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【いざ鎌倉:コラム】頼朝没後の鎌倉幕府

今回も本編はおやすみで番外編です。
本編第9回の「英雄の最期 源頼朝薨去」で第1章は終わりです。

これまで幕府については源頼朝を中心に記述してきましたので、ここで第2章を書く前に頼朝薨去時点の幕府の体制や派閥を確認したいと思います。
なので番外編ですが、第2章のプロローグ的な位置づけです。

乳母・乳母夫という存在

これまでも解説しようと思いつつ、放置してきてしまった、「乳母」「乳母夫」という存在についてここで解説しておきましょう。
頼朝死後の鎌倉幕府を理解する上で必須になるので、丁度いい機会ではあります。

まず、「乳母」ですが、これは何となくわかると思います。
昔は母乳の代用品がないため、母親の母乳の出の悪さは赤子の命の危機に直結しましたので、高貴な身分では母に代わって乳を与えられる乳母を雇いました。
いつしか、乳離れした後も母親に代わって養育に当たる女性も乳母と呼ばれるようになります。

で、「乳母夫」ですが、こちらはざっくり分けて2つのケースがあります。
1つは文字のとおり「乳母の夫」で、乳母と夫妻で貴人の子の養育にあたるケース
もう1つは妻が必ずしも「乳母」ではないが、養育係を任されるケース。この場合、「乳母」と「乳母夫」は夫婦ではないということになります。
役割は養育を担当する「乳母」だけど、性別が男性だから「乳母夫」と文字では表現されると考えれば良いでしょう。

いずれのケースでも「乳母夫」は成人となった後も貴人を後見人として支える有力な側近であり、その周囲に巨大な派閥を形成することが多くありました。
参考までに平安末期~鎌倉初期の天皇とその乳母夫を一部並べると下記のようになります。

後白河天皇―信西(藤原通憲)
二条天皇―平清盛
高倉天皇―平重盛
後鳥羽天皇―源通親

その時々の政界の実力者が天皇の乳母夫であることがわかると思います。
同時に、鎌倉を本拠とし、朝廷と距離を置いた源頼朝は、天皇の乳母夫になっておらず、従来の朝廷の政治の枠の外にいたこともわかりますね。

そして、乳母と乳母夫は天皇だけではなく、鎌倉の頼朝の子、つまりは将軍の後継者候補にも置かれていて、これが頼朝死後の内部抗争の枠をつくっていくことになります。


源頼家の側近集団 

頼朝の嫡男・源頼家を支える側近グループの中心が武蔵国比企郡の豪族・比企氏です。

比企氏は頼朝の乳母で比企尼と呼ばれる女性の嫁ぎ先です。
比企尼は夫である比企遠宗とともに京から武蔵へと下向し、流人時代の頼朝に20年間仕送りを続け、生活を支えたと言われます。
このことから比企氏は頼朝から絶大の信頼を得ていました。

寿永元(1182)年、頼朝は嫡男・頼家が生まれると比企尼の次女・河越尼を乳母とし、比企尼の甥・比企能員、次いで比企尼三女の夫で信濃源氏の平賀義信を乳母夫とします。
頼家は比企氏の邸宅で生まれ育ちます。
なお、平賀義信は、頼朝が流罪になる前の平治の乱からともに平家と戦った歴戦の盟友で、幕府の中では源氏一門の筆頭の立場にいました。

建久9(1198)年、比企能員の娘・若狭局が頼家の嫡男・一幡を生みます。
これにより頼家の乳母・乳母夫、嫡男の外祖父は全て比企氏の関係者となりました。

なお、頼朝の死と前後して、おそらくは高齢を理由に、乳母夫は平賀義信から侍所別当の幕府重臣・梶原景時に交代します。

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梶原景時-歌川国貞(三代目豊國)の浮世絵

梶原景時は比企氏の縁者ではありませんでしたが、頼朝・頼家父子の信任厚く、頼家を忠実に支える御家人でした。
この比企氏に、梶原景時が加わったグループ、これが頼家の支持勢力となっていきます。
ここに北条氏が加わっていないことが、幕府の内部抗争の火種となっていきます。


頼家政権から外された反主流派

比企氏を中枢とする頼家政権の主流派から外れる立場の御家人たちは、千幡(後の実朝)と亡き頼朝の室・政子を中心に派閥を形成していくことになります。

千幡の乳母は阿波局という女性で、北条時政の娘で政子の妹でした。
乳母夫は阿波局の夫・阿野全成。全成は源頼朝の異母弟にして源義経の同母兄です。
乳母夫が源氏一門の重鎮というのは頼家と同じです。

兄・頼家は比企氏邸宅で養育され、弟・千幡は北条氏邸宅で養育される。
同じ政子を母とする兄弟でありながら、この養育環境の違いにより、それぞれの周囲で派閥を生みます。
北条氏と婚姻で繋がる三浦義村、侍所別当職を梶原景時に奪われた和田義盛といった御家人たちが、北条氏とともに反主流派を形成します。

こうして頼朝死後の幕府は比企氏vs北条氏の対立を軸として内部抗争へと突入していくことになります。


北条氏の抱える家庭問題

頼朝は死後の体制を十分に構築することなくこの世を去りましたが、比企氏と北条氏の協力が将来の幕府には必要だという考えはあったはずで、建久3(1192)年、時政の息子・北条義時と比企朝宗の娘・姫の前の婚姻を取り持っています。
比企氏と北条氏の仲を結びつける手は打っていたのです。

ただ、北条氏の中にも問題がありました。
北条時政の正室は牧の方という平清盛の継母・池禅尼の実家である牧氏出身の女性でした。
親子ほど年の離れた妻だったようで、牧の方は時政にとって後妻
先妻の子である政子・義時と仲は良くなかったとされます。
政子・義時にとって時政・牧の方は
若い女に入れ込んだクソオヤジとクソヨメ
でした。
現代社会にもありそうな家庭問題を抱えていたのです。

時政は生前の頼朝に亀の前という側室を紹介し、政子とトラブったことがありました。
娘の旦那に愛人を紹介するという父の所業にキレた政子は、牧の方の父・牧宗親に命じて亀の前の屋敷を打ち壊しています。
これに今度は頼朝がキレて、牧宗親を御家人の面前で罵倒し、髷を切り落とすという辱めを与えます
側室を紹介したら、最愛の妻・牧の方の父宗親が処罰されるという結果に終わった時政は面子を潰され、鎌倉を退去して伊豆に引きこもる(ストライキ)という行動に出ました。
これは寿永元(1182)年のこと。
この事件以降、時政は幕府内で親族と扱われつつも重要なポストは与えられず、頼朝から干され続けることになります。
なお、義時は父・時政の伊豆退去に同行せず、頼朝に信頼されることになりました。
「クソオヤジとクソヨメ」には付き合っていられないということでしょう。

また、義時は頼朝死去の時点で最も年長の時政の男子でしたが、嫡男扱いされていませんでした。
時政が嫡男として扱ったのは、北条政範
溺愛する牧の方との間の唯一の男子です。
時政はとにかく年の離れた後妻・牧の方が第一です。
先妻の子の義時は分家の江間氏の当主として扱われていました。
これは幕府の史書『吾妻鑑』で義時が「江間小四郎」と表記されることが多いことからも明らかです。
義時が嫡子として扱われていない以上、義時と比企氏の婚姻は、すんなりと北条氏と比企氏の全面的な協力関係とはなりません。
ここに両家の仲を取り持った頼朝の誤算がありました。

ただ、北条氏は微妙な親子間の対立を抱えつつも、共通の政敵である比企氏と対峙するために共同歩調を取らざるをえなくなります。
一族でありながら、血縁よりも利害によって結びつく奇妙な関係がここに成立します。

次回予告

次回は本編に戻ります。
頼朝死後の幕府を追っていきましょう。

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