自己紹介⑨NPOを退職し実家を出る話。フラッシュバック、両親との大喧嘩、親戚から「監視するから住所を教えろ」と言われたことなど

私のnoteを見てくださりありがとうございます。
木塚めぐると申します。
今回の内容は、この記事の2017/3→2017/6に該当します。
ぜひこちらもご覧ください。

NPO法人を退職後、私はフラッシュバックに苦しんでいました。
劣悪な労働環境で皆ストレスが溜まっていたからとはいえ、浴びせられた罵詈雑言や心ない仕打ちなど、
当時の記憶が頭の中を駆け巡り、私を苦しめていました。

「俺はダメな人間だ」
当時の記憶が思い浮かぶたびに、自分を責めました。
今思うと、この時点で精神科に行って診断してもらえればよかったのですが、当時の自分はその選択肢がありませんでした。
溢れてくる記憶を抑え込み、ぐっと我慢していました。

我慢に我慢を重ね、ついに限界を迎えてしまいました。
苦しみがピークに達した私は、あろうことか、自身の苦しみの原因を両親に転換してしまいました。
「俺がこんな目に遭っているのは自身の経験が少なかったからだ。経験が多ければ、そもそもあんな職場に入らなかったし、あんな目にあっても上手く立ち回れた。自身の経験が少ないのは、今まで一回も家から出して自立させてくれなかった両親のせいだ!」
今でこそ、なんて支離滅裂で自分勝手な考えだと思っていますが、当時は本気でそのように思っていました。

恥ずかしい話なのですが、当時26歳の私はこれまでに一度も実家を出て暮らしたことがありませんでした。
大学生の頃、実家を出て一人暮らししている友人を羨ましく思い、
その気持ちを何度か両親に伝えたのですが「お前には出来ない。家から出さない。」と、伝えるたびに否定されました。
実家を出て暮らせるのは特別な人間で、僕には無縁な話なのだと、
諦めたくても諦められない気持ちをずっと心の中に閉じ込めていました。

フラッシュバックから解放されたい気持ちと、実家を出て自立したい気持ち。
この二つの気持ちが爆発し、私は両親と大喧嘩しました。
両親は相変わらず、否定の言葉を投げかけました。
しかし私は、負けませんでした。
自分の意見を通すため、食卓の椅子を投げつけたこともありました。
今思うとこれは、遅れた反抗期だったのかなと思います。
我慢は美徳だと教え込まれ、どんなに否定されても我慢し、ずっと抑え込み我慢していた26年間の気持ちが、フラッシュバックで感情的になっていたのも相まって、とうとう爆発したのかなと思います。
暴れている私を見かねたか、とうとう両親は私に「YES」の返事をしました。
26年生きて、こんなに強引に両親に意見を通したのは初めてでした。

家を出るのが決まった時、母と祖母は泣き、父は口を縛り下に俯いていました。
今でこそ、次の仕事も決まってないのに、突発的に家を出ると言ったので、家族に大きな心配をかけてしまい申し訳ないなと思っています。
しかし、当時の心境はこうでした。
「今時10代の女の子だって引っ越して親元を離れて暮らしている。20過ぎた男が引っ越すくらいどうってことないだろ!悲しんでるんじゃねえよ!」
当時はとにかく、家族に強く当たっていました。

家を出るにあたり、その旨をいろいろとお世話になっている父側の親戚に連絡しました。
その親戚から言われたのは、衝撃的な一言でした。
「監視するから、住所を教えろ。」

私はそのように言われて、憤りの気持ちが込み上げてきました。
一族の異常性に嫌悪し、縁を切って、二度とここには帰らないと、強い気持ちを胸に実家を出たのでした。

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