見出し画像

アニメ『響け!ユーフォニアム』1期と2期を観返した感想



前クールに最終シーズンとなるTVアニメ3期が放映された『響け!ユーフォニアム』ですが、3期を観る前に、もうすっかり忘れてしまっている1期や2期から観返さなきゃ…………と思っているうちに放映が終了してしまいました。あ~あ

リアタイはできませんでしたが、ようやく1期と2期を観返したので、それらの感想を以下に載せます。

なお、わたしは1期を後追いで、2期は放映時に(ニコ動で)観た記憶があります。

1期→2期→『リズと青い鳥』→『誓いのフィナーレ』……と続く一連のアニメ『ユーフォ』シリーズは、じぶんがこれまで観てきたアニメのなかでも10本の指に入るほどに大好きな作品です。

ただ、昔好きだった頃とはじぶんの感性がかなり変わっており、以前のように楽しめなくなっているかも………というのを、昨年の劇場版『特別編 アンサンブルコンテスト』で痛感しました。

このたび数年ぶりに1期と2期を観返して、今のじぶんは『ユーフォ』をどう観るのか、どう受け止めるのか……という点が、自身にとって怖くもあり、楽しみでもありました。

それではどうぞ


※そういえば、3期の範囲の原作小説は未読ですが、風(ネット)の噂で最終話などのネタバレを断片的に聞き及んでいる状態ではあるので、3期のネタバレをまったく含まないわけではない、ということにご注意ください。(逆にいえば自分でちゃんと観ているわけではないので、正確性も保証しかねます)




1期(2015)の感想

2024/07/17(水)

ようやく『ユーフォ』1期を駆け足で観返した。観るのは3, 4回目、数年ぶりだろうか。

脚本・演出の凄さは言うまでもないんだけど、いま改めて観ると……シスターフッド・クィア的に本作を評価する上で、顧問の滝先生をどう受け止めるか(無視するか)ってめっちゃむずくね!?と思わざるをえなかった。マジでみんなどうしてるんだろう……

みんなの前で即決で挙手をさせて、それがさも「公正」なやり方だという風に(先生本人が)思ってそうなのが本当に暴力的。
それなのに、なんやかんやで可愛げもある「良い先生」だということになって、この成人男性教師の掌の上で、いたいけな若者たち(少女たち)がいいように踊らされて転がされている構造に……これ、「良い話」か!?と素朴に引いてしまう。

ほぼ覚えてないけど『リズ鳥』では滝先生の存在感が薄く、生徒ベースの自立した物語である点が本編のスピンオフとして優れているのかもしれないと思った。
2期で掘り下げられるんだと思うけど、滝先生のパーソナリティ(妻子や父親の存在)は重要だろう。
くみれい等の百合要素にとって秀一との異性愛がノイズである……とか、そんなことよりもずっと、(麗奈たちと)滝先生との関係、「子ども/大人」の構図のほうがノイズだろ!!と思う。

花田十輝作品として、『サンシャイン!!』『よりもい』『ガルクラ』などにおける、子どもである主人公たちを導く(あるいは抑圧する)大人の存在感・有無について考えたい。

また、京アニ・山田尚子作品でいうと『けいおん!』のさわこ先生と滝先生の対比はし易いよなぁ


これも言われ尽くしているが、最終的に滝先生がセクハラかパワハラで逮捕されたら真の大傑作になっていたと思う。間違ってもこいつの跡を継承することはしてほしくない。



それ以外については……

麗奈は、昔は素朴にええやんと思っていたけれど、今見ると(良くも悪くも)幼いな〜という印象が拭えず、しかも「特別になりたい」と周囲からの卓越(ディスタンクシオン)を目指しているわりには、久美子に執着して、ふたりだけの関係に依存して閉じようとしている点がどうも受け入れ難い。(⇔くみれいには乗れない)
けっきょくはエリート血筋の「持てる者」の傲慢では、という気もするし、凡庸な普遍的な弱さ・青さを認めなければならない面も気になるし……(そして極めつけが滝先生への恋情?設定!)

「なかよしかわ」も……あまりに用意され過ぎてると感じちゃって苦手!! 夏紀センパイがめちゃくちゃ良い人なのはほんと好きだけど。
3年生ズが好きだな〜  晴香部長と香織のペアがいっちゃん好き。
あと、真価は2期になってからだけど、部内の人間関係のアレコレを「心の底からどうでもいい」と切り捨てる言動を(久美子に)みせるあすか先輩に一周回って救われるというか、惹かれる。そう言いつつ香織を気にかけて練習に付き合いもするし、でもバランスは取ろうとするしで、1期だけだと底がまったく見えないので良い。

香織先輩に過度に執着して麗奈にあれこれ対峙する吉川優子に対して、「なんなのあいつ……ムカつく!」と苛立つ麗奈だが、彼女も久美子と「特別」な関係を築こうと執着しており、優子のしていることを綺麗になぞっているのが皮肉だ。(こういう点でも脚本が本当に優れている)

8話「おまつりトライアングル」が空前絶後の神回なのは見返してより確信したが、同時に、大吉山へ登るくみれいのエロスの表象の露骨さは引いてしまうほどだった。(これくらい明示的にやらないと〈クローゼット〉に抑圧されてしまうから正しいのか? あるいは、わたしのようなジェンダー・マジョリティが「引く」ことは、その内面化された同性愛差別が明るみに出ている反応としてある意味ねらい通り……ということだろうか?)

この回では、秀一をお祭りデートに誘って失恋する葉月のシーンとクロスカッティングする形で久美子と麗奈の登山が描かれる。凡庸な異性愛(の失恋)と「特別」な同性愛(の官能的な成就)……という、あまりにも分かりやすい対比構図。

ただ、これは『リズ』のみぞれの造形にも最近思っているんだけど、同性関係の「特別」さを強調することは、マイノリティの更なる周縁化に繋がりかねない危うさを常にはらんでいるのではないか。

【補足】……『リズと青い鳥』の鎧塚みぞれについて最近書いたことを補足としてコピペします。

『響け!ユーフォニアム』及び『リズと青い鳥』の鎧塚みぞれは、フルート演奏に関して「特別」で「天才」的な才能を持っており、かつ、同級生の傘木希美に(同性愛・恋愛感情といっても問題ない)深い感情を抱いているキャラクターである。こうした(性格や才能が)「特別」であるキャラクター(だけ)を同性愛者とするのは、暗黙裡に同性愛者のマイノリティ性を「特別」で「異常」なものとする差別的な思想が下敷きになっているのではないか(そして、そうした同性愛差別を温存・強化する方向に働くのではないか)。 「のぞみぞ」は確かに百合として「尊い」けれども、その尊さは、みぞれのこうした危うい造形に支えられており、みぞれのように「特別」な人物でなければ同性に執着してはいけない、という逆方向のイデオロギーを再生産するように働いている可能性はないのか。 (むろん、この指摘そのものが非常にナイーブで危うい言説ではあるが、とりあえずの思い付きであり、議論の叩き台として記しておきたい。)

『ユーフォ』でいえば、高坂麗奈の造形もまた、少し似ている危うさがあるかもしれない。とはいえ、彼女は顧問の滝先生へのヘテロ恋愛(?)感情も持っているとされるので、より複雑である。少なくとも麗奈に「クレイジーサイコレズ/バイ」という直球の差別語を当てて愉しむ一部の風潮は言うまでもなく暴力的である(が、5年前くらいの自分はそれをやっていた……という自戒・反省もある)。


(山の上から)周囲の凡庸な「大衆」を見下ろして悦に入る麗奈の精神性それ自体が至極凡庸で幼稚である。それを作品としてどこまで自覚的に描き切っていると読むかが難しいポイントだと思う。(少なくとも現在は)いち吹奏楽部員のトランペット奏者である麗奈が「特別」になろうとする見通しの抱える矛盾というか、「金賞」「全国大会出場」を “みんなで” 目指すことの矛盾というか、より広く、音楽(芸術)で卓越しようとすることの凡庸さというか……

上記のように「くみれい」には乗れないが、だからといって久美子と秀一のヘテロカップリングを、百合オタクに対する逆張りのように持ち出すのも単なる異性愛主義への反動でしかないので、嫌で(じっさい1期最終話の本番前の秀一とのシーンは「ここでこんなにこの2人の関係に焦点当てるんだ!?」とヒヤヒヤした)、結果的に、久美子……すまないがお前はひとりで生きてくれ……になっている。


水上文さんらのこれを聴かなくてはいけないがまだ聴けてない……3期観終えたらぜったいに聴く…………



2期(2016)の感想

8話まで

2024/7/18(木)
2期8話まで観てのメモ

4話「めざめるオーボエ」……みぞれに(希ではなく!)優子が迫って救い出すのがいい。(し、夏紀も希美に憧れて希美のために動いている)んだけど、この回のあとけっきょく南中カルテットは「のぞみぞ/なかよしかわ」という2組の固定ペアに分かれて収まってしまい残念。別CP(みぞれ-優子/希美-夏紀)が好きというよりも、上記の2組があまりにも固定感が強いので、もっと4人で流動的になってほしいと願う感情がある。

また、校舎の窓枠を十字架のように見せる露骨な演出は好きじゃなかった。こないだの「特別編」でのみぞれの窓を開ける/閉める暗示的な演出と同様。なんで苦手なんだろうと掘り下げるに、校舎という舞台・建造物をあまりに示的に《喩》として利用する手つきは、学校空間を丁寧に描いているようで、かえって、ただそこにあって《舞台》となる学校空間の価値や自立性を損ねているように感じるから……かも?? その点、『リズ』での理科室や反対側の棟の窓への光の反射・水槽といった演出は、意味深ではあるが容易には解釈にひとつの像を結ばせないので、やっぱり山田尚子はすごいな~~と思う。

「吐きそう」なみぞれが迷い込む、屋上階への階段が鉄格子によって閉ざされた踊り場は物々し過ぎて爆笑した。

あとやっぱり鎧塚みぞれの造形はあまりに「オタク」過ぎて好きになれない。『エヴァ』の碇シンジくんみたいな……。「どうせみんな自分を愛してくれない!自分だけ仲間はずれの社会不適合者なんだ!」という自己閉塞の陥穽から、周りのみんなが「祝福」して救済してくれる展開は、「オタク」のナルシスティックな夢想でしかないというか……。

さいきんのバズワードでいうところの「オタクに優しいギャル」ですよね、傘木希美は。オタク(みぞれ)は、孤独な自分に声をかけてくれて救い出してくれたギャル(希美)に惚れ込んで依存して執着するわけだけど、よく言われるように「オタクに優しいギャルはオタク ”だけ” に優しいわけではなく、「みんな」に優しいからそのおこぼれとして友好的に接してくれているだけ。勘違いするな」という現実を見せつけられてショックを受ける……。のぞみぞ/『リズ』ってこういう異性愛のテンプレな言説を同性関係で見事に再演したからこんなにも支持を獲得した面が大きいと思っている。それ(異性愛規範のズラし=模倣)をいかに評価するかは両義的で難しそう。

もうひとつ、みぞれは4話で希美と向き合っていちおう仲直り(?)したことで、それまで「機械的だ」と評されていたオーボエの演奏が生まれ変わったように良くなる。実態は、1年前に希美が退部するまでの演奏に "戻った" だけなのだが、それはともかく、このように人間関係の悩み(の解消)と演奏の質をピッタリ一致させるドラマチックで明瞭簡潔な作劇は、そりゃあ吹奏楽部をテーマとした青春スポ根モノとして便利だけれど、いっぽうでそれは、本当の「吹奏楽」を、音楽を、物語のなかで追求して表現せんとすることに対して舐めているんじゃないか、安直すぎるのではないか、とも思ってしまう。人間関係の懸案事項がスッキリ解決したので演奏の質も一気に回復しました!って、そんなに音楽は単純じゃないだろ。それに、「機械」に「心」がインストールされたからすばらしい演奏能力が戻りましたよ…って、それは鎧塚みぞれというキャラクターをますます「機械」に近づけているだけなのではないか。


あすか先輩の母親の造形はふつうに典型的なミソジニーでキツい。「子(娘)を束縛するヒステリックなシングルマザー」というステロタイプ……
それになによりも、あすか先輩の「弱さ=人間性=底」がこんなかたちで定義され露見してしまうことが本当にかなしい。もっと底知れない人であってほしかった。(←と、あすかを「特別」視して客体化=外部化することの非倫理性が相対化されてもいるわけだが、それでもなお、残念に思う。)

そんなあすか先輩の母娘関係と対比されるかたちで導入される、久美子とお姉ちゃんの姉妹関係はストレートに泣ける。(憧れの、しかし音楽を不本意に辞めてしまいそうな存在として、お姉ちゃんとあすか先輩を同一視する久美子)

同時に、久美子の父親と姉の口論が描かれて、あすか母と久美子父もあからさまに対置されるが、要するに2期後半では、家族関係が主題となっている。5話で滝先生の妻や父の話題が出ていることも鑑みると、物語の向こう側にはうっすらと(反)生殖主義──親の子に対する倫理と、その「現実」を踏まえて「子」が上の世代(親、姉、先輩)にどう向き合うか、というテーマが見えてくる。(妄想ぐるぐる目)

『ユーフォ』で反生殖主義を考えるのは、とうぜん同性関係に踏み込んだ物語としての解釈にも関わってくる。あすかと父、麗奈と父、滝先生と父……など、〈父〉の楽器(志)を継承する〈子〉が乱立する、非常に血統主義的・保守的な設定が根幹にあるのも無視できない。久美子の進路もまた……


黄前久美子はもちろん主人公として好きだけど、体感では2期に入ってより一層、久美子がなんやかんやで他の人物と2人きりで話して情報収集・利害調整をすることになるおつかい(スパイ)主人公ムーヴを延々と繰り返すことで物語が進行している印象が強くて、あまりの一辺倒さに苦笑してしまう。

そういえば原作小説では三人称の語りであるが、ほんらい三人称的なメディアであるはずのアニメでモノローグを頻用して、久美子の一人称叙述のように転換しているのが興味深い。小説では三人称で行なっている情景描写を、アニメでは優れた映像表現で語らずとも昇華できているから(明示的な「語り」としては久美子のモノローグだけが目立つということ)だろうか。


ますます常態化して濃密になってきている久美子と麗奈の「特別」な関係の演出にもゲンナリする。しかも、他の「友達」である葉月と緑耀の造形や言動があまりに純朴で素朴なことを踏まえると、この2人を「凡庸」に描くことで麗奈-久美子の湿感/質感のある雰囲気の「特別」さを強調して成立しているのではないか、と感じてしまい、余計に苦手になっている。緑耀、葉月の順で別れていく下校路(電車通学路)の設定が憎い。

もちろんこの観点では、麗奈と別れたあとで久美子が時々会って話すことになる幼馴染=秀一の存在は欠かせないし、最終的には〈家〉のなかでの家族関係に行き着く。しかし8話の風邪休養回では知らぬ間に久美子の部屋(ベッド!)まで麗奈が侵入侵攻してきており、恐怖を覚えた。

1期感想で言ったように、「れいくみ」への逆張りとして秀一と久美子の幼馴染ヘテロ恋愛関係をストレートに称揚することには引け目を感じるが、しかしあらためて、秀一との関係の描き方はほんとうに自分の理想の幼馴染描写だと思う。ふたりの幼少期の出会いとかドラマチックな関係のエピソードとかをいっさい描かずに、察してくれと言わんばかりの情報量の少なさ(歴史の欠如)とロートーンでオフビートな久美子の対応から、視聴者が部外に締め出されるふたりの歴史=日常=人生の積み重ねを想像させる手法。
文化祭のお化け屋敷シーンなど、あまりにコテコテなラブコメを志向する「現在」に全乗りはできないが……

久美子と麗奈の特別な同性関係は、秀一や滝先生という男性との異性関係を背景としたいわゆる「ヘテロ百合」なので、その意味では非常に自分好みなんだけど…… 葉月・緑耀と同様に、それらを排除するために配置したうえでふたりだけの閉鎖的な二者関係に閉じていくように見える点が苦手だ。


そういえば、こうして2期であすか先輩や滝先生のパーソナリティ、「吹奏楽部をやる理由」が示されたことで、1期2話での、今年の吹部の目標を「全国大会出場」にするかどうか決めるための、あの極めて理不尽で暴力的な「多数決」の場をセッティングして進行したこのふたりの真意がわかり、なるほどね~~~となった。滝先生は亡き妻の悲願を引き継いで(なんというクリシェ!)全国で金賞を取ることを目指すし、あすか先輩はお父さんに自分のユーフォの演奏を聴いてもらうためになんとしてでも全国大会に出場したい。どいつもこいつも100%私情で駆動していて、そうか……こいつら当人たちもあのやり方を公正なものとはまったく思っていなかったんだな。むしろその理不尽さを自覚したうえで戦略的に動いていたんだな……と分かり、あのシーンの受け取り方が180度変わった。

ただ、そうして「私情」でどいつもこいつも動いているさまは心地よいのだけれど、それが、各人の思惑の入り乱れるカオス的な狂乱、いわゆる〈カーニバル〉へと行きつくのではなくて、むしろ吹部のみんなで一致団結して全国(金賞)を目指すぞ!!という協力体制に動員され(ているとも自覚しないままに当人たちの意志で)進むさまが肯定的/感動的に描かれる点は、やはり本作が全体主義っぽいと言われるゆえんだろう。「合奏」を扱うスポ根モノの時点で仕方ないとはいえ……。


【余談】どいつもこいつも私情で動き回ってカオスになっていくさまを描くのがうまい作家といえば……岡田麿里!!!

実行委員がはじめはイヤイヤながら、なんやかんやでミュージカルを積極的(強制的)にクラスに提案…押し付けていくわけだが、ここで実行委員の拓実も菜月も順も、まじでごく個人的な私情で動いているのがとてもいい。(中略)けっきょく実行委員全員が自分のことしか考えていない。すばらしい。クラスの団結とかいうお題目はまじでお題目であって、みんなそれぞれが自分の私情のために突っ走っていたらいつの間にかクラスが結束していた……という塩梅がうまく描かれていると思う。

終盤で現実の夏祭りが見えて、同級生の仲間たちもいつみの処遇を巡って内部分裂を起こして痴話喧嘩カーチェイスし始めるくだりなんかはカオス過ぎてめちゃくちゃ面白かったけど。まさにカーニバルだった。
こういう世界設定の物語って、普通まぼろしの世界から脱出するとか、まぼろし世界を牛耳る悪の根源を倒すとか、逆になんとかまぼろしの世界を維持しようと頑張るとか、いずれかの大きな目的に向かって物語がクライマックスまで突っ走る構造になるはずなんだけど、この映画はどれでもないというか、ひとつの流れにならずに色んなキャラがそれぞれの私情でバラバラに突っ走っていて、そのまとまらない感じはすごく良かった。




12話まで

7/19(金)
12話「さいごのコンクール」までみた
・・・・・・・・・・さすがに大傑作か……

吹奏楽部はその性質上、各パート練や個人練で、校舎内・学校内のさまざまな場所に散り散りになって距離をとって練習しなければならない。だから必然的に学校のいろんな場所を映すことになる。「学校」という時空間をアニメーションで創造し表現することを追求してきた京アニが吹奏楽部の物語を選ぶことにはなるほど必然性があるなぁと今更ながらに感じた。


進藤正和?とかいうあすか父の振る舞いがマジで気持ち悪い。子育てというキツい再生産労働は妻(あすかの母=「ヒステリック」だとされる女性)に押しつけて、じぶんは離れたところから「演奏家」として幼い娘にユーフォと楽譜を授けて、娘に自分の道を継承するように仕向ける。子育てを舐めるな。女性にドメスティックな労働を丸投げして逃げるな。特権的な(男性)芸術家の自己陶酔と家父長制のもっとも悪いところが結晶している。

そして、自身が「審査員」を務める高校吹部の全国大会を娘が「自発的」に目指すようになり、娘が〈父〉の前で演奏して承認を得ることをあたかも美談のように描く…… あすかは悪くないが、進藤正和のことが本当に許せない。とどめを刺すように、『響け!ユーフォニアム』というタイトル回収が彼の曲によってなされるし・・・・・・


「一緒に死体を埋める百合」というクリシェで形容されることで有名な11話「はつこいトランペット」において、滝先生と「奥さん」を指して久美子が「そりゃぁ好きでしょ……結婚するくらいだもんね」と麗奈に発言するのが良かった。「結婚」によって(異性)愛の強固さが自明に示されるという俗社会の差別的な規範が見事に表現されているシーンなので。



13話まで

7/20(土)
2期最終話みた
万感のエピローグ
そして「次の曲」は!?  この2期で完全に締め括りのつもりだったのか。この時点では原作もここまでしか出てなかったような。

「卒業」による世代交代、新陳代謝、別れと出会い。あすか先輩に別れを告げるために、思い出の場所を巡っていく。

てらまっとさんの言う通り、京アニはこの『ユーフォ』からリベラリズムの競争社会を前提にした物語にシフト( “最悪の先祖返り” )しているのかもしれず(本当に?『Free!』とかは?)、それに対する忌避感も部分的にすごくわかるが、しかしながら、やはり「学校」という時空間を徹底的に精緻かつ抒情的に描くことで青春を肯定せんとする姿勢は、『らきすた』『ハルヒ』『けいおん!』『氷菓』の頃からまったくブレていないと思った。断絶性や転換、反動ではなく、連続性をつよくつよく感じる。

「学校」アニメを追求してきた京アニ観からすれば、むしろ本当の転向は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』とかにあるのかもしれないが、観てないのでそっちにも学校が出てくる可能性を排除できない。てか他にも観てない/知らない京アニ作品たくさんあるし……

敢えて両取りしようとすれば、京アニは、『けいおん!』のようなのんびりマイペースな高校生活も、『ユーフォ』のような部活内政治の渦中に飛び込んで競争社会を生き抜いて自己実現していく高校生活も、それ以外の高校生活も、さまざまな在り方を描くことですべての「青春」を肯定しようとしているというか、真に普遍的な〈学校〉という時空間の表現を追求しているとみなせるかもしれない。

〈学校〉とはある意味で「容れ物」に他ならず、そこに毎年出たり入ったりしてくる若者たちの個々の青春の過ごし方(=〈物語〉のジャンル、トーン)じたいは本質ではない。多様な青春の舞台となり続けて永らえていく〈学校〉という生き物=現象の動態に焦点を定めれば、京アニが一貫してやろうとしていることがみえてくるのではないか。

「学校」とは、ひとりひとりの人生にフォーカスすれば、3年間などの有限性を持った時空間であり、そして「学校」そのものにフォーカスすれば、絶えず構成員(生徒)が入れ替わっていくことで永い固有の歴史をその土地の歴史とともに築いていく共同体=生き物である。そして、Aqoursというスクールアイドルは、浦の星女学院の存続とアイデンティティをレペゼンしていたはずだ。つまり学校とスクールアイドルは象徴的に同一のものとして重ね合わされてきた。そうであるならば、Aqoursというスクールアイドルもまた、〈学校〉というシステムと同じように、卒業するメンバーがいれば加入するメンバーもいる、絶えず構成員が変わっていくことで動的な同一性と永遠性を獲得するグループであるべきだったと思う。
(中略)
つまり、『サンシャイン!!』というアニメは、こんなにも、スクールアイドルの魅力を通じて、浦の星女学院の魅力や、内浦という地域の魅力を発信してきたにもかかわらず、結局は、みんな、新陳代謝によって延命するシステムであるところの〈学校〉とか〈地域〉とかよりも、あの9人のキャラクターが好きなんですね~~~…………  それは当然のことかもしれないけど、この9人のAqoursを唯一絶対のAqoursとして崇め立てて好きでいることは、他でもないAqoursの、そして『サンシャイン!!』という作品の核心にある思想を徹底的に侮辱する行為ではないのか、と、この劇場版を観て、そう思った。少なくともこの劇場版には、そうした、作品テーマと実際にプロットで描いていることに重大な矛盾を孕んでいると思った。

以上のように、こないだ『ラブライブ!サンシャイン!!』劇場版で書いたことも繋がるだろう。『ラブライブ!』シリーズは京アニではないので、いくら「学校」や「部活」を称揚する素振りをしていても、それはスクールアイドルをやる主要キャラの存在・物語ありきであり、彼女らが卒業して欠けても新陳代謝しながら続いていく部活や学校を丁寧に描き切ることはできない(しない)。根っこにキャラクター主義があるから。個々のメインキャラクターにファンを付かせて集客・マーケティングしていく商業コンテンツだから。換言すればこうした〈アイドル〉アニメと、京アニが追求する〈学校〉アニメは、本質的にコンテンツのジャンル・志向が異なる

これを踏まえれば、じぶんはここまで『ユーフォ』の各キャラに好きだ嫌いだとあれこれ書いてきたが、根本的には『ユーフォ』というアニメ作品が好きなのであって、キャラ萌えや「関係性」推しといったキャラクター主義からは距離をとったところで本シリーズを消費したい。

「容器」としての舞台=学校を「生物」として主体化するということは、そこで新陳代謝する内容物としての「生徒」=キャラクターを究極的には俯瞰して相対化しきる姿勢と表裏一体である。これはつまりキャラクター主義から距離を取るということであり、それは例えば『ユーフォ』で、吹奏楽部員ひとりひとりを「モブ」などいないかのようなキャラクターデザインで緻密に設定している姿勢も関係しているのではないか。

メイン/モブという二分法やグラデーションは、限られた登場人物たちの存在によって作品を担保しようとするキャラクター主義から導かれるが、それに対する〈学校〉=容器主義の立場では、すべての学生が均しく俯瞰されかつ肯定されているために「モブ」など存在しない。言い換えれば全員が「モブ」であり、普遍的な「メイン」キャラなどいない。ある〈物語〉のパースペクティブでは主人公となる人物も、それとは別の〈物語〉を生む視点や〈学校〉そのものを主体化せんとする視点では名も無きモブに過ぎない。これは『リズ』での久美子や麗奈のモブ化とも近いものがあるし、『けいおん!!』(2期)の卒業式回で、唯たちに花を付ける在校生が梓ではない「モブ」であることもそうだろう。あるいは『ユーフォ!』1期最終話の北宇治の本番演奏中に、次の出番の準備に奔走する他の〈学校〉の吹部員たちを一瞬だけ描くカットなどにも象徴されていると思う。

原作小説の『ユーフォ』シリーズのスピンオフである「立華」編の主人公、佐々木梓がアニメ『ユーフォ』本編にしばしば登場し、久美子と語らうのもこの観点に深く関わってくるだろう。


ここから無理やり、『ユーフォ』2期の感想に引き戻せば、顔も声もいっさい描かれない非-キャラクターとしての進藤正和の存在はやはり極めて重要かもしれない。本編中に姿をあらわさないことで、〈父の名〉=〈法〉として自身を確立し、アニメで/物語で描かれるすべて(=象徴界)を特権的に規定することができる。滝先生や久美子の父、あすかの母といった他の大人たちはその身を画面/物語に曝け出し「キャラクター」となるために子どもたちと同様に相対化されるが、進藤正和は違う。

彼が〈家庭〉=子育ての場とも〈学校〉時空間とも無縁の音楽家であること、そのうえで高校生の吹奏楽部全国コンクールの「審査員」として〈娘たち〉に審判を下す立場にあることなど、すべてが完璧といえば完璧である。やはり『ユーフォ』はよくできている!

進藤正和 “だけ” は違う、と言いたいところだが、もうひとり本編中で顔も声も描かれないままに物語の奥底から影響を及ぼし続けている重要人物がひとりいた。滝先生の亡き妻、滝千尋その人である(結婚前の旧姓がわからないので常にこう表記するしかないですが、それもめっちゃ嫌な感じですね~)。千尋は死によって文字通り特権的な立場にあるが、しかし彼女は同時に「快活だったが突然病床に伏して早世した悲劇の妻=女」としてもっとも客体化されている存在でもある。

……と、考えていたが、どうやらまだ見ぬ3期で顔が描かれてしまったようで……。


それをいえば、もっと「上」世代で物語の登場人物たちの生を規定しているのが滝先生の父である滝透だろう。北宇治高校吹奏楽部の黄金期を作り上げた、部活/学校そのものの〈父親〉でもある。『ユーフォ』という物語をもっとも俯瞰して総括すれば、それは滝透から黄前久美子へと、そのポジションが継承される〈父娘〉の話とも言えてしまう。

息子である滝先生(滝昇)は小さいとき父から直接の指導を拒んでおり、のちに父と全く同じ立場(北宇治の顧問)を受け継ぐことになるうえで、中間項として妻の千尋の存在(と死)を必要とした、というのも興味深いかもしれない。

部活の指導に付きっきりで家庭を顧みず、あげく「息子が全然懐いてくれない」と愚痴をこぼすなど、古き悪き家父長制の権化っぷりは進藤正和とも重なる。

北宇治の顧問となった久美子が(秀一と結婚して子を作ったとしたら)仕事と家庭の両立をどうするのか、という点が本編では語られない後日談として重要かもしれない。滝先生にしろあすか先輩にしろ久美子のお姉ちゃんにしろ、父/親との関係が拗れて人生が左右されている節はあるので、ここは子を作らないという現代的で倫理的な選択をするハッピー反生殖エンドということでひとつ……(いつもの)

再生産主義(出生主義)を前提とするヘテロ規範に対抗する同性(愛)関係が主題の物語でもあるため、そう(反出生エンドに)なる物語上の必然性はけっこうあると思う…… 父=滝透のポジションを2世代下まで継承しながらも、その過程で家父長制を撹乱して同性関係にも開いていくことを覚えた〈娘〉=女性主人公の物語──

この観点では、やはり「中間項」の滝千尋の存在も大切だし、彼女の同性関係……新山聡美との関係にも注目したい。ここら辺は未読の原作続編・スピンオフ短編集でより詳しく描写されているようだ。(新山先生もまた既婚である)

あと、子どもを作るかはともかくとして、異性の恋人(秀一でもそれ以外でも)と「結婚」するかどうか、という点もまた気になるんだけど、しかし2期11話のくみれいの例のやり取りによって既に婚姻規範は乗り越えられたともいえるので、逆に「(異性と)結婚しようとしまいとどうでもいい」というか、むしろ結婚してからが(それを相対化するための)本番、とすらいえる。不倫こそが真に倫理的な行為である、というクリシェ……

滝透と親交の深い、麗奈の父(名前がない?)もとうぜん同様に重要だろう。彼に至っては今のところ物語でほとんど言及されない。ここの2人の、男性芸術家(父親)どうしのホモソーシャルな関係は『ユーフォ』全体に嫌〜な雰囲気を纏わせている……





おわり

え~~~色々と否定的なことも書いていますが、それでもやっぱり『ユーフォ』は大傑作だなぁ~~~じぶんはこれが大好きだな~~~~と思いました。新たに見出せたその瑕疵も魅力もひっくるめて、観返す前から評価はまったく落ちていません。よかったね(よかったの?) まる

これでようやく3期を…………まだ観ることはできなくて、次は『リズと青い鳥』『誓いのフィナーレ』『アンサンブルコンテスト』の劇場版3作を見返して、感想を書こうと思いま~す!!





これまでの花田十輝脚本アニメの感想文

『よりもい』もそろそろ見返したいっすね……



これまでの京アニ作品の感想文

これまでのシリーズの作品とは少し異なる、「ファンディスク」としての位置付けで作られている面はあると思います。だからファンへの目配せ・営業のような要素が多かったのだと。それはシリーズが長く続くキャラコンテンツである限りある程度は仕方のない部分ですが、私はもともとユーフォをキャラコンテンツとして見ていなかったのだと思います。

『アンサンブルコンテスト』の感想noteのコメント欄で1年前にすでにこのようなことを書いていて、自己の一貫性があるな~~と思いました。自分にとって『ユーフォ』は、キャラコンテンツではなく、かなりちゃんとしているほうの「部活動」という生き物の在りようを描こうとしている作品であり、だからこそ大好きで大切なアニメーションのひとつなのだ、と。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?