる看護人たちは立ち絵があるというのに。

千種正光が実況調査で対面する、各地の田舎の私宅監護患者たちもまた、正光にとってひとつの "衝撃的な光景" としてスチルで描かれる。この点で興味深いのは、天間武雄の章で衣川に連れられて川辺で目の当たりにする美代という「ひひる」の描かれ方だ。最初は川辺でこちらに背を向けてしゃがんでいるスチルで表現され、おぞましさはほとんど感じさせない。しかし、立ち上がってこちらを振り向くと、画面いっぱいに彼女の顔と上半身が映し出される。

これが「スチル」なのか「立ち絵」なのかが要点なのだが、かなり判断が難しい。川辺の背景美術は最初のスチルと同じものであり、つまりこの背景CGはスチルと立ち絵の両方に使用できるものとなっている。面白いのは、美代を殺さずに保護することにした衣川たちが、加鳥周平を連れて再び川辺に赴くシーン。ここで同様の背景CGのうえで加鳥先生の「立ち絵」が映し出され、彼と美代が対話を試みるのだ。

すなわち、他キャラの立ち絵が表示されているということは、やはり美代の正面の絵もまた「立ち絵」であったのだと、ここで解釈することが可能になる。美代を「死体」としてみなして、殺そうかと考えながらまなざしていたときには「スチル」と判別がつかず、ひとりの生きた「人間」として扱うことを決意した後で初めて「立ち絵」であったことが明らかになるのだ。まさに、「ひひる」が我々と同じ生きた人間なのか死体なのか、というテーマ上の境界問題が、ノベルゲームの構成要素としての立ち絵とスチルの境界問題に対応して見事に演出されているといえる。

(言うまでもないが、制作者が意図して作っているか否かはここでは関係ない。立ち絵とスチルがノベルゲームにとって如何なる存在/素材であるかを真剣に考えさえすれば、たとえ意識していなかったとしても(意識していても)、"結果的に" こうした使い分け/演出になっているということ自体がノベルゲームの面白さを体現しているんだとあなたもわかるはずだ。)

その後に登場する様々な風癩症患者の登場人物たちの幾人かは「立ち絵」で描かれる。しかし野村朝は仮面を付けているし、惣一や明子は白髪色白肌になっているだけで、さほど視覚的なおぞましさは無いため、立ち絵で描かれるのは腑に落ちる。

ともかく、大雑把な流れとしては、初めは異常なものとしてスチルで描かれていた「ひひる」が、物語が進んで主人公たちの考えが変化するごとに、当たり前に生きている人間として立ち絵で描かれるようになった、とまとめることはできる。(いかにも教科書的であまりおもしろくないが……)

より子細を眺めれば、まさに「普通」の人間として男主人公の武雄が親しみを持っていた明子が発症するという「移行」が成され、それでも明子さんは明子さんなのだと切実に思う過程で、かつて当たり前に立ち絵で描かれていた人物が発症を転機に立ち絵で描かれなくなるのはあまりにも不自然かつ残虐であるので、立ち絵が継続される……などといった、物語と心情に深く結びついた展開があることがわかる。

そして後半には、主人公たる千種正光当人が発症することで、「化け物」なのかもしれない「ひひる」を、外からまなざすのではなく、ノベルゲームの一人称視点で内側から体験するなかで、風癩症患者の現実を実感し、その独特な幻覚世界と、それでも確かな「人間性」を克明に示す展開が用意されている。これは『沙耶の唄』のヒロイン:沙耶("見られる"側)だけでなく、男主人公:匂坂郁紀("見る"側)の主観的な精神異常をも、同じひとつの「風癩症」の要素として統一的に描き切っていると評価することもできよう。『沙耶の唄』では沙耶が化け物であることと郁紀が精神異常を来してしまったことは直接の繋がりはなく、「偶然」にもふたりの世界観が相補的/共依存的に合致してしまったところに悲劇=喜劇性があるといえるが、今作ではそこを偶然のロマンスに仕立て上げずに、風爛症という架空の病の実態(=人間と化け物の境界/関係)を真摯に描くことに注力した点に達成がある。

また、千種正光の産みの母は一度も立ち絵では描かれないが、しかし風癩症を患う彼女のみならず、非-患者である千種の家の両親もまたスチルでしか描かれないのは興味深い。両親の出番が食卓時(スチル場面)などにごく限られているからだろうが、それは今の正光にとって彼らがどういった存在であるかを同時に示唆している。

それをいえば、そもそも「ひひる」に限らず、この作品では一般的なノベルゲームほど「立ち絵」と「スチル」に明確な線引きができないような演出方法がとられている。立ち絵とひとくちで言っても、上半身〜腰がすべて映る引き気味のショットから、それを拡大するかたちでのバストショットやより近づいたアップショットが、主にそのキャラが話すときには用いられている。

テキストの表示位置が固定されておらず、場面ごと、そのCGごとに変わる演出方針がここに繋がっている。例えば画面の右半分に喋るキャラの立ち絵(のアップショット)が、左半分にその台詞が表示されるといった具合になっており、その映像的な演出スタイルによって、スチルと立ち絵の差異を撹乱して融解させているように思える。

こうして、立ち絵/スチル というノベルゲームの基本要素をテーマ上で的確に用いて演出することに成功しており、そうした演出の総体として、「おぞましいもの」のおぞましさに慣れ、解体し、些細な工夫と手間の日常的な積み重ねのなかでささやかな幸福を見出していく、という物語が実現している。思えば、私が本作で感動したのは、例えば猛吹雪の中で泣き叫んで抱きしめるような、過剰にドラマチックな場面ではなくて、大正時代に生きる人々──名もなき人々を数多含む──のちょっとした優しさや人間味が細やかに描写されるシーンであった。『ヒラヒラヒヒル』とは私にとって、そうした、良い意味で地に足の付いた、地味でささやかな作品であった。実に丁寧で倫理的で温かなノベルゲームであった。


・最後に──言及

これは言及するのも双方に迷惑がかかるかもしれないと躊躇いを覚えるのだけれど、それでも少しでもプレイしてくれる人が増えることを願って書いておく。

大正時代の東京を舞台にした社会派ビジュアルノベル、という時点で、同人ゲーム『ハルカの国 大正星霜編』を連想せざるをえず、いざやってみたら、想定以上に共通点が多かった。ネタバレになるのでこれ以上は言えないが。瀬戸口さん、もしかして国シリーズ読んでる?と思うくらい。『星霜編』だけでなく『越冬編』を思い出すスチル/シーンもあったし、そもそもイラストのタッチがやや似ている。一般的なノベルゲーム/ギャルゲーの絵柄とは明確に異なる、厚みのあるキャラデザ。

パクリだとか、どちらかがもう一方の上位互換/下位互換などという気は毛頭ない。そりゃあ、私にとって国シリーズ、『ハルカの国』は絶対的に大きな作品群であり、他の作品と並べられる次元にはないのだけれど、それは『ヒラヒラヒヒル』がダメだとか劣っているとか、逆に優れているとか、そういうことでなくて、とても良い作品だった。だから、『ヒラヒラヒヒル』に感銘を受けた人の中で、もしも国シリーズ、『ハルカの国』を未プレイの方がいたら、ぜひ読んでみてほしい。これが好きなら絶対に何かしら刺さるものがあると思うから。

国シリーズは個人制作の同人作品だけど、『ヒラヒラヒヒル』はANIPLEXの大資本のもとで企画された商業ノベルゲームの最前線といえる作品だ。そんな対極的な位置づけの両作に通底している、(従来の一般的なノベルゲームとは一線を画す)雰囲気と面白さがあると思うと、ノベルゲームという文化はやっぱり面白いなぁ。もしかしたら、本当に面白い歴史はこれからなのかもしれないなぁという、馬鹿みたいに希望的な想いすら抱いてしまうのだ。



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