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【いざ鎌倉(7)】源頼朝5年ぶりの上洛

建久4~5(1193-1194)年は鎌倉幕府にとって政変の年でした。
源氏一門の重鎮だった弟・源範頼と甲斐源氏・安田義定を排除し、建久6年、源頼朝は5年ぶりに京へ向かうことになります。

意図してかせざるか、源範頼は三河守、安田義定は遠江守、鎌倉から京へ向かう途上の東海道に強い影響力を持つ2人を排除した上での上洛となりました。


東大寺大仏殿の再建

建久6(1195年)2月14日、源頼朝は多数の御家人を従え、鎌倉を出発します。
流人となって京を離れてから2度目、5年ぶりの上洛でした。
前回の上洛との大きな違いは、御台所の北条政子、嫡子・源頼家、娘の大姫が同行したことです。
3月4日、頼朝一行は京へ入ります。

頼朝の建久6年の上洛の目的は、焼失していた東大寺大仏殿の再建供養に列席するためでした。
治承4(1180)年、平家による南都焼き討ちにより、東大寺の大仏(いわゆる奈良の大仏)と大仏殿にも甚大な被害が生じました。
三種の神器は持ち去られ、大仏は燃え落ちる。
当時、国家は、天皇による世俗の政治である王法と、仏の教えである仏法の2つによって支えられていると考えられていましたから、これは国家の一大事でした。
三種の神器奪還と大仏再建は後白河院にとって、どちらも極めて重大な課題となります。

後白河院は、再興を進める責任者となる大勧進に僧・重源を任命し、重源は資金集めに奔走することになります。
重源の求めに応じ、源頼朝もスポンサーとなり協力しています。

重源は、像が国宝になって歴史教科書にも載っている僧です。

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重源上人坐像(東大寺蔵)

文治元(1185)年に大仏の修復は完了し、後白河院直々に筆を入れて開眼を行いました。
その後白河院が、建久3(1192)年に崩御すると、頼朝が東大寺再興の最大の後援者となります。

3月12日、頼朝は大檀越として東大寺大仏殿の再建供養に臨みます。
供養には、後鳥羽天皇が行幸し、関白・九条兼実をはじめとする公卿も参列し、日本中の実力者が集まる盛大な行事となりました。

当日は大雨となりましたが、そんな中、頼朝配下の御家人が黙々と平家残党の襲撃を警戒して警備に当たる姿に貴族たちは圧倒されます。
供養は、鎌倉幕府の財力と軍事力を見せつける一大行事となりました。

上洛のもう一つの目的

頼朝5年ぶりの上洛は、南都での東大寺大仏殿再建供養を挟み、京への滞在期間がおよそ4か月の長期のものとなりました。
頼朝がこれだけ長く京に滞在したのは、再建供養と並ぶもう一つの目的があったからです。
それは、娘・大姫を後鳥羽天皇の后とする入内工作でした。
御台所・政子と大姫を上洛に伴ったのもこのためでした。

大姫を入内させるため、頼朝は後白河院の皇女の宣陽門院覲子内親王、その母で晩年の後白河院が最も愛した丹後局、宣陽門院の別当(後見人)源通親ら「宣陽門院派」に接近します。

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源通親

宣陽門院覲子内親王は、後白河院が残した最大の荘園群である長講堂領を相続しており、宣陽門院を中心とする人脈は莫大な財力をするとともに、後宮(宮中の奥御殿)に強い影響力を持っていました。

宣陽門院別当の源通親は村上天皇を祖とする村上源氏であり、清和源氏である源頼朝とは直接的な血縁関係はありません。
かつては親平家の貴族でしたが、後鳥羽天皇の乳母・高倉範子を妻に迎え、後白河院と丹後局に接近し、長講堂領の管理を任されたことで朝廷内の実力者となっていました。
しかし、故実先例を重視し、藤原道長の時代の摂関政治に返ることを目指す関白・九条兼実からは成り上がりの中流貴族と見下されており、両者は対立関係にありました。
(後鳥羽天皇と九条兼実については第2回を参照。)

頼朝は、3月29日に丹後局を六波羅の滞在先に招いて政子と大姫に引き合わせ、砂金300両をはじめとする盛大な贈り物(わかりやすい政治献金、賄賂)をする一方、これまで提携関係にあった九条兼実との会談は丹後局との会談の翌日に後回しとし、贈り物はわずか馬2頭のみでした。
頼朝は娘・大姫を入内させるため、朝廷側の連携相手を九条兼実から源通親に切り替えたのです。

頼朝は、兼実が宣陽門院派の力を削ぐために停廃していた長講堂領7か所の再興を働きかけ、兼実に認めさせます。
大姫を入内させるために宣陽門院派に恩を売る政治工作でした。


頼朝、京を去る そして……

6月3日、父頼朝とともに上洛していた嫡子・源頼家が参内し、後鳥羽天皇に謁見します。鎌倉幕府の後継者を貴族に披露するお披露目の機会となりました。
京に滞在中、多くの予定をこなした頼朝は6月25日に京を発ちます。十分な政治工作で、九条兼実を切り捨ててまで宣陽門院派に接近し、大姫入内工作にも手ごたえを感じていたことでしょう。
しかし、この時を最後に頼朝、頼家、大姫の父子3人は2度と京の地を踏むことはありませんでした。

次回予告

「建久7年の政変」です。1196年へと話を進めます。

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