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ショートショート 「暗い客」

「こんばんは。どちらまで?」

「芝浦ふ頭の方までお願いします」

ボロボロの服を着た、疲れ切った様子の男は私にそう告げた。

時刻はAM2:00。こんな時間に埠頭に?

少し不審に思ったが、あまり乗客の事を深掘りするのも良くないだろう。何も聞かずにタクシーを発進させた。

「大変ですねこんな時間まで。仕事終わりですか?」

男は何も答えず、虚ろな目で外を見ていた。

疲れているのだろう。私はそれ以上話しかけなかった。


無言のまましばらく時間が経ち、赤信号で車を止めた。

東京でも、深夜は驚くほど人が少ない。日中とはまるで違う。自分だけ、現実と切り離された世界にいるようで、心地が良い。

「死後の世界ってこんな感じなんですかね」

今までほぼ無言だった男が、突然ボソッと呟いた。

「そうだったらいいですね」

男の不気味な呟きに、多少困惑しながら、私は答えた。


車は新橋に入った。新橋は、こんな時間でもまだ人が沢山いる。

現実の世界に、急に戻された感覚がした。

「死んだ後もこんな世界だったら、忙しくて溜まったもんじゃ無いですね」

私は冗談交じりに言った。男のさっきの呟きで、重くなった車内の空気に、耐えられなかった。

「ははは。確かに。僕はもう少し静かな場所が好きだな。」

「私もです。気が合いますね。」

男の目は虚ろなままだった。


芝浦ふ頭に近づいてくると、パトカーが一台止まっていた。

そのパトカーを見て、先週見たニュースを、ふと思い出した。

この周辺で水死体が見つかったというニュースだ。

真相はまだ明らかにされていないが、事件性は低く、自殺の可能性が高いという。

嫌な予感がした。もしかしたら、この男も…

「お客さん、ところでどうしてこんな夜中に埠頭まで?」

最初に聞こうとしてやめた質問を、男に投げかけた。

「家がこの辺りなんですよ」

男の答えが嘘だとすぐに分かった。

この辺りは中心街では無いが、それでもまだ港区内で、家賃はかなり高い。

とてもじゃないが、こんなボロボロな身なりの男が住めるような場所が、この辺りにあるとは到底考え難い。

「お客さん、死ぬ気じゃないでしょうね」

「ちょっと何言ってるんですか。違いますよ、まさか。」

「それなら、いいんですけどね」

男は否定したが、本当は自殺するつもりなのだろう。私はそう感じた。

私のカンは、悪いことに関しては、よく当たるのだ。

ただ、男が否定した以上、これ以上深入りするつもりは無い。

彼には彼の人生があり、私には私の人生がある。

彼の決断に、ついさっき会ったばかりの私が口を挟む余地は無い。

「もうそろそろ着きますよ、お代は結構です。」


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「朝のニュースです。昨晩未明、芝浦ふ頭にてタクシー1台が海に転落したとの通報が入りました。救助活動が行われたものの、乗っていた二人はすでに死亡。後部座席の窓は破られ、脱出を図った痕跡がありますが、助手席のダッシュボードからは、遺書が見つかっておりーーーー」






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