デスゲームから始まる人類史 - 『少女庭国』 感想
とんでもない小説を読んでしまった。矢部嵩『少女庭国』だ。
本書をKindleでポチったのは以下のブログ記事を途中まで読んだのがきっかけである。この小説は2部構成になっており、いってしまえば後半、第2部が本番だ。後半といっても全ページの3/4を占めている。
以下の記事を、その第2部のネタバレ前まで読んで、「これは先に自分で読みたい」と思ったためブログを閉じてAmazonへ向かった。
このnoteではあまりネタバレを気にしないので、私のように上のブログを途中まで読んで、先にポチるかどうか判断すればいいと思う。
さて、この小説はまずは閉鎖系デスゲーム物として読者の前に現れる。卒業式の会場へ向かう女子中学生が突如意識を無くす。目覚めたと思ったら大理石でできた立方体の密室の中。前と後ろにドアがあるが、後ろは開かない。
開くほうのドアには"卒業試験"と銘打たれたこんな貼り紙が。
ドアの開けられた部屋の数をn、死んだ卒業生の人数をmとする時、n-m=1とせよ
ドアを開けると同じような立方体の密室に繋がっている。中に1人の女子中学生が眠っているのも同じだ。以後、コピー&ペーストをするように無限に続く。
要するにこういうことだ。ドアを開けるたびに部屋の数nは1増え、それに伴って卒業生=中3女子の人数も1増えるのだから、自分が"卒業"するためには他の女子が全員死ななければならない。
よくあるティーン向け閉鎖デスゲーム物だろう、と思う。
いっておくが、私はこのようなデスゲーム物が大の苦手だ。中学生のときにあの『バトル・ロワイアル』を手に取り、最初の1人が脱落した時点で私も一緒に脱落した。それくらい苦手だ。なぜ好き好んで自分と歳の近い若者が殺し合うのを読まねばならぬのか。(別に誰にも強制されてはいないが)
そのような私が絶賛してこうしてnoteを書いているくらいだから、本書が普通のデスゲーム物とは一線を画すことはお察しの通りである。端的にいってしまえば、本書の第1部は"ありふれたデスゲーム物"であり、第2部が"デスゲーム物へのアンチテーゼ"とも呼べるような奇っ怪な代物である。
第1部はあっけなく幕を閉じる。合計12枚のドアを開けて13人になった少女らがなんやかんやあって誰が生き残るか投票で決め、最初に目覚めた少女を除いて全員が死ぬ。それ以降、生き残った彼女がどうなったのか、本当に"卒業"できたのかは明らかにされない。
さて、みなさん。ここまで読んで、第2部はどのような展開になると予想するだろうか。
生き残った生徒の後日譚(脱出してからの話?)か、あるいは逆に彼女のこれまでの人生を掘り下げるのもいいかもしれない。
脱出できたと思ったら、更なる第2、第3のゲームが待ち受けていた…なんて展開は、どこかでもう読んだ/観た気がする。
いっそこの謎の閉鎖空間を支配しているゲームマスター側に視点が移って、彼/彼女がどんな目的でそれを行っているのかに迫るパターンもあるだろう。
…もちろんどれも不正解。
正解はーー"サイコロを振る"だ。
もっと正確にいえば、第1部が1回サイコロを振った結果だとしよう、第2部では、サイコロを"振りまくる"のである。
振って振って振りまくる。ある少女が目覚める。貼り紙を読む。ドアを開ける。色々あって、全員を殺害する。または死ぬ。また別の少女が目覚める。死ぬ。また別の少女が目覚める。死ぬか殺すかする。また別の少女がーー
この展開は、デスゲーム物へのアンチテーゼととれる。
デスゲーム小説の本質はその"1回性"にある。つまり、冒頭で死ぬモブ要因も含めて、登場人物は固定されている。決まったメンバーで殺し合いをさせるのだ。これにより、徐々に読者はキャラへ愛着が湧いたり、逆に憎んだりと、なんらかの思い入れを抱く。キャラへの思い入れとは、すなわちその人物の命の重さだ。
なんの思い入れも無い人物が死の危機に瀕したところで、なにも面白くもない。デスゲーム物が面白いのは、思い入れのあるキャラたちが、その重い命を賭けて戦うからだ。だからデスゲーム物では、登場人物のバックボーンや関係性を描くことで、殺し合う前になんとか読者に思い入れを持たせようとする。
1回切りだからこそ緊迫感のあるデスゲームが描けるのだ。
しかし本作はその真逆をいく。
次々に現れる少女は、個人名こそあれ、次々にーーときには数行でーー使い捨てられる。こちらとしては、思い入れもなにもあったものじゃない。読めば読むほど少女たちは新しく目覚めては消え、目覚めては消え…彼女らの命の重みはどんどん0に等しくなっていく。何度も何度もデスゲームが繰り返され、命の価値が希薄になった少女たちは、そのまま消えてしまうのか。
そうではない。1回性の尊厳が踏みにじられるほど、皮肉なことに、豊かな産物が生まれるのである。それはなにか?
コインを投げて、表でも裏でもなく、その縁で"立つ"ことなんて普通ありえない。しかし、無数に試行したらどうか。何千回、何万回に1回は"それがありえるかも"しれない。
本書の第2部でも同じことが起こる。大抵の場合、卒業試験は1人か数人の犠牲者を出して終わる。しかし、何千人に1人は変なことをやらかす女の子がいてもおかしくない。例えば、足を止めることなくひたすらドアを開け、何千、何万という部屋を突き進む少女。逆に、開かない後方のドアをなんとか破壊しようと試みるもの。
これらひとつひとつの試行は、ほとんどの場合徒労に終わる。それでもサイコロは振られ続ける。すると、気の遠くなるような試行の末に、かなり面白い目が出ることがある。例えばーー少女たちが豊かな文明を築き始める、とか。
考えてみれば、文明の萌芽が発生する環境としては、最適とは言えないまでも不可能ではないのだ。ドアを開ければ無限に広がる空間がーーそして"新鮮な"少女が手に入る。少女らの衣類や持ち物も大切な資源になる。
壁の掘削により居住空間は街が作れるくらい広がり、安定した食糧供給を実現し、やがて奴隷制度も生まれ、文明のレベルは徐々に上がっていく。それでも、たいていの文明は途中で何らかの問題に突き当たり瓦解する。
まさに人類が狩猟生活から現代まで長い歴史の中で発展してきた様を見ているようだ、と思う。あるいは、突然変異による自然選択を繰り返してここまで脈々と繋がってきた、あらゆる生物の歴史を。
閉鎖デスゲーム物かと思っていたら、それが無数に人を変えて"繰り返される"ことで、人類史のようなものを追体験させられているのだ。わけがわからない。
本作をデスゲーム物へのアンチテーゼと呼ぶ理由もこのためだ。
「閉鎖環境での殺し合い」の反対は「開放的な世界での安定した生活」だろう。
本作では、殺し合いを何度も何度も繰り返すことにより、文明による安定した生活が実現されるという逆説をアクロバティックに我々の前に提示しているのだ。
だが、本作の凄さはこれにとどまらない。まだ先がある。
様々な少女の卒業試験ーーある子は数行で終わり、また別の子は文明の構成員となり何十年も生きるーーそのパターンをひらすら羅列した第2部の終盤で、こっそりと重要なパターンが言及される。
講堂へ続く狭い通路を歩いていた五七〔水上菜々子〕は気付くと暗い部屋に寝ており見上げる部屋は四角く石で部屋にはドアがあり一つには貼り紙がしてあった。菜々子は全部で七名の女子を起こしその全員で互いに殺し合い、運も含めた行動の末最終的に菜々子が生き残った。人を殺してしまったという気持ちとこれで戻れるのかという戸惑いと幾許かの安堵に包まれていた菜々子のいた一つ過去の扉が開き見知らぬ妙齢の女性が顔を出した。「あなたが生き残りねおめでとう。精一杯働い てね。ここからがスタートだから」
途中まではこれまで幾度も繰り返してきたありふれたパターンだと思われる。しかし、1人が生き残ってからの描写がされるのはこれが初めてである。卒業試験を終えたかに見えた少女のすぐ後ろで、過去の扉、すなわちこちら側からは開けられない扉が開く。つまりどういうことか。彼女は真の生き残りではなく、残った1人を奴隷として採用しようとデスゲームを見守っていた文明の端っこで、新しく開拓される部屋にいた"次の"少女に過ぎなかったのだ。彼女は"卒業"できたわけではないのである。
このエピソードが決定的な意味を持つ理由が分かるだろうか。
これまで何度も繰り返してきた全ての結末に、これと同様のパターンが続く可能性がある、つまり未だかつて本当に生き残って"卒業"できた少女はいないとも考えられるようになってしまったのだ。
これまで、数行で終わるにしろ、何十ページにも渡る文明の興亡が描かれるにしろ、その終わりは必ず誰か1人が生き残って"卒業"していた。ハズだった。
いまや、"サイコロを振りまくる"という第2部の概観すら捉え直す必要が出てきたのだ。全てのパターンは一続き、サイコロはたった1回しか振られていない、少なくともその可能性がある。
こうなってくると、本当に"最初に"目を覚ました、全てのデスゲームの起点となる1人の少女の存在が浮かび上がってくる。しかし、果たしてそんな人物がいるのだろうか?彼女もまた、後ろの扉で見張られた存在であることを否定できない。デスゲームの因果が無限に後退していくのである。
この事態、"何かに似ている"とは思わないだろうか。
それは、我々が暮らす現実世界、この宇宙自体である。
古典的な宇宙観では、あらゆる物体がこの先どう動くのかは物理法則で説明できる。逆に考えれば、あるモノが今こうして動いているのは、全て過去の出来事の結果である。これが因果関係と呼ばれるものだ。
こうした世界観では、「そもそもの始まり」となる事象を想定しようとしても、「その事象が起きた原因」を考えられるので、無限に因果が後退していつまでたっても「そもそもの始まり」にはたどり着けない。
このように、少なくとも理性では想像できない、この世界の全ての始祖ーーそれを人類は、"神"と呼んだ。
つまり、本作における「最初に目を覚ました少女」とは神に等しいのだ。理知的に神の存在証明をするのがナンセンスなように、「最初の少女」がいたと想定することもまたナンセンスである。全ては無限に続く小部屋、言い換えれば時間の連鎖の中に飲み込まれる。
そして、「本作内の無限閉鎖空間 = 現実世界(宇宙)」という対応関係を認めてしまえば、貼り紙に書かれ、全ての少女がそれを目指してきた"卒業"というのが暗に何を指すのかが見えてくる。
「本当に"卒業"できた少女は誰もいない」のだった。実際、1人生き残ったあとのことは一度も描かれていないし、過去方向のドアにまだ少女が控えている可能性が常に存在する。
「全ての少女がそれを目指してきた」ということから、卒業とは何らかの形での"救い"ととれるかもしれない。しかしそれではあまりにもあやふやだし、卒業(デスゲーム勝利)を単に言い換えただけだろう。
そもそも"卒業"とはなんだったか。彼女たちは(我々も)暗黙のうちに「"卒業"とはこの閉鎖空間から抜け出せること」だと理解している。そんなことはどこにも書いていないのに。
もうお分かりだろう。「閉鎖空間=現実世界」なのだとしたら、「現実世界から抜け出すこと」とはなんだろうか。そう、死である。
私たちは"死"を現実世界から去ることだと理解している。そんなこと誰も確かめたことはないのに。言い換えれば人類は、本当の意味で"死"を一度も経験していない。我々が遭遇するのは、常に「他人の死」である。そして他人の死とは、その人が動かなくなって、冷たくなって、葬られて…という、間接的な形でしか認識できない。直接死を認識することはできない。自分自身の死であっても、だ。なぜなら、それを認識しようにも、その頃には既に自分は死んでいるからだ。当然の話だ。
「本当に"死"を経験した人間はいない」とはそういうことである。
全ての少女は個人差があれ、一度は"卒業"を願ったのであった。閉鎖空間内での文明が発達し、何十年も生きられるようになっても、「ここから出たい」という思いは心の奥深くには確かにある。
何でいうこと聞いて卒業試験じゃ駄目だったの。数人殺せば家帰れんならいくらだって私やったよ。十人でも百人でも頑張って殺ったよ、だってやんなきゃしょうがないじゃん。何でこんな何もないとこで閉じ込められて生きなきゃならないの。何でもいいよ馬鹿馬鹿しくても、だってやんなきゃただ死ぬだけじゃん
この台詞は興味深い。"卒業"に背を向けて発展したはずの文明社会に生きる少女が思いの丈を級友(もちろん閉鎖空間内に建てられた学校の級友である)にぶちまけている。彼女はここで生きることを否定し、"卒業"を目指して殺し合いをしたかったと言う。
本来のデスゲーム物にふさわしい台詞(殺し合いを嘆き、生きたいと願う)とちょうど倒錯していて面白いが、「"卒業"=(現実での)死」の図式を念頭に置くと、彼女に、安定した世界に絶望して死を希求する現代人の姿が重なって見えないだろうか。
そもそも、ほとんどの少女は1つだけドアを開け、そこに横たわる少女を殺害して"卒業"する(あるいは返り討ちにされ、2番目の少女が"卒業"する)のだった。これは、現実の人類のほうでいえば、まだ社会が形成される前、常に死と隣り合わせな極めて原始的な時代に対応する。やがて人類(=少女)は狩りを始め、共同体を作り、耕作の発明により定住生活に移る。その後、幾度も崩壊を繰り返しながら、文明は進歩し、哲学や科学といった学問、絵画や文芸といった芸術などの文化が華開く。しかし、豊かになるほどに、ただ一つ天から与えられたこのゲームの目的、"卒業"(=死)から遠く離れてしまったことに絶望する。
これが、デスゲームから始まった人類史の行き着く先である。
われわれ人類の歴史をなぞるようにして展開されたこの奇怪な物語は、しかし絶望で終わるわけではない。
本文中では"最後のサイコロ"となる62番目の少女石田安子と、彼女がただ1つ開けた先にいた本田加奈子のエピソードは極めて示唆的である。
根暗で人見知りの石田と美人で一匹狼の本田は、少し言葉を交わしたあと、あるきっかけで互いの部屋を交換することになる。最初の部屋に本田が、次の部屋に石田が、という具合に。そして2人は部屋の間のドアにもたれ掛かり、つまりドア越しに背中合わせの状態で、ゆるやかな時を過ごす。
ここで注目すべきは、ドアは一方向にしか開かない、ということ。それから2人はそれぞれ前(未来)と後ろ(過去)を向く形になっているということだ。
殺すにしろ殺されるにしろ、文明を築くにしろ滅びるにしろ、これまでの少女たちはみな、"卒業"することができずに死に絶えていった。62番目の試行にして初めて、ここでは1人の死も"卒業"も描かれずに終わる。
ここでの「終わる」とは、彼女たちの物語の終わりというよりは、むしろ私たちが本を読み終わったに過ぎない。
デスゲームから始まった無数の幼気な少女たちの紡ぐ人類史は、たった2人の少女の会話で幕を閉じる。"卒業"から背を向けるのでも、切に願うのでもなく、ただお互いの存在の居心地のよさを確かめ合いながら。
あまりにもあっけない幕切れに、私たちは希望を見る。それは単なる小説内世界への希望でありながら、また同時に、他でもない私たち自身、私たちが生きるこの現実への希望でもある。笑ってしまうほど寄る辺なく、だからこそ美しい希望だ。
「いつまでここに?」
「判らないけれど、なるべく長く」
「私はいいよ」
「本当? よかった」
「あなたはどこかへ行かないの。相手が私で不足はないの」
「このままでいようよ」優しい声がした。「私たちはもう補われたのだから」
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