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"映えない"という尊さ - 『空の青さを知る人よ』 感想、あるいは岡田麿里論。


長井龍雪・岡田麿里・田中将賀の3人によるアニメ制作チーム「超平和バスターズ」の最新映画『空の青さを知る人よ』を観た。公開してすぐの週末に観に行き、昨日2回目を観てきた。

上に3人の制作スタッフの名前を挙げたが、わたしはとりわけ岡田麿里に強い思い入れがある。それは「これまで観てきた深夜アニメでベスト3を挙げるなら?」という質問に「凪のあすから花咲くいろはあの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」と即答する準備をしていることから察してほしい。(全て岡田麿里脚本)

そのため、わたしはどうしても本作を「岡田麿里の最新作」として観てしまう。キャラクターデザインと総作画監督を担われた田中さんや、ましてや長井監督をないがしろにするなど極めて失礼で歪んだ鑑賞態度であることは承知の上で、基本的に過去の岡田麿里が携わった作品群に連なる新たな一作として、本作を位置づけながら感想を述べることをどうか許してほしい。


固執と変奏

さて、今作の感想を端的に述べるなら「岡田麿里らしさが最も良い形で結実した傑作」だ。

超平和バスターズはこれまでに『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2013年)『心が叫びたがってるんだ』(2015年)と、岡田麿里の出身地である埼玉県秩父市を舞台にしたアニメ映画を発表しており、これに『空の青さを知る人よ』(2019年)が加わって、晴れて〈秩父3部作〉と名付けられることになった。この3作品のなかで、今作は間違いなくもっとも万人に薦められる内容になっていたし、ただ大衆性が高いのではなく、一つの作品としての纏まりと深度の面でひとつの到達点と呼べるものになっていた。

岡田麿里は「固執」と「変奏」の作家である。彼女が(オリジナル)アニメを通じて表現したいことはそれほど多くない。青春群像劇・恋愛における人間関係のもつれ・思春期の泥臭さと下品さ・親子の愛情と確執・過去と現在への執着──ひっくるめて「人が人を想うということ」とでも呼べそうなそれを一貫してテーマに設定して物語を紡いできた。似たような関係、似たような感情を何度も何度も何度も繰り返し変奏して新しい作品を生み出し続けてきた。

わたしは、彼女の凄さは何よりもこの変奏能力にあると思う。というか、今作でそれを思い知らされた。いってしまえば、今作で描かれる人間関係や感情はだいたい過去作で観た覚えがあり、これまでの岡田麿里の良い復習になる。では岡田作品をある程度観てきた人は新規性を感じられず楽しめないかといえば、そんなことはない。むしろ、これまでに扱ってきたテーマをこれまででいちばん上手く組み合わせたことで、いまだ観たことのない清々しさと奥行きをもつ傑作になっていた。


人間関係ビリヤード

具体的な内容に踏み込もう。岡田麿里作品にはこじれた恋愛関係が欠かせない。『あの花』や『ここさけ』、それから『凪あす』に代表されるように、登場人物はどいつもこいつも誰かに恋していて、各人の想い人の絶妙なチョイスによってカップルはそう簡単には成立せず、矢印が絡まりにからまって三角関係どころかケーニヒスベルクの橋(ひと筆書きのやつ)状態だ。わたしは内心でこれを「人間関係ビリヤード」と呼び、岡田麿里脚本のアニメを観る上でもっとも楽しみにしている。

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本作の主人公あおい。かわいい

『空青』でもその期待は裏切られなかった。今作ではまずあおいの姉:あかねと、ギターで天下を取ることを夢見る慎之介の両想い関係が基礎にある。高校時代、2人は既に付き合っており、卒業後は一緒に秩父を出る約束をしていた。このままカップルがゴールインしては面白くないので、岡田麿里は開始数分であかね・あおい姉妹の両親を交通事故で雑に退場させる。ビリヤードの始まりである。無慈悲な神の手(キュー)によって手球は突かれ、当時まだ4歳の妹をひとり秩父盆地に残していくわけにはいかなくなったあかねは、慎之介との約束を破る。フラれた慎之介は単身東京へ赴くことになる。

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あか姉。かわいい

時は流れ、慎之介に憧れたのになぜかギターではなくベーシストJKになったあおいのもとに突如、13年前の高校生のままの慎之介(通称"しんの")が現れる。作中では生霊とか地縛霊とかふんわり解釈されていたが、訓練されたオタクは当然『あの花』のめんま(本間芽衣子)を思い出す。(めんまああああああああああああああ

しかし故人であるめんまと決定的に異なるのは、しんのはまだピンピンに生きているということだ。実際、胡散臭い演歌歌手のバックギタリストとして冴えないおっさんになった慎之介31歳は、元バンドメンバーの策略によって秩父へと凱旋する。高校生のしんのと、31歳の慎之介。この同一人物の2人がテーブル上をかき回す。

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慎之介← →しんの 吉沢亮による一人一役(二役)

なんやかんやあってあおいはしんの(≠慎之介)を好きになるわけだが、彼は姉の元恋人であり、たぶん今もまだ想い人。こうしてあおいは「淡い恋心」と「姉への愛情」の狭間で煩悶することになる。これが映画ポスターに描かれた4人(3人)の関係性だ。
(わざとしんのの画が逆光になっており、特徴的な赤髪を隠しているところ、それから未視聴勢には右上と左下が同一人物だと分からない仕掛けがにくい)

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もちろん、たった4球ではビリヤードはできない。彼女らの他にも、慎之介の元バンドメンバー(ドラム)であり今は清きバツイチのおっさん中村正道(通称みちんこ)や、そのよく出来た息子ツグ、おまけに稀代の天才声優 種﨑敦美が演じる股ゆるJKなどが絡んで、上質な人間関係ビリヤードを織りなしてくれる。これには歴戦の岡田麿里ファンもニッコリだ。


恋愛と姉妹愛

これまで恋愛関係を突き詰めて描いてきた岡田麿里が、今回では「姉妹愛」を並列することで(男女間)恋愛を相対化したことは注目に値する。今作がこのような異なる種類の愛情のダブルパンチとなったのは、岡田麿里の初監督作品となった『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018年)において、「親子愛」を主題に据えたことが少なからず影響しているのではないかと推察する。

『空青』におけるあかね-あおいの姉妹関係は、14歳ほどの年の差と、前述の両親退場によって、親子関係にも近いものがある。物語中盤、〈あおい攻略ノート〉を台所の戸棚から発見したことであおいの頭に去来する、〈あか姉〉のあおいへのひたむきな献身は、『さよ朝』におけるマキアのエリアルへの献身を連想せずにはいられない。そういえば、マキア-エリアルも"普通の"親子関係とは言えないのだった。『花いろ』のスイ-皐月-御花の3世代といい、岡田麿里は自身の経験から歪な親子関係を描くことにも固執していることが窺える。


バンド映画と思いきや

『空青』はあおいが例の橋でベースをかき鳴らすシーンから始まる。わたしは事前情報を「超平和バスターズの最新作」であること以外一切知らずに劇場へ足を運んだため「今作は『けいおん!』的なバンド映画なのか!」と驚いた。

そして、町おこし音楽イベントの企画→空気を読んでベースとドラムが入院→プロのバックバンドへの飛び入り参加が決まる主人公…といった展開をみて「なるほど、『ここさけ』のミュージカルのように、今回はイベントでの演奏がクライマックスになるんだな」と予想した。裏切られた。イベント当日に向けて着々と準備する様子が描かれるなか、なんと本番まで行かずに物語は終わってしまう。本番が無事成功したことは「後日譚」としてエンドロール中の静止画で知らされるのみである。

これが意図的なミスリードだったのは明らかである。そしてわたしは、このミスリードこそ本作の核心であると考える。


秩父と向き合う

『空青』の核心に迫るには、〈秩父3部作〉のなかでも、「秩父」に真正面から向き合ったのは今作が初めてだということに触れる必要がある。『あの花』や『ここさけ』も確かにリアルな秩父を舞台にはしていた。しかしあくまでも「舞台」であって、そこで繰り広げられる群像劇こそが作品の肝だった。

ところが『空青』という作品においては秩父はただの舞台以上の意味を持ち、単なる背景美術である以上の存在感を示す。今作の真の主人公は〈秩父〉であるといっても過言ではないのだ。

自らの暮らす秩父について、序盤であおいがこんなことを言う。

盆地ってさ、結局のところ壁に囲まれてるのと同じなんだよ
あたし達は、巨大な牢獄に収容されてんの

(小説版『空の青さを知る人よ』より引用)

これに関連して、観ていてひとつ気付いたことがある。本作の画は、終盤まで徹底して「地味」で「動きがない」のだ。例えばあおいが慎之介たちの前で実力を示すためにガンダーラを弾き語るシーン。ここは主に固定カメラで、しかも引きの画で映される。普通に考えれば、映画としての見栄えを良くするために、演奏に合わせてカメラを縦横無尽に動かしたりなんなり、いくらでも派手にかっこよく演出できたはずだ。

同じようなシーンは他にもある。お堂であおいがしんのにねだって思い切りデコピンをしてもらう場面。ここはあおいの芽生え始めた恋心とそれを自制しようとする葛藤がよく表現されている胸キュン名シーンだと思うが、なんとここでもカメラは2人をお堂の隅から引きで映すのみ。あおいの主観に近い視点で迫りくるしんのの手と顔を映したりすれば、もっと臨場感が出たはずだ。でもそれをあえて避ける。

まだある。あおいがあか姉に「馬鹿みたいッ」と口走ってしまい、外へと駆け出す場面。アニメにおいて感情の高ぶった少女が全力疾走するシーンなんて腐るほど観てきたが、本作ではそれすらも玄関横に置かれた引きの固定カメラで映すのだ。こんなに映えない全力疾走は観たことがない。『響け!ユーフォニアム』の「上手くなりたい橋」を観ろ、あれがアニメーションの快楽を描ききった模範的な全力少女だぞ。しかもここでは、玄関先であおいがしゃがんで靴を履き直す動作をご丁寧にも描くのである。そんなお行儀のよいことしてる場合じゃないだろ。アニメ映画のヒロインは、かかとを踏んづけてでも、靴を放り出してでもがむしゃらに走り出すべきだ。そういう画を撮るべきだ。でも、本作では絶対にそれをやらない。徹底して「映える」動きを画面から排除している。なぜか?

それは、私の考えでは、あおいの秩父への印象を画面作りのレベルにまで徹底して落とし込んで表現しているからだ。

そろそろ本作のタイトルに言及しないわけにはいくまい。『空の青さを知る人よ』とは、もちろん「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」という故事成語からのものだ。ここで重要なのは、このフレーズはある意味ミスリードになっているということだ。「井の中の蛙」がネガティブに捉えられていた前半、一転してポジティブな光が垂直に差す後半。

先ほどの〈巨大な牢獄〉を思い出せば、秩父が「井の中」の表象となっていることは言うまでもない。あおいは秩父で暮らす日々──あか姉にずっと迷惑をかけ、自分のために人生を棒に振らせながら続く退屈な日常──から抜け出したいと思っている。進路指導の教師には「東京行ってバンドで天下取ります」と、どこかで聞いたことのある文句を投げる。でも本当は、あおいは本気で音楽をやろうとは思っていない。秩父を出たいのは、自分の夢のためではなく、姉の人生のためだから。

そう言えば、13年前の慎之介だって似たようなものだった。東京行ってバンドで天下取るといっても、それはあかねが隣に寄り添っていてくれることが前提だった。音楽より姉妹愛。音楽より恋愛。この決定的な順序関係はまさに岡田麿里の作家性をよく表している。彼女の描くキャラクターは、自分自身の夢よりも何よりも、他者との関係性、大切なひとへの想いで駆動している。これまでの作品でもそうだった。しかし、本作で初めて、そのことを「映画」という表現形式のレベルにまで昇華させることに成功したのだ。

本作は対比の映画だ。秩父と東京。家族愛と恋愛。若者と大人。自分と他者。将来への希望と不安が入り交じる今の自分と、希望と不安を抱き続けることを諦めた未来の自分。身の丈を知らなかった過去の自分と、社会に出て身の丈を知った今の自分。

岡田麿里は〈他者〉を置くことでしか人間を描けない。だからこそ〈自分〉を他者にした。13年前の自分がやってくるという嘘を持ち込んで、文字通り、いや絵面通り、「自分と向き合う」ことを「他者と向き合う」ことの中に組み込んで表現してみせた。これは一般的にはありふれた陳腐な手法なのかもしれない。しかし、他でもない岡田麿里が、自身の作家性と向き合って、自らの故郷と向き合った上でこの手法を選択したことの意味は計り知れないほど大きい。岡田麿里にとって〈秩父〉は〈自分〉の一部なのだから。


大人は映えてあげない。いや映えられない

まとまりのない文章になっているが、ここでクライマックスについて。

松平健が都合よくやらかしてくれたおかげで、あかねが土砂崩れに巻き込まれる。あおいは「目と目が合う〜♪」していた慎之介&しんのペアのもとに駆けつけて、しんのをガラスの箱から引っ張り出す。錆びたギターの弦は切れる。宙を舞って派手に切れる。

そう、ここで初めて、本映画において「派手な」映像がスクリーンに映るのだ。ここから堰を切ったように「派手」で「デタラメ」で「映画的」なアニメーションが流れ出す。しんのはあおいの手を取り、天狗のように山を駆け下り、秩父の青い青い空を跳んであかねのもとへひとっ飛びで向かう。これまでの「映えない」画作りは全てこのクライマックスへの布石であった。井の中で蛙は空を見上げたのである。

ではこの"見せ場"のアニメーションに、あおいとしんのの空の中でのやり取りに胸を打たれたかといえばそうでもない。わたしが最も胸を打たれたのは、若い衆に置いてきぼりにされた哀れな大人──慎之介である。彼は、若者のデタラメな行動に狼狽しながらも、自分も大切なあかねのもとへと走り出すことに決める。しかしながら、哀れなことに、彼は「大人」なのである。社会も現実も嫌というほど知ってしまった、立派な大人なのだ。だからひとっ飛びで愛する者のもとへと向かうことはできない。デタラメな美麗アニメーションで観客の目を釘付けにすることなんてできない。息せき切って走って、タクシーを探すことしかできないのだ。田舎ではそう簡単にタクシーは捕まらない。ダサい、格好わるい──そう思った。あいみょんの主題歌をバックに壮大に空を舞う若者たちと対比される、格好つかない三十路のおっさんの姿に、秩父のクソ田舎な風景に、胸を打たれた。その映えなさに、どうしようもなく泣けた。

本作が万人向けな理由はここにある。これまでの思春期ドロドロ恋愛劇では、わたしのような思春期ドロドロ恋愛劇オタクにしか刺さらない。大人が若者の瑞々しい青春に入り込んで共感するのはこっ恥ずかしいし難しい。そこで本作では「若者」に加えて「大人」をもメインの人間関係に据えた。その対比を見事に描き切った。いま若者である観客はあおいやしんのの瑞々しい青春に感動すればいいし、身の丈を知り始めた、あるいはもう知ってしまった哀れで立派なかつての若者たちは、慎之介やあかねの格好つかない姿、それでもスクリーンに映る映えないからこそ何よりも尊い姿に胸を打たれてしまえばいい。それで、自らの青春時代に想いを馳せて今の自分との差分をとって、ダメージをくらってしまえばいい。え、わたし?もちろん瀕死だけど。


そのほか

というわけで本作では、秩父という田舎の閉塞性と大人の格好つかなさが、映画的に「映えない」画面作りを通じて紐付けられている。映画なのに映えない、だけどそれだからこそ胸を打たれるというアクロバティックな作りに、本作の傑作たるゆえんをみる。もちろん、単にアクロバティックなだけでは大衆は満足しない。その点、細かな描写やサブキャラクターたち、そして劇伴がとてもいい仕事をしており、普遍的な名作へと仕立て上げている。こうした総合的なクオリティの高さは、なにより長井監督の手腕ゆえだろう。(川村元気の存在もあるだろうが)

上でいくつか挙げた「もっと映える画作りができたはずなのにあえて地味にした」シーンの数々。これらの場面ではどれも劇伴が絶妙なアシストをしている。画は映えないけれど、音楽は盛り上がるので観ているこちらからすればあたかも名シーンのように錯覚してしまうのだ。映画はどうみえたか、どう受け取られたかが全てである。だから、良いシーンのように「錯覚」した瞬間、それは本当に良いシーンだったということになる。こうして観客は、たとえ映えなさを徹底された映画であっても、退屈することなく物語に没入していける。

それからサブキャラクターで言及したいのが、本作でもっとも幼いのにもっとも大人びていた小学5年生のツグ。若者(高校生)と大人(三十路)が対比される物語において、さらに若いツグというキャラクターの存在は、この二項対立自体をさらに相対化する働きをもつ。そんな特殊な存在である彼が、誰よりも「大人びて」しっかりしている、という人物造形を施されたことは重要だ。

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ツグが大人びた性格を負わされたのは、おそらくはあおい達の「若者」性をあまり損なわないようにするためだろう。こう思うと、ツグは物語のために作られた、実存性の薄い可哀そうなキャラクターになってしまうが、実際はそんなことはない。彼は十分に幼いし、何より生き生きと彼自身の人生を歩んでいることが2時間のあいだで存分に伝わってくるのだ。例えば彼はいつもスマホでゲームばかりしている。リアルな今どきの小学生だ。それからもちろん、中盤で明かされる彼の「想い」によって、がぜんツグというキャラクターに深みが宿る。彼の「これまで」と「これから」。あおいのこれからの人生という、エンドロールの先まで一気に物語の射程が広がる。本作の登場人物は松平健も含めてみんな好きだが、なかでもあおいやあかねと並んで、わたしはツグというキャラクターが特に愛おしく思えた。

それから田中将賀さんのキャラデザにも言及したい。わたしは本作を観るまで知らなかった。太眉がこんなにもかわいいという真理を。

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太眉姉妹かわいい。

田中さんのキャラデザでは、思い入れ的にめんまが最強すぎるというのはあるが、純粋なキャラ造形でいったらあおいがいちばん好みかもしれない。それからあか姉。〈姉〉でありあおいの育ての〈親〉である役割を自ら選んで生きてきた彼女は丸眼鏡ロングというデザインもあってクールで大人びた人物のように見えるが、映画を観ていくとその印象はひっくり返される。あかねの一挙手一投足に、彼女の秘められない天真爛漫さ、元気で明るくて芯の強いところがビシビシ伝わってくる。考えるほどにあか姉いい女すぎる…慎之介、幸せにしてやってくれよ…

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太眉姉妹尊い…セブンで昆布おにぎり買ってこよ

台詞・演技面でいえば、あおいの「なんとでも言えし」などのぶしつけな口調や、「泣いて…な↓いしっ↑」の抑揚が素晴らしく印象に残った。あと、やっぱり種﨑敦美さんの脇役でこそ映える演技は最高だった。群を抜いて上手かった。でもメインの俳優陣の演技もめちゃくちゃ上手かった。吉沢亮は声優をやれし

他にも語りたい『空青』の魅力はいくらでもある。本稿を書き上げてから「あれのことも書きたかった!」と次々に思い出すのだろう。しかしとりあえずはこのへんで筆を置きたい。


最後に

まとめると、『空青』は〈秩父3部作〉の最高傑作であるばかりか、固執と変奏の作家 岡田麿里の「観てほしいところ」がもっとも「観てほしいかたちで」結実した新たな代表作になっていると思う。これから岡田麿里を履修したいひとには、まず『さよ朝』か本作を薦めたい。わたしが一番好きな『凪あす』や、ある意味で岡田麿里の最高傑作である『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は、人間関係ビリヤードの深みにハマってからで十分だ。

ここまで岡田麿里の先行作をことあるごとに引き合いに出して語ってきたが、もちろん『空青』は岡田麿里の文脈を知らないと楽しめない作品ではない。むしろ、ある意味で「知らなければ知らないほど楽しめる」と思う。本作は、これまででもっとも間口が広く、万人に自信を持って薦められるアニメーションなのだ。わたしが『空の青さを知る人よ』をどれほど楽しめたのか、どれほど薦めたいかという熱は、この長ったらしい文章にできるかぎり込めたつもりだ。

ここまで読んでくれたあなたにも、空の青さを知ってほしい。




P.S.

2019年11月現在、アマゾンプライムにて〈秩父3部作〉の前作『心が叫びたがってるんだ』と、私的岡田麿里最高傑作『凪のあすから』(2クールアニメ)が見放題になっている。

わたしは『空青』2回目を観に行く前に『ここさけ』と劇場版『あの花』を見直した。『あの花』はテレビ版の総集編的な趣きが強いから置いておくとして、4年ぶりに『ここさけ』を観て思ったのは、ひょっとしたら岡田麿里作品のなかでは比較的好きでない部類に入るのでは?ということだ。

いやもちろん、『ここさけ』はめちゃくちゃ岡田麿里らしさが尖った形で出ているし、特定の人々に刺さるのはわかる。しかし、少なくとも万人向けではなく、岡田麿里に執着するわたしでも、ちょっと展開に乗り切れないな、と感じるところがある。ただ、ご都合主義だろうがなんだろうが、最後のミュージカルで圧倒して問答無用でねじ伏せるところは大好き。これぞ音楽映画!という感じで、ミスリード音楽映画の『空青』とは対照的である。また今回見直して魅了されたのは、雨宮天演じる菜月のエr…色気とかわいさである。順ちゃんもかわいいんだけどね…

また『凪のあすから』であるが、今回プライム入りしてめちゃくちゃ嬉しかった。嬉しかったのだけど、思い入れが強すぎるためにまだ怖くて観れていない。『凪あす』を観るためには、1週間くらいかけて精神的な準備をする必要が(わたしのなかでは)ある。でないと死ぬ

こんなことを言うとヤバい作品だと誤解されるかもしれないので弁明するが、『凪あす』は普通にめちゃくちゃ良質な恋愛群像ファンタジーである。人間関係ビリヤードに言及せずとも、凪あすはまず〈海村〉と〈陸村〉が共存するちょっぴりファンタジックなあの世界観を完璧に作り上げたことが何より評価されるべき点であると思っている。それは美術監督の東地さんの手腕によるところが大きい。看板のフォントデザインとか最高。凪あすの世界はほんとうに綺麗で美しい。だからこそ、そこで繰り広げられる群像劇の甘酸っぱさと切なさがより引き立つのだ。

というわけで、『空青』も『ここさけ』も『凪あす』も、他の岡田麿里作品も観てほしい。と言いつつ、わたしも全履修しているわけではないので偉そうなことは言えない。自伝も読めてないし…

以上、蛇足(?)でした。

それでは



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