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アニメ映画『かがみの孤城』(2022)感想


2023/10/8(日) Primeレンタルで視聴

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0BZK7LXGL/ref=atv_hm_wat_c_7de9kC_1_24

原作小説未読


いい作品だった・・・100%子供のために作られた、教育的な超優良アニメ映画。だから、もう子供ではないじぶんは、刺さりきらないというか、この良さを十全に受け取ることはできないところがあるかもしれないけれど、それでもなお、それでよいと、すばらしかったと言える。言いたくなる。そんな作品だった。

エンドロール最後の献辞、美術設定の中村隆さんって『心が叫びたがってるんだ。』や『空の青さを知る人よ』の美術監督でもあった人か……。ちょうどマリー作品を見返しているので、ほんとうにここらへんのアニメの背景美術は大好きだと強く言えます。もちろん、この映画の美術も。ありがとうございました。


映像もストーリーも完成度がすごかったな。ぶっ飛んだ凄さではなく、本当に丁寧に完璧に作られている。「児童文学」をここまで完遂するか……と惚れ惚れした。そもそも原作のおはなしがすごいまとまりの良さ。いくつもの謎や伏線がきれいに回収される隙のない構造には、ごく個人的には勿体なさ/合わなさを感じる面もあるけれど、そんなことはどうだっていいと言ってしまいたくなる。だって児童文学だから。丁寧すぎるほどにあまりにもちゃんと言葉と絵面で説明して、観る子供を誰ひとりとして置いてけぼりにしないぞ、という気概を感じる。ふつうの映画/アニメならげんなりするけど、児童文学だからそれでいい。

そして画面・映像のクオリティよ。原恵一さん本当に流石。全編を通じて派手なアクションシーンはほとんどなく、ひたすらに静かで抑制的なシーンが続く。その日常的な芝居をこそ魅せていく。『アッパレ!戦国大合戦』でも感じたような、繊細な作画が見ていてとても心地よかった。序盤のオオカミ様にこころが引きずられていくシーンとか。

あとそもそもキャラデザがもっっっのすごく好みだった。キャラデザ・総作画監督の佐々木啓悟さん覚えておきます。レイアウト・撮影のかんじも、A-1 Picturesらしくてほんと好き。実家のような心地よさ。『あの花』から深夜アニメに入ったので、A-1の画面には本当に居心地の良さを覚える。

原恵一さんということで、終盤の階段を登る/走るくだりとか、〈未来へ行く〉子供へのエールを描くところとか、『オトナ帝国』を連想してしまいますね。あとは、マサムネのために頑張って久しぶりに登校するも、誰も(そもそも)いないらしいことが明らかになり、なぜか喜多嶋先生が現れ意識が……というシーンや、真田さん達クラスの女子が家まで突撃してくるトラウマパートなどのサイコサスペンス/ホラーじみた描写も原監督らしく芯から恐ろしかった。


「時間のズレ」というどんでん返しのギミックがこうして大衆エンタメ作品で頻繁に用いられるようになったのって、いつ頃からだろう。BTTFのようなタイムリープSFとはちょっと違うんだよな。やっぱり『君の名は。』(2016)がひとつの転換点か。原作の小説が2017年なので……。終盤にかけてかなり『すずめの戸締まり』っぽさもあったし。子供と大人の自分同士で励ます形ではないけれど、こころとアキ(喜多嶋先生)の関係はズレた時間のなかで円環を閉じる互助/自助の感動的な関係として、かなりすずめっぽい。

途中まで、あまりにフリースクールの喜多嶋先生が出来過ぎた良いオトナで、その都合の良さにモヤっていた(現実にもこんな人ばっかりだったら苦労はしねぇよ!)が、最終的には喜多嶋先生もまたかがみの孤城の子供たちのなかに取り込まれ(ていたことが発覚し)て、シナリオうっま~~ってなった。これは逆にいえば、かがみの孤城という特別な経験をできた子供たちしか救われないし、不登校などの子供への真の理解はできない……というような、ある種の閉鎖的で選民的な態度にも思えるが、だからこそ「かがみの孤城」は、誰にでも訪れる可能性があるものとしての普遍性を強調しなければならない。子供にとって、児童文学はいつだって「特別な体験」なのだ。それを読んでいるあいだは他の夢のような世界に行ける。この映画だって、多くの子供にとってのかけがえのない体験になるのであろうなぁと考えただけで涙が出てくる・・・。


あと、時間のズレによる世代間の交流を描くにあたって、親子関係は持ち込まない点がとても現代的だと思った。(そこがマリーとは違うところ。) もちろん本作でも(母)親との関係はある程度しっかり描かれるわけだけれど、最終的に自分を救うのは自分自身か、自分がかつて/未来で救ったひとだけである。そうしてすべては自分の人生(物語)という円環のなかに閉じていく。生殖による次代再生産を前提としないし、良好な親子関係による和解にも頼らない。とはいえ、父親の描写が希薄すぎるのは気になった。家庭でのケアを母親に一任するな。


自室の鏡から不思議な世界へ行ける。エンデやキャロルのような古典的な児童文学ファンタジーの立て付けに思えるが、「行きて帰りし物語」ではなく、かがみの孤城は日常的に行って帰ってこれる、それこそ学校やフリースクールのオルタナティブとしての秘密基地的な居場所(セキュアベース)であるところが重要だろう。9時から17時までしか居てはならない、という健全すぎる設定に笑っちゃった。教育的すぎるだろ。さすが文科省後援アニメ。(しかしこの辺も、孤城の主の正体が明らかになることで内在的に整合性が取れるようになる……ほんと、とことん隙のないプロットだこと!)

とにかく徹底的に児童にオススメできる安心安全優良の映画だったので、終盤のみんなの過去のトラウマ羅列シーンで、アキの(義)父による性的虐待をあそこまでがっつり描いたのには、大丈夫なのかとヒヤヒヤはした。しかし、そこも含めて児童への大切な「教育」ではあるか。というか、こころの父親の存在が希薄だったのは、〈父〉=オオカミが子供を抑圧する悪であるトーンを一貫させるため、なのかな。それならバリバリ古典的な父権性の話だということになるが、安直に〈母〉を救いにしなかったのは偉いよ。ただ、まじめに因果関係を追っていくと、もしかしてあのクソ義父から物語が始まっている節があり、アキの義父の性的虐待が巡り巡ってアキをフリースクールのカウンセラーにさせて、こころを救うことになる……という最悪の因果が見えそうになる。まぁ実際にはもっと関係は込み入っているからセーフではあるか。

あと、性的/生殖的な含意としては、異性愛主義の強さはやや瑕疵だといえるだろう。ウレシノとフウカ、そしてこころとリオン。そもそもリオンが超絶完璧イケメン好青年すぎてギョッとしてしまう(そんなとこまで児童女子に夢を見せるのか……)のだけれど、ストーリーとしても最終的にこの2人だけがある事情で同時代人だということになり、ふたりは幸せに登校して終了──。。落としどころそこで本当に良かったの!?と思わないでもない。リオン視点では、姉との関係を清算して同い年の異性の同級生という「健全」な対象に乗り換えているとも読めるので、果たして良いのか悪いのか……。


『あの花』然り『おおかみこども』然り、不登校の子が登場するアニメには弱い・・・。頑張って登校しようとしたり、他の道を探そうとしたり、彼女らが必死に何かするだけで泣いてしまう。

ただし、不登校キャラのなかでもより細かい好みはある。『かがみの孤城』では基本的に中学校でいじめ被害にあった子が不登校になってしまう。しかし『あの花』のじんたんは単に自分の高校受験失敗という挫折(および小学生時代のトラウマ)からこじらせて、自尊心を持て余した末に不登校になる。また『おおかみこども』の雨くんは、単に人間ではなく狼の生き方に惹かれる(学校は自分のいるべき場所ではない)からという理由で小学校を不登校になる。つまりじんたんも雨も、こころ達のような明確な被害者ではない。どちらかといえばごく個人的な自我・自分の生き方として不登校を選んでいるし、なんなら周りを見下している節すらある。わたしが特に惹かれるのはそういう不登校キャラである(なぜなら自分は「被害者」ではないので)。



かがみの孤城とはなにか考えるうえで、「靴」は大事なモチーフだと思った。
鏡が割れてほかの6人がオオカミに食べられてしまったとき、こころは部屋で靴を履いて(鏡の破片を足でどかして)からかがみの孤城に入っていく。ここで "靴を履く" 動作がしっかり描かれることは孤城と彼女たちの生を考えるうえで重要だ。そもそも孤城に通じる鏡は基本的に自室にあるので、最初に孤城を訪れたときは誰も靴を履いていない。しかし、それ以降はみんな靴を履いて孤城で過ごしている。こころが靴を手に持って鏡をくぐり抜け、孤城で靴を履くカットがちゃんとある。

子供たち──とりわけ不登校の子供たちにとって「靴を履く」とはどういうことだろう。それは外に出る行為の象徴であり、「更生」への第一歩である。かがみの孤城は絶海の孤島であり、どこにも繋がっていないが、あの孤城そのものが「外」なのだ。先ほど孤城は彼女たち不登校児にとっての秘密基地のようなものだ、と書いたが、それを踏まえれば、かがみの孤城はこころ達にとって安心できる「内側」でもありながら、ちょっとだけ「外側」の世界でもあるという両義的な性質を帯びた空間である。秘密基地とは外にあって内=家(うち)である空間であり、だから子供たちは秘密基地を作る。こころ達は靴を履いてかがみの孤城へと向かうたびに、学校へ通うというトラウマを少しずつ解消していく。リハビリだとは自覚されないリハビリ行為であったのだ。

物語中盤に、こころと母親が喜多嶋先生とショッピングモールのフードコートで落ち合うシーンがある。「たまにはこういうところもいいんじゃないかなと思って。しんどかったら言って?」と喜多嶋先生が優しく言うように、ここでショッピングモールとはこころが外の世界に馴れるための公共的な空間として物語に登場している。大山顕『モールの想像力』などに詳しいが、ショッピングモールとは屋内でありながら室外のような空間である。内側と外側が反転した空間とも言い換えられる。靴を履いて、屋内でも屋外でもあるような世界へとリハビリ的に訪れる。──これはまさにかがみの孤城と同じことがわかるだろう。ここでショッピングモールはかがみの孤城の現実世界での対応物(隠喩)として機能しているのである。

一見居心地のよさそうに思えるかがみの孤城には、ビデオゲームをするための電気も、風呂や調理のための水も通っていない。そのこともまた、孤城の「家であり家ではない」ような両義的な空間性を象徴する。恒常的な生活の場ではないのである。そもそも「5時になったら帰らなければいけない」ところなんて、子供たちにとっての100%理想的な空間であるはずがない。かがみの孤城とは、学校に居場所がない子供たちの逃避先でありながら、完全には逃避させてくれない。ほどよく不便である。そんな微妙な位相の空間に馴染んでゆくことが、彼女たちの傷を真に癒し、大人にしてゆく。

かがみ孤城のなかで、ひとつだけ願いを叶えられるという鍵をみんなで探す、という設定もここで効いてくる。もしかがみの孤城がこころ達自身が作った秘密基地なのであれば、そもそも「探す」という行為は成立しない。この意味で、あそこは彼女たちの秘密基地ではない。彼女たちも知らない秘密(が隠された)基地なのである。知らないことがある空間、それはつまり外の世界の言い換えに他ならない。日々、みんなで鍵を探して城のなかを探検し、物を動かし、開け、這いつくばって下の隙間に目を凝らし……という行為のなかで、彼女たちは、未知だった空間を次第に「知っている」空間──居場所──へと作り替えていく。こころ達はもう、学校にだって居場所を見つけられるだろう。日常に溶け込んだかがみの孤城で1年間みっちり練習を積んだのだから。

とするならば、終盤でアキが〈ルール〉を破ってしまったこともまた、一段と深く理解することができるだろう。7人のなかで彼女だけが、学校だけでなく、家にも居場所を失ってしまった子供なのだから。アキにとっては家でさえも「外の世界」なのだ。だからアキはかがみの孤城──の、自分の部屋の、さらにクローゼットの中という、何重にも「「内側」」の世界にしか居場所がないと思ってしまった。世界の絶対的な外側──死──に行くことを願ってしまった。

何重もの覆いに深く閉じこもってしまった(閉じこもらざるをえなかった)アキを救うために、こころは階段を登り柱時計の中に入り、鍵を開けて扉をくぐり、さらに無数の透明な壁を通り抜けてゆく。世界の外側という内側、内側という外側へと。

アキの手を取ったこころを、他の5人が引っ張って、さながら童話「大きなカブ」の様相を呈することすら感動的だ。なぜなら「大きなカブ」とは、小学1年生の1学期に国語の授業で習う物語であるから。中学校に通えなくなった彼女たちが、まだ「学校」で幸せに過ごせていたときに学んだ物語なのだから。

学校(や家)に居場所を失った子供たちが、いかにして再び外の世界に居場所をつくれるようになるか。そのリハビリの過程を、大人が本気で子供に向き合って丹念に描いたのが『かがみの孤城』なのだ。

あるいは、そんな子供たちのための空間をつくった張本人が、大人になることが叶わなかった子供、であることもまた、深く感じ入らざるをえない。





こころの学校での唯一の友達、東条萌さんについてはなにか掘り下げたいのだがなかなか難しい。父親が大学教授で児童文学を研究している、という設定は「狼と七匹の子山羊」要素を置いてもなお重要だろう。自分はオオカミ様の正体が東条さんだと終盤まで予想していたのもある。「児童文学」そのものをひとつメタな立ち位置からまなざす存在として。
しかし久しぶりに登校したこころを靴箱のところでガン無視するシーンはこわかった……。いくら咄嗟に庇おうとしてのこととはいえ、あれだけ平然とスルーできるのはちょっと才能がありすぎる。和解シーンもやけにあっさりでようわからんし。いじめ加害者を将来まで見据えてくさす東条さんは、こころにとって友達なだけでなく「大人」であろう。しかし大学教授の子ならあれだけ大人びて達観した中学生に設計しても大丈夫、ということなのだろうか。いやはや……

原恵一監督つながりで、『オトナ帝国』(2001)との比較をもう少ししたい。『オトナ帝国』では、「大人/子供」という二項対立が、「20世紀/21世紀」あるいは「昭和/平成」という時代的な二項対立に重ね合わされていた。大人は古き良き過去にしがみつくが、そうしたノスタルジーは最終的にしんのすけ(子供)の「オラだって大人になりたい」という未来ある一言によって砕け散る。つまりここには不可逆な歴史性を前提とした新時代への意志があった。そういう話を、21世紀の最初の年につくってアニメ史に名を刻んだのが原恵一という人だった。
たほう『かがみの孤城』(2022)では、メインキャラ7人の「今」が7年ずつズレていて、1985年から2027年にかけての幅がある。『オトナ帝国』ではあんなに隔たって不可逆なものとして描かれていた20世紀(昭和)と21世紀(平成/令和)が、等しく「現在」として並び立って交流しているのである。そこには過去へのノスタルジーも新時代への期待もない。言い換えれば、子供から大人へ、という個人的な成長譚が、歴史のアナロジーで捉えられてはいない。いつの時代だって、子供は生きて大人になりたいと願う(ものであってほしい)のだ。『オトナ帝国』をつくった人物だからこそ、20年後にこのような物語をつくったことの意味を立ち止まって考えてしまう。

じぶんの『オトナ帝国』の感想はこちら↑ noteに投稿してなかったっけ?


『かがみの孤城』は岡田麿里作品にも色々と通ずるところがある。中村隆さんの美術(『ここさけ』『空青』)もそうだし、不登校児の『あの花』もそうだし、そもそも「外の世界」というテーマが秩父三部作や他の全てのマリー作品に通底する重要なオブセッションであることは、自伝『学校に行けなかったわたしが「あの花」「ここさけ」を書くまで』にも明確に書かれている。しかし、マリー作品が特異なのは、けっして本作のようにリハビリを積んで「外の世界」へと再帰して一件落着、という単純な構造にはなっていないところだ。最新作『アリスとテレスのまぼろし工場』では外の世界へと戻れる可能性が設定から断たれているし、『空青』に代表されるように、「外の世界」を希求しつつ今ここに生きている私、という実存的な問題へと踏み込んでいく傾向にある。その土着的で地に足のついた地縁性ゆえに、親子関係や性愛/生殖という生々しい要素をも果敢に取り込んでいかざるをえないのかもしれない。だから必然的にマリー作品は『かがみの孤城』とは違って児童に安心して見せられる教育的に優良なものにはなりえず、興行的にも振るわない・・・ってコト!?





『かがみの孤城』と『まぼろし工場』、いろいろ勘案した結果たぶんちょうど同じくらい好きです。


『かがみの孤城』の相互互助は『すずめの戸締まり』の自助とかなり近しいという意味でどちらも「現代的」だなぁと思うの。


ショッピングモール映画/アニメの最高傑作


原恵一の繊細な日常動作の芝居が光る。


2022年公開の子供たちを主役にしたアニメ映画として、この2作ともけっこう関連付けて語れる気はします。わたしはどれも好きです。子供に弱い


中村隆さんの素晴らしい美術。『まぼろし工場』3回目のまえに観返しました。『ここさけ』も観返します!



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