喜と楽が追いつかない
先日、日テレ系の深夜番組『おかえり、こっち側の集い』を観た。
今回のゲストに滝沢カレンさんと笠松将さんが出演されており、当番組で一番共感した回だった。
なかでも滝沢さんの
に、めちゃくちゃ共感した。
それは、僕自身「喜と楽が他者に追いつかないこと」に悩んでいたからである。
喜怒哀楽の「喜」と「楽」が明らかに足りていない。
東京ディズニーランドが40周年を迎えたらしい。
今年の夏は、Instagramでたくさんの東京ディズニーランドを見た。
それを見た僕は、一度は行ってみたいなと思うものの
「何これヤバイ!楽しそー!めっちゃ行きたい!」
とはならないのである。死んだ目をしながらこんな事やっているんだと観察している感じで。
もちろん、投稿者の皆様に「お楽しみのおすそわけ」をもらっているのにも関わらず、こんな態度であるのは申し訳ないと思っているんです。
それでも、僕が東京ディズニーランドに行ったとして、楽しめるという自信が無い(クラッシュのやつはマジで行きたいとは思っている)。
「ヘーパレードスゲー。ヒトオオイナー。コンナカンジナンダー。」
そう言いながら、いつもの格好で、平日の感覚で、うろちょろしているに違いない。
もちろん、楽しんでいる人たちを見て羨ましいなあと陰で指をくわえて見てはいるんです。東京ディズニーランド中にあふれている喜と楽に、僕は追いつくことができない。
滝沢さんもテーマパークにいる自分を客観的に見て楽しめないとおっしゃっていて、少しばかり似ているなと思った。それを見ていながら、着ぐるみを着れば楽しめるんじゃないか!と思いつく。着ぐるみを着れば、そこにいる僕は僕じゃない。着ぐるみだ!と。
着ぐるみになれば、してみたいボケもたくさんできるだろうし、人目を気にせず「着ぐるみの世界観」に浸ることができる。最近、ひつじのショーンの着ぐるみが欲しいと思ったこともあった。隠れながらではあるものの、それを着た僕と、ツッコミをしてくれる誰かで漫才のネタを考えていたほどだ。そういえば『ぼっち・ざ・ろっく!』のひとりも完熟マンゴーの段ボールがあれば大丈夫的なこと言っていたな…笑。
それくらい着ぐるみを着れば何とかなるという自信がある。
他にも、僕は一定時間無敵になることがあった。
それはお酒を飲みすぎて酔っぱらっている時。僕は僕じゃなくなる。
いろんな人と平気でしゃべれるようになる。その時は大概記憶がなくなっているんだけど、次の日に目が覚めて、昨日の僕すごかったなと思い返す(断片的な記憶で)。
ノーマル僕じゃ、社会の喜と楽に追いつけないのだろうか。
この悩みのせいで、つまずくことも多々あった。
何かをもらった時や何かをされた側が向いていないと感じることが多い。
何かをしてきた人に対して、その人が返してほしい量の喜びを僕は返せる自信がない。
東京にいる親友は、目に見てわかるすげーいい笑顔ができる。
彼の誕生日の写真を見たとき、彼は満面の笑みで喜びを爆発させていた。この喜び爆弾で日々の煩悩と苦痛を破壊してくれるんじゃないかというぐらいに。その笑顔を一生かけて守りたいぐらいに(親友がここを読んでいたらキショ!と言いながら笑うんだろうなーというキショい妄想を添えておく)。
そもそも「できる」っていう言い方がよろしくない。笑顔の才能が彼にはある。またまた嫉妬があふれ出す。
僕はこんな風に喜びを返したい。せめて、頂いた量に相当する喜びだけでもと。
3回目(詳細:東京メモワール)以前の旅行の時も、喜と楽が追いついていなかった。いや、ズレていた。
言いたくないことなんですが。
トヨタ産業技術記念館に行ったとき、友達に「楽しんでいるのかわからない」「自分が行きたいって言っていたのに、どこかついてきたという感じがする」みたいなことを言われたことがある。
その場では、美術館や博物館は自分の心と向き合ってしんみり楽しむんだよ!って思っていた。友人との間で喜と楽にズレが生じている。1年も前のことなのに、僕はなんて心の小さい人なんだと今でも引きずっている。僕の「行きたい!ワールド」に引き込めるぐらいの熱量が無かったことを猛省しろ!と反省し続けている。
もちろん他にもある。高校の同級生と富士山の麓でグランピングしに行った時のこともそうだった。
正直、僕は旅行をしなれてない。これは言い訳かもしれないが、旅行をしまくれば、いずれ喜びや楽しさが追いついてくると思っている。しかし、他にしたいことがたくさんあるし、お金に限りがある。だからこそ、社会人になって稼いだお金は旅行に投資すると決めている。それまでの辛抱っていうことで。
そもそも何でこんな人間になってしまったんだ!と過去を振り返る。
僕は小学生の頃。あほみたいにおしゃべりで明るくて泣き虫で元気な子だったはずだ。
だけど、僕の中には自分という芯が無い。それに加え「他人の目があるから」が刷り込まれ、常に他人軸で物事を考えるようになったからなのかもしれない。
「自分なんかがすみません」の熟成が完了してしまった。
自分を無意識に制限し、それが慣れてしまい、それが通常運転となってしまった。
その制限によって、喜と楽の価値観が足りていないのだ。
イヤフォンから流れる音楽が、Creepy Nutsの『たりないふたり』から『のびしろ』に変わる。なんてタイミングがよろしいことで。価値観が足りていないからこそ、喜と楽を覚えることが多い。そのほかにももっともっと。のびしろしかないわ。
いつか、ディズニーが大好きで、ディズニーランドの楽しみ方を知っているプロな彼女と一緒に、ディズニーデートとやらをしてみたい。それなら楽しそうだなぁ。
そういうキモイ妄想だけを、堂々と人前で書けてしまうのはなぁぜ、なぁぜ?