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岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』感想(+『さよ朝』見返した感想)




岡田麿里の新作映画『アリスとテレスのまぼろし工場』がついに公開されました。初日に1回目を見て、翌日に2回目を見たのでその感想を載せます。
1回目を見たあと(初日の深夜)に、復習として岡田麿里の初監督映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』も見返したので、その感想も途中にはさんでいます。

いちおう自分は、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011)で初めて深夜アニメにふれて、そこから岡田麿里脚本の作品を選んで見ていくなかで「アニメ」にハマった人間なので、それなりの思い入れはあります。岡田麿里がいなければたぶん自分の人生にアニメ鑑賞という趣味は無かったでしょう。

とはいえ岡田麿里が関わった全作品を見ているわけではありませんし、思い入れはなくともめっちゃ詳しいオタクの方々はたくさんいます…… というあんばいの1ファンの感想です。


【9/19追記】

友人と、この映画についての感想を話し合いました!!

なんと過去最長の4時間弱。さすがに長過ぎるだろ……

(SpotifyとYouTubeで内容は同じです)
このnoteの以下に書いてある自分の感想も熱く語っていますが、けっこう語っているうちに新しいことを思いついたりして違いが出ています。まぁ4時間も聴くよりは以下の1.5万字の文章を読んだほうが早いですが…… とんでもないもの好きの方はポッドキャストも聴いてみてください。友人のほうの感想の着眼点もなかなか興味深かったです。

【追記終わり】



『アリスとテレスのまぼろし工場』初見感想


2023/9/15 11:00

公開初日、朝イチで観た。
マリーの劇場版新作、事前に情報をなるべく入れないようにしていて、映画前の予告編が流れるたびに目と耳を塞いでいた。……ので、ようやく観れた!という感慨もひとしお。

すごくマリーだった…… かつてないほどに色んな要素が錯綜し詰め込まれていて、一回観ただけじゃうまく感想をまとめきれない。マリーの新作をいちばん早くに劇場のど真ん中で存分に浴びることができて最高だったんだけど、作品としてはまだ正直、自分にとってどれだけ好きで大切なものになるのか分からない。むずかしい。珍しく一度も泣かなかったし。『さよ朝』は号泣して放心状態だったのに。

まず第一に、てっきり『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018)のようながっつりハイファンタジーだと思ってたので、むしろ『凪のあすから』(2013)のような、現実のなかにファンタジーが侵食してきている、いつものマリー作品(学生の青春群像劇)だとわかって嬉しかった。

これまでのマリーが脚本で関わった過去作の多くが連想されてしまうので、それらを語ることを許してほしいのだけれど、いちばんは『凪あす』だったな。いつみ(沙希)は要するに美海だし、何より東地和生さんの舞台設計・美術がすっごくオシオオシだった。あの廃トンネルは露骨だし、そもそも工場の風景からしてそうだ。

オシオオシと同様に見伏も海辺の田舎町ではあるんだけど、あんまり海は印象的じゃなくて、じゃあ『凪あす』における海=生殖のモチーフは無くなったのか、といえばそうじゃなくて、例えば正宗と睦実のキスシーンの雪→雨あたりに、水分として大気を巡って表れていたのかな。

エピローグで成長したいつみが工場跡を訪ねるシーンでは『花咲くいろは』(2011)の精神を感じた。滅びてもなお人々の愛着の詰まった場所。

てか、エンドロールへの入り方、完璧だったな。教会のステンドグラスのような光を動かす。神社なのに。(神社×廃工場という舞台設計は性癖なのでとても良かった!) MAPPAだからなのか、背景やカメラを派手に動かす演出に節々で違和感を覚えていたのだけど、あのラストカットで背景を動かさずに光だけをアニメートさせるのを見て、なぜか腑に落ちた。なぜなのかはよう分からん。感動したから。


登場人物の時間のズレ、成長が止まる、という要素はマリーの十八番(というかオブセッション?)であり、今回も大盤振る舞いだった。現実から隔離されて時間が止まった見伏の人々は『さよ朝』におけるイオルフの民のようなもの。

失恋するヒロインを物語の中心に据えて描く、というのはそれこそ『true tears』(2008)の頃から変わらず、それが『凪あす』, 『心が叫びたがってるんだ。』(2015), 『空の青さを知る人よ』(2019)などに変奏されてきた。今回もストレートにこの系譜である。

今回で明確に表現されていたが、マリーにとって、負けヒロインは未来である。失恋することで”生まれる”ことができ、そこから真の人生が始まる、というテーゼ。

今回は、正宗と睦実の(別の”現実”世界での)娘である沙希=いつみが、本来は父親である正宗に恋をして、母親に嫉妬して失恋する。しかし興味深いのは、ここで両想いで結ばれる正宗と睦実のほうには未来がなく、「仲間はずれ」として失恋してしまういつみは、両親に仲間はずれにされることによって現実へ還って未来を生きることができる、という倒錯があることだ。

マリー作品において、ヘテロ恋愛は紛れもなく生殖と結びついている。にも関わらず今作では、あたかもヘテロ恋愛とは生殖=未来を捨てる行為であるように見える。生殖に繋がる異性愛と、生殖に繋がらない異性愛がある??

しかし、未来を考えずに「今を生き」て、いまここの男女の恋愛を称揚する姿勢は、典型的なセカイ系であり、思春期の自意識の賜物である。本作がそれらと異なるのは、ファンタジーを持ち込んで親子関係、それも母娘関係をも中心的な主題としている点だろう。ここにマリーの作家性がある。『花いろ』や『さよ朝』『空青』などで歪な母娘関係を描いてきたマリーが、この新作では「母親に嫉妬する娘」「娘に嫉妬する母親」というかたちで、お得意の恋愛三角関係と融合させている。

マリーにとって愛とは純粋で美しいものではあり得ず、愛憎が入り混じった感情だ。「大嫌い」ということでしか表現できない「大好き」を描くためにこそマリーは物語を紡ぐ。


ラストでトンネルにつっこむ列車を直球に生殖のメタファーとする演出は思い切り『荒ぶる季節の乙女どもよ。』(2019)第1話の「TRAIN TRAIN」だった。

美少女の排泄に使った便器を大写しにして、「臭い」と男主人公に言わせるように、マリーにとって女とはそういうものである。たぶんに女性差別・ミソジニー的なものが凝縮しながらも、だからこそ穿つことのできる何かがあるのだと信じている。
さすがにこの辺とかは「エロゲでやれよ」と思ったけどw マリーにエロゲ/ノベルゲームを作ってほしいな〜。擬似親子関係とかほぼKeyだし。そもそもファンタジー設定が『CROSS†CHANNEL』みたいだという話もある。


というか、脚本家としてのマリーって、クセの強さばかり注目されるけど、『キミだけにモテたいんだ。』(2019)などで発揮されたように、色んな要素・展開を盛りだくさんに詰め込みながらもなんやかんやで上手く捌いて見やすいストーリーに仕立てる職人的な側面もあると思っている。原作付きアニメでは特に。
しかし今作はマリーとしてはなかなかに展開がぐちゃぐちゃで、わりと唐突な物語の進ませ方(父ちゃんの日記とか)も多く、説明過多な台詞も多く、脚本としてはかなり失敗している気がした。

終盤で現実の夏祭りが見えて、同級生の仲間たちもいつみの処遇を巡って内部分裂を起こして痴話喧嘩カーチェイスし始めるくだりなんかはカオス過ぎてめちゃくちゃ面白かったけど。まさにカーニバルだった。

こういう世界設定の物語って、普通まぼろしの世界から脱出するとか、まぼろし世界を牛耳る悪の根源を倒すとか、逆になんとかまぼろしの世界を維持しようと頑張るとか、いずれかの大きな目的に向かって物語がクライマックスまで突っ走る構造になるはずなんだけど、この映画はどれでもないというか、ひとつの流れにならずに色んなキャラがそれぞれの私情でバラバラに突っ走っていて、そのまとまらない感じはすごく良かった。それが分かりにくさの主原因でもあるのだけれど。


いちばん不満だったのはひび割れの映像表現。なんか絶妙にチープ。まぼろしの世界だからわざと薄っぺらくしたんだとかいう言い訳が効かないほど。この作品の世界設定上、空のひび割れって画面のルックを大きく価値づける超重要なところだと思うんだけど、な〜んか微妙だったのが本当に残念。空などの背景美術と合ってない感じもした。

あとところどころの劇伴での盛り上げ方が苦手だった。

車と列車。このふたつの交通手段の差異と関係については掘り下げたい。
カーチェイス。3DCG


そもそもなんで見伏の町が現実世界から隔離されたかといえば、見伏の山(工場?)の神様が、この土地を皆に愛されている良い状態のまま保存したい、という衰退を拒否する動機があったらしいと一瞬語られる。この設定はかなり大事だろう。マリー作品お決まりの、どこにも行けない閉塞的な田舎町(普遍化された《秩父》)というモチーフが、「神」の子供じみた意志によって象徴的に具現化されているといえるからだ。

要するにモラトリアムの永遠化である。そこでは妊婦も出産することができず永遠に子を腹に宿したまま。「自分確認表」という、就活の自己分析シートよりもさらにエゲツない紙が配られる。

今のままでずっといたい、という成長否定といえば『凪あす』の比良平ちさきを思い起こさずにはいられないのだが、彼女は皮肉にも成長してしまうことの悲劇に晒される。いつか終わるからモラトリアムなのだ。

しかし今作では、時が止まることへの反応は多様化しており、かなり両義的だ。夢を持った者や、恋をして激しい感情を宿したものから「卒業」していく町。イラストレーターになりたいという夢を持つ正宗も当初はまぼろしの世界に否定的だったが、しかし最終的には睦実とともに滅びゆく世界(生殖の存在しないモラトリアム)に残ることを選ぶ。

マリーは青春(恋愛関係)と生殖(親子関係)についてこれまでずっと描いてきた。これらは根本的に対立するものだ。例えば妊娠した学生は退学させられるように。

しかし、マリー作品において両者の併立は必然的でもある。なぜなら、マリーの青春恋愛劇とは絶対的に三角関係モノであり、この世でもっとも根源的な三角関係とは「父と母と子」──親子関係に他ならないからだ。だから近親相姦的な恋愛痴話をずっとやり続ける。


『さよ朝』の、人間よりも悠久の時を生きる種族イオルフとは、人間にとっての「物語」=フィクションそのもののメタファーであるという読み方がある。(ねりまさんの論↓で私は初めて触れた。これがねりまさんを知るきっかけだった気もして、個人的にとても思い出深い記事である)

フィクションは生身の人間よりも長い時を生きる。生殖できないかわりに。
これを踏まえれば、今作でのまぼろし世界の住民もまたフィクションの存在者という属性を負わされていると読めるだろう。フィクションの世界に、現実の少女が迷い込んできてしまった話。そう見れば、人間世界にイオルフの少女が迷い込んで「母」になる『さよ朝』とはちょうど反転した構図であることがわかる。

『さよ朝』でイオルフの里はわずかしか描かれないが、今作ではフィクション=非現実世界こそが映画のベースとして描かれ、そこに生きる住人=フィクションのキャラクターの実存的生に焦点が当たるという点が大きく異なるところだ。

私はまだ、正宗や睦実たちがあの世界に残ってモラトリアムを謳歌することを選んだ結末の意味がよく掴めていない。それは、自分たちの子供を排除して三角関係を解消させ、誰にも邪魔されない甘美なヘテロ恋愛・青春を享受するという、かなり狡くて浅ましい構造なのではないか?という疑念が拭えない。

あの〈カーニバル〉のあと、正宗たちがどうなったのかは映されない。映画のエピローグは、元の世界に帰って成長した沙希が現実の見伏を訪れるシーンで終わる。『さよ朝』では人間の世が移り変わっても不変なイオルフの里(=フィクション)という対比で終わるが、今作は逆にフィクションのほうが我々の前から姿を消してしまうのである。正宗と睦実の「その後」は端的に描かれず、存在しない。

しかしそれは、例えば『凪あす』最終話の光とまなかの「その後」を想像することが難しい──というより、想像する意味がない(≒想像しようと思わない)ことと同じ構造なのではないか。やはり「負けヒロインは未来」であり、両想いが成立した男女カップルの物語はそこで終わるのだ。生殖の可能性がもっとも高まった瞬間に終わる物語、フィクション。

マリーにとっての「生殖」ってなんなのだろう??と、これを見ていっそう分からなくなった。




『さよならの朝に約束の花をかざろう』久しぶりに見た感想

2023/9/15(Fri.) 深夜
『アリスとテレスのまぼろし工場』2回目に備えてPrimeレンタル(880円。高ッ!)で観た。公開当時、劇場で3回観た以来なので、数年ぶり4回目の鑑賞。

今回もまた無事に号泣しながら観終えた。
なんだろな……今みると更に、〔ヘテロ〕セクシズムが笑っちゃうほどすごくて、フェミニズム的にやばいほど問題のある内容だし、さすがにベタに泣かせにくるところが多過ぎて、実はそんなにたいそうな作品ではない気もするんだけど、そういうの関係なしに、とにかく自分はなぜかものすごく感動して泣いてしまう。ようするに自分もマザコンのきらいがあり、「母の愛」とか「人が生まれて死ぬこと」みたいな直球に手垢にまみれたテーマに弱いのだろう。自分に特効がある映画。そしてきっと多くの人にも。そういう意味で、マリー作品のなかでももっとも一般向けであり一般受けするアニメだとは思う。

じぶんの別のオールタイムベスト・アニメ映画である『おおかみこどもの雨と雪』にめっちゃ似てるな、と思った。それはもちろん「母の愛」的な主題もそうなんだけど、もっと細かいところでもそう。序盤の幼少期ディタの「こないだ、ごめんね。こないだ、ごめんね……」とひとりで何度もつぶやきながらエリアルに謝りに来るシーンで、雪がおまじない「おみやげみっつ、たこみっつ……」を唱えながら草平から逃げるシーンを連想した。
『おおかみこども』は『となりのトトロ』の影響下にあるので、当然『さよ朝』にもトトロ要素はあり、たとえば前半の農村パートでのラング&デオル兄弟の掛け合いはサツキとメイのそれだな~~と思った。(あるいは雪と雨のそれ)

ハイファンタジーの世界観(誤用)に関しては、やっぱり自分の好みの領分ではないのでそんなに響かない。じぶんは現実世界・現代日本に寄っていたほうが好きだ。背景美術でゆいいつ素晴らしいと思うのは空の描写だ。タイトルバックのシーンと、のリフレインとしての終盤のふたり(と一匹)での逃避行。あの朝焼け、鋭く走る雲のすじ。「美しい世界」と作中でいってしまうシーンで一面にあれが映っていることの、なんという偉業だろうか。

描かれるいろんなキャラクターの言動を見ていて、最近読んだ本の一節を思い出した。

樋口一葉の『たけくらべ』がその端的な例だが、一般に、男は成長し、女は変容する。信如は成長し、美登利は変容する。娘と妻と母は一個の女性のなかの別の人格をさえ思わせるが、息子と夫と父はむしろひとつの連続性、発展する連続性のうちにある。

三浦雅士『青春の終焉』「あとがき──バロック、ブレヒト、少女漫画」p.481より

(※ちなみにこのすぐあとの文で、こういう男女二元論は「虚構である」と切り返している点には注意されたい。)

いざ引いてみると真反対な気がするが、マリー作品に通底する思想として「男は息子/夫/父の属性を同時に持てるが、女は娘/妻/母の属性を同時には持てない」というのがあるのではと思った。

それがもっともよく現れている女性キャラはマキアよりもレイリアで、彼女は王子に孕ませられて「母」になったことで、クリムを諦めざるを得なくなった(=最愛の人の「妻」でありたいと思えなくなった)。また、終盤の娘メドメルに別れを告げて飛ぶくだり(母であることを辞めなければ「自由」にはなれない)とかも。

たほう男であるエリアルは、ディタの夫となり、そして子が生まれて父親になったと同時にマキアの膝の上で目を覚まし、久しぶりに「息子」にも還る。まさしく息子と夫と父の3属性を一挙に制覇している。言い換えれば、母と妻と娘を同時に所有している。

こうした男女キャラの造形は『アリスとテレスのまぼろし工場』でもすぐに幾つか思い付く。
正宗の母親が、亡き夫の弟(義弟であり大学時代からの友人)からの求婚を「ちゃんと、いいかあちゃんのまま終わりたいからね」と断るシーン。
それからもちろん、睦実が(別世界での)自分の娘である五実と別れて正宗との恋愛を取る結末とかも。(とはいえ睦実が五実と別れたのは彼女を本来の世界(=親元)に還してあげたいという意志もあり、また五実の父である正宗のほうも同じ選択をしているので具体例としては微妙なところか)。


見返してすごく気になったところがある。
マキアは最初、エリアルに「レイリア」と名付けようとした。男児なのに。これってなんでだろう?? マキアにとって、自分がひとりぼっちになったときに出会った運命の子(=他人であり自分自身)につける名前として咄嗟に出てきたのが、里の同性の親友であるレイリアであったこと。男子だったらクリムとかでもよさそうなのに。
マキアのレイリアへの想いの深さは、レイリアがメザーテ王国に囚われたと知ってすぐに助けに向かうことを決めるところでも表れている。

だから、マキアとエリアルの親子関係ももちろん大事なんだけど、マキアとレイリアの同性関係も実はものすごく良い描かれ方をされているなと思った。上記の名付けもそうだし、レイリアの「マキアをここに連れてきて」とか、最後のレナトに乗って一緒に飛ぶシーンとか。


火・炎のモチーフはかなり露骨に使われていた。単純に、他者への強く激しい感情をあらわす。愛憎。

レナトの体内から燃える炎(ヒビオルを焦がす)とか、終盤のクリムの松明とか、あと思春期エリアルが酔っぱらって帰ってきて部屋の椅子に置いてあったカンテラ?の火が消えてしまう(=母への愛情を見失う)のとか。

あと、「ヒビオルを織る」のと、終盤にレイリアがマキアの長く伸びた「髪を切る」行為を対置するのストレートに感心した。

「お日様の匂い」とか「変なにおい!」とか、におい関連は『アリスとテレス』の影響で気になった。

ほかには、『アリスとテレス』のキスシーンにおける「雪→雨」モチーフと、『さよ朝』の親子再会シーンにおける「雪→(じゃなくて)灰」モチーフの関係とか。

クリム「イオルフが腰より長く髪を伸ばしていいのは、子を産んでからだ」を踏まえると、あの長老のラシーヌ様(激ヤバスリットのひと)も経産婦……ってコト!? 身寄りのないマキアを実の子供のように養っていることからして、ラシーヌ様も早くに子供を亡くしてるのかな……


「愛して、良かった」の『さよ朝』
「好きな気持ちは、ダメじゃない」の『凪あす』
別れとか失恋とか、誰かを愛することには必ず痛みがともなうけれども、その痛みごと愛を肯定する。『アリスとテレス』然り。

女性主人公の失恋でいえば、そもそも『さよ朝』ってマキアが失恋するところから物語が始まっていたのだな。失恋は未来であり、物語(=人生)の始まりである。反対に異性愛の成就とは物語の終わりである。生殖したとしたら、その子供に〈物語〉の主役の座を明け渡して引退する。あとは老いて死ぬだけ……エリアルのように。

『アリスとテレス』を観た直後に『さよ朝』を観て思ったのは、(作品のトーン/イメージカラーが黒と白でコントラストがついてんな~~というのと、)やっぱりMAPPAよりもP.A.のほうが好きだわ~~~という身も蓋もない感想。いや実際、制作会社の違いが作品内容のどの辺りにどの程度あらわれているのかなんて素人にはなにも分からないのだけれど、監督もキャラデザ/総作監も美術監督も、それから平松さんも、メインスタッフはほぼ同じなのに、なんか「線」が違うんだよな~~。素人目線のすげぇ不確かな印象だけど、簡単にいうと『さよ朝』のほうが線が繊細で、『アリスとテレス』のほうが太く野暮ったい感じがする。それが、『さよ朝』のほうが(画面のルック上)好きだな~~と感じるところである。


『アリスとテレスのまぼろし工場』2回目の感想

9/16(土)

・煙、ひび割れ、光の影

やっぱり映像面の微妙さ、好みに合わなさが目についてしまうな。ひび割れの表現もそうだけど、煙…神機狼の表現もまた絶妙にチープだ。(そもそもどう見ても狼には見えず、龍だろ!というツッコミは結局とても大事だと思う。『竜とそばかすの姫』で、竜のアザが何回見てもマントの焦げ跡だろ!と思っちゃうのと同じ。こういうところで違和感を与えてしまうのは作品の基本的なクオリティ担保に失敗している、ということだ。)
煙の狼といえば、『BLEACH』の # 1 十刃コヨーテ・スタークの帰刃「群狼(ロス・ロボス)」みたいな感じにすればよかったのに。
あと、そもそも叔父さんや町のおじさん連中の吸う煙草の煙の表現からしてイマイチだったことに2回目で気付いてしまったので、なんとも……。


エピローグで映される現実世界の背景美術が圧倒的に好き。凪あすのそれ。

まぼろし世界の背景美術は、暗いのもあるが、やはりどこか現実感がない。それはひび割れのせいである。

ひび割れは、何もない空間に亀裂を描くことで、そこをあたかもカンバスのように平面化してしまう働きをもつ。奥行きを消して、そこを "世界の果て" にする。たとえ亀裂の向こう側にもうひとつの世界が見えても、それはこの映画の世界=空間のリアリティや奥行きを保証するものではなく、その逆である。だから自分はまぼろし世界の美術にいまいち魅力を感じなかったのだと思う。練られた薄っぺらさ。

「カンバス」といえば正宗がスケッチブックに描く絵とも否応なく結びつく。まぼろし世界の住人は文字通りのフィクション(図像)である。ただしエピローグの廃工場跡には、おそらく正宗が描いたであろう、睦実が五実を抱く絵が残っている。まぼろし世界は消えてしまったが、そこに確かに生きていた正宗たちは図像として現実世界のなかに居場所を見出すのだ。

余談:何度も『BLEACH』を引き合いに出して申し訳ないが、「空間の割れ目」ときいてBLEACHファンは虚やメノスが出てくる穴(黒腔)を思い浮かべずにはいられない。あるいは死神が使う穿界門。『BLEACH』って現世では空座町といういち地域しかほぼ描かれず、そこから一気にスケールが飛んで尸魂界や虚圏といった異世界が主な舞台となっており、実質的に空座町は見伏のような閉鎖空間にあるといってよい。その象徴としての「空間の割れ目」=世界の果て、ということだ。私は以前から『BLEACH』をセカイ系作品として読む可能性について考えている(2001年連載開始ともろにゼロ年代を代表する作品のひとつだし…)が、『アリスとテレス』を見て、その方向でいろいろと繋げられないかなと思った。こういう「空間の割れ目」表象っていつ頃から出現したんだろう。意外と歴史は浅いのではないか。いちばん有名なのは『ドラえもん』のどこでもドアかな。裂け目じゃなくて扉だけど。SFの登場以前からあるかな……あっ、ダンテ『神曲』とか、宗教関連があるか。ぜったいそれ系が最古やろ。そういや『BLEACH』にもしっかり地獄の門があるし…… やはり『BLEACH』は偉大……


背景美術の上に描かれて、平面であることを強調する作用があるのはひび割れだけではない。光でできる影も同様である。

ラストカットで第5鉱炉に差す光の影が動くのは、太陽の動きを──つまりまぼろし世界と違って現実世界では〈時〉がちゃんと進んでいることを鮮やかに示している。

物語序盤、睦実が屋上から地上の正宗にパンツを見せつけるシーンで、校舎に映った影としてはじめ画面に表れるように、まぼろし世界でも光の影の演出はしばしば強調されている。しかし、その影は動くことがない。なぜなら、まぼろし世界では時が止まっているから。……正確には季節は冬で止まっているが、昼と夜はあるので太陽の日周運動はちゃんと起こっている。しかしラストカットを踏まえれば、象徴的には影が動かないことこそまぼろし世界の虚構性を映像の次元で表しているといえよう。

とはいえ、まぼろし世界でも「動く影」はある。それは日の光以外の、移動するバイクや車、バスのライトの影である。商店街のシャッター前に蹲っていた正宗の顔を、叔父さんのバイクのライトが舐めるように照らしていくカット。また「スイートペイン」のシーンはバス停であり、到着したバスのライトで彼女らは照らされる。終盤で列車や車が重要になることを踏まえても、本作において乗り物のライト(でできる影)には注目する価値がある。
ただし、こうした影は基本的に横=水平方向にしか動かない(乗り物が地上を水平に移動しているのだから当たり前なのだが)。ここがラストカットの、縦にあるいは奥行きを持ってダイナミックな軌道を描く影とは異なる点だ。太陽は上下方向にも、より正確には円を描いて動く物体である。

補足:ラストカットで画面の上/奥のほうへと派手に動く影の運動は、そのまま流れ出すスタッフロールの「下から上へ」の運動性に滑らかに繋がっている。こうした作中の垂直性とエンドロールの上昇運動をオーバーラップさせる作品といえば、例えばエロゲ『穢翼のユースティア』などがある。映画でも当然多数あるだろうけど。。

いずれにせよ、まぼろし世界の閉塞性/虚構性を「空間の割れ目」で表し、現実世界の開放性/現実性を「動く日の光の影」で表し分けているのと、それらがともに背景美術・舞台空間の平面性を顕わにするものである点がとても興味深いと思った。このへんはもっと深めて考えたいな~~



・正宗と睦実の違い──岡田麿里の男女観

昨晩『さよ朝』を見返していて、マリー作品の男女観として、男は息子/夫/父という属性を同時に持てるが、女は娘/妻/母を両立できず、どれかを選んでどれかを捨てなければいけない、という思想があるのではないかと思った。『アリスとテレス』を見返して、この作品でもこの思想が表れていると気づいた。それは、まぼろし世界の人物が、現実世界の自分をも「自分」と認めることができるか、という点である。

正宗が終盤で五実を現実に還そうとするのは、五実のためであるだけでなく、現実で親になった自分(たち)のもとに娘を返してやりたいからだ。つまり、ここで正宗は現実の正宗も「自分」であると認めている。五実の「父」である自分も、今ここの中学生のまま時が止まって未来のない自分も地続きの同一存在であると。

対して、睦実は現実の大人になって正宗と結婚して子供を産んだ睦実を「自分」であるとは最後まで認めなかった。列車に乗ってまぼろし世界に迷い込んできた五実と初めて出会った瞬間から、(現実の自分の娘である)五実と深く触れ合えば彼女を愛してしまうことは必然であり、「母」になってしまうことを本能的に恐れて身を引いた。最後の五実との別れのシーンでも、自分はあなたの母であるよりも正宗の彼女(≒妻)であることを宣言している。つまり、睦実は物語の最初から最後まで「母」であることを拒絶し続けた。あたかも、女にとって妻であることと母であることが両立できないかのように。あるいは、我が子を放り出して恋愛にうつつを抜かす「母」は母親失格であることを執拗に確かめるように。

こうした女性造形は岡田麿里作品で頻出する。今作では正宗の「母」もそうだし、『さよ朝』のマキアが幼馴染の男からのプロポーズを断るのも同じ。また『花いろ』の緒花の母親の造形はこの意味での「失格」キャラを地で行っている。『空青』の姉もまた、妹への家族愛を自身の恋愛よりも優先して井戸のなかに留まり続けていた。

岡田麿里の女性観がわかるというものだが、重要なのは、こうした系譜が『アリスとテレス』では「別の(本当の)世界にいる自分を自分と認められるか」という、世界間を越境した拡張されたアイデンティティの問題に変換されているところである。正宗はアイデンティティを拡張し、睦実は最小のアイデンティティを守り切った。これはすなわち、岡田麿里作品において女性は実存的存在でありうるが、男性は記号的存在である、ということかもしれない。……これって雑にいえば「岡田麿里は女性だから同性キャラの内面は生々しく描けるけど男性キャラは形骸的にしか描けない」みたいな、とてもつまらない結論に達してしまうのでは?? あちゃ~~。

あるいは、まぼろし世界=虚構という図式に従えば、虚構世界の存在者が現実世界の存在者へと「同一人物」という指示の矢印を飛ばすことができるかという、まるでフィクション/可能世界の存在論・記号論じみた話になってくるかもしれない。



・神主:佐上衛について

けっきょく神機の創造したまぼろし世界にとって、現実世界から迷い込んだ沙希(五実)の存在はどう影響するのか、という大事な点もあんまりよくわからない。沙希の精神・感情が高ぶると亀裂が走るのはわかるが、じゃあなぜ神主のあいつ(佐上衛)は五実を神機工場のなかに閉じ込めて保有していたのか、これがわからん。まぼろし世界を維持したいのなら五実はすみやかに送り返す一択でしょう。思想と行動が一致していない。

なぜ佐上は五実を送り返さずに手元に置いておきたがったのか。作中描写からもっとも考え得るのは、五実を神機が自分にもたらしてくれた授けものだと勝手に思い込んでしまったから、というもの。自分が神に選ばれた証であり、このまぼろし世界を自分が牛耳る正統性を保証してくれる神器のように彼女を見做していたのではないか。

以上が妥当な説だが、他に思い付いた説は、佐上のセクシュアリティに関するもの。

睦実が佐上の亡き妻の連れ子であり、血が繋がっていないと語られるシーンで、佐上は「女に興味がない」と言及される。だから新しい妻には、新たな生殖の必要のない子連れの女性を選んだということだ。また、佐上は正宗の父親:昭宗に対して並々ならぬ執着を持っていることが終盤で示される。かつての同僚・盟友である昭宗が自分のことを「友達」と認めてくれていたかどうかを非常に気にするのだ。これらの描写から、佐上が同性愛者である可能性を考えるのは自然だろう。田舎の町民から「変わり者」だと噂されてきた人物なのも、この文脈ではさらにリアリティが増す。

町を支える工場の神主の跡取りという権力者の立場でありながら、疎まれて疎外されてきたマイノリティ。そんな彼が、神機の暴走?によって町ごと閉鎖・隔離されるという異常事態にかえって希望を見出すに至った心情はさほど理解不能でもないだろう。さらに、そのまぼろし世界では季節(=人生の時間)が止まり、新たに子供を生むこともできず、歳を取ることもないのである。生殖が不可能になった閉鎖空間。これは佐上にとってまさしく人生一発逆転できる楽園ではないか。(※生殖不可能な閉鎖空間で共同体を作り維持しようとする話……『〔少女庭国〕』のことかッ!!)

佐上の五実や睦実への態度を鑑みれば、たとえ同性愛者ではなかったとしても、多分にミソジニー(女性嫌悪)の傾向があり、その根底には女性への恐怖心があると思われる。なぜ女性が怖いかといえば、子を産むことができる存在だからであり、もっといえば女性がいることによって潜在的な〈生殖〉の可能性がチラつくのが怖いためではないか。(そもそも神職の身分の時点で生殖という行為/概念への特殊な距離感がある気もする。) ゆえに、佐上にとって、生殖の可能性が断たれた閉鎖的共同体は理想郷であり、その理想郷をなるべく永く維持したいと思うのも当然である。

こうして考えれば、佐上の子供じみているとしか言いようのない言動(わざとため息をついては周囲の反応を伺う、とか)も腑に落ちる。精神的な未熟さは生殖を嫌い、自分が親=大人になることを拒否していることの表面的なあらわれである。

補足:なお、生殖したり子を成して親になったりしていない人間は精神的に未熟であり大人になれていない、などという論を主張しているわけではないことをいちおう補足しておく。同性愛=未熟という等式も虚構である。また、同性愛者が異性嫌悪を必然的に内包しているわけではないことも強調しておく。佐上に私が着目するのは、自分がフェミニズムにも反生殖主義にも賛同するので、佐上の造形にはインセルの露悪的な戯画化だなぁと辟易すると同時に、妙な親近感というか好感も抱いてしまう節があるからだ。薄っぺらい悪役でありながら、その薄っぺらさは妙な人間味とコミカルさ(愛嬌)を帯びていて、形骸的ではない魅力があると思うんだ……

終盤、五実を攫って神機に連れ帰った佐上は五実に花嫁衣裳を着せる。あれって特定の人間(自分含む)と婚姻させようとしていたとかではなくて、神機そのものへの人身供養的な意図でやっていたってことでいいのか。ロマンティックラブ・イデオロギーでは結婚とはすなわち生殖に繋がるものだが、ここでの五実の花嫁姿はむしろ、彼女を人間ではなく神への供物とすることで象徴的に生殖可能性を断つ目的があったのではないか。その花嫁のベールは五実から睦実に受け渡され、最終的には裂け目の向こう側(現実世界)へと消えていく……。


・そのほか

ほかに引っかかったのは、まず「この世界はまぼろしで、われわれは生きてもいないし、現実世界に戻れもせず、神機の力でなんとか維持されている世界で終わりを待つか、神機狼に消されるかのどちらかです」というあまりに身も蓋もなく残酷な真実を知らされた見伏の人々が、意外とパニックを起こさずにすんなり受け入れていた点。いやそんなことある?? ……まぁしかし、隔離されて時間が止まってからすでに何年も(沙希のリュックに付いていた家族写真プリクラの日付が2005年だった)経っていて、見伏住民の精神はとうに摩耗していたか、あるいは皆それとなく気付いて諦めていたと解釈することはできるか……。

余談:「あなたたちが生きるこの世界はじつは〈現実〉ではなく〈虚構〉ですよ」と明かされて、そのうえで実存の話をやるアニメ映画といえば、『HELLO WORLD』も連想される。あの作品でも登場人物が衝撃の事実を受け入れるの早かったな……まぁあっちは本質的にパラレルワールドSFであり、〈真の現実〉なんてものは原理的に存在しえないなかでいかに生きるかを問うているが、こっちは本質的にはパラレルワールドものではなくて、あくまで〈真の現実〉の存在を疑うことなく、現実と虚構のふたつの世界の存在者の関係の物語をやっている。

なんにせよ、正宗たち以外の見伏住民は、まぼろし世界を維持するために神機を人力で再稼働させることで裂け目を修復してもらおうとする。つまり佐上の方針に最終的には賛同し、彼は間違っていなかったのでは?という気もしてくる。(五実に狂ったように執着して確保しようとするところだけはアレだが……)

しかも、この物語の興味深いのは、五実を現実に還すか否かをめぐって対立している正宗たち子供連中と佐上・時宗ら大人連中も、「まぼろし世界をなるべく長く維持して、自分たちはここで終わりまで生きていく」点に関しては想いが一致しているというところだ。正宗が他の奴らとカーチェイスするのは、あくまで五実を送り返す前に神機狼がトンネルの裂け目を塞いでしまっては困る、という事情からであって、送還が済んでしまえば全ての対立は消え、あとはこの世界でみんなでなんとかやっていくという協調の道しか残っていない。協調するしかないほどに、見伏の住民はどうしようもなく絶望的な状況に置かれているということでもある。

諦めて死ぬか、諦めて終わりまで生きるかの二択しか残っておらず、前者を選んだ者は希望通り即行で消えていくので、実質的には「生きる」しかない。──こうまとめると、まるでそれはわれわれの生きる現実世界となにも変わらないじゃないか、という気もしてくる。しかし、この線では見伏のまぼろし世界とは現実世界の社会的閉塞性のどうのこうの……というクソ下らねぇ社会反映論しか生み出されないように思えるので、とりあえず私が分け入るのはやめておく。もっとうまい人に託します。





【追記】
『心が叫びたがってるんだ。』を見返したのでいろいろ書きました。



~これまでの岡田麿里にかんするnote集~

4年前に書いた『空の青さを知る人よ』感想。けっこう思い入れがある。


くっそ長いランキング記事のところどころと最後のほうで、各マリー作品への思い入れを語っています。


誰も見ていないことで知られる『キミだけにモテたいんだ。』の感想ポッドキャスト。『キミモテ』は一般的にはバカ映画だけど岡田麿里のオタクにとってはメタ-岡田麿里アニメとして作家論上とても重要である、というトンデモ解釈などを熱く語っております。


岡田麿里原作の漫画『荒ぶる季節の乙女どもよ。』を紹介しています。


岡田麿里がシリーズ構成を務めた『放浪息子』の原作漫画のほうを紹介しています。

最近ぜんぜん漫画読んでないので年間ベストnoteとか書けないね……(漫画のぶんのリソースをエロゲ/ノベルゲームに割いていると思われる)


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