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パンが嫌いなパン屋さんから考える「好きを仕事に」

仕事選び、というのは一筋縄では語れないものだなと思う。

一応、人の職業選択にまつわる仕事に携わり、最近キャリアコンサルタントなる資格を取得したこともあるので、そのことについて書いてみようと思う。

好きなことを仕事にするのがいいでしょうか?
という問いを学生からたまに投げかけられるが、一問一答的に反応するなら、残念ながら私は「人によりますかね」という月並で歯切れの悪すぎるこたえしか持ち合わせていない。

そこから価値観や背景を深掘りしてその人なりのこたえを一緒に探すのが自分の仕事であるのだが。


その問いについて考える時、いつも心に浮かぶ人がいる。

前の職場のすぐ近くに、ほぼプレハブ小屋といってもいい小さな建物の1軒のパン屋さんがあった。

やや建て付けの悪めな引き戸をガラガラっと開けると、扉から20cmくらいの位置にすぐカウンターがあり、愛想のいいおっちゃんが、にかー!といわんばかりの皺いっぱいの人懐こい笑顔で「いらっしゃい!何にする?」と聞いてくれる。

カウンターの向こうにはステンレスのパンラックがぎちぎちに置かれていて、焼き上がったパンがぎちぎちに並べて冷まされている。

客は店の外と中の間くらいの微妙な位置からほしいパンをコールする。
すると、おっちゃんがラックからパンをダイレクトにポリ袋に入れて渡してくれる。
まだ冷めきってないもんだから、ポリ袋は瞬く間に白く曇る。

パンとお釣りを渡してくれるおっちゃんの手はまさに職人の手。
「ありがとうっ!また来てや」とおっちゃんに送り出されながら、回れ右をして建て付けの悪い引き戸を閉める。

お世辞にも綺麗とは言えない、おしゃれ映えパン屋とは一線を画す雰囲気。
パンを焼き、パンを売るためだけに存在する昔ながらの風情あるパン屋だ。

長年この地にあると聞くので、おっちゃんはこの小屋で来る日も来る日もパンを捏ね、これまで天文学的な数のパンを焼いてきたんだろうかと思いを馳せざるを得ない。


近所の名店として、元職場のスタッフたちもよく利用していたのだが、ある日、同部署の先輩から驚くべきことを耳にした。

「あそこのパン屋の大将(おっちゃん)、パン嫌いらしいで!毎朝ご飯食べて、それからパン焼いてるねんて。ははは!!」とのことだ。

私は耳を疑った。
あの感じでパン嫌いて!

それはなかなかの衝撃だった。
あの店のパンはすごく美味しいし、私は勝手におっちゃんはパン愛に溢れているもんだと思っていた。

でも、よく考えてみればそれは普通のことである。
営業社員が全員自社の商品をめちゃくちゃ愛しているかというと別にそうでもない。
私の相方は攪拌機の製造メーカーで働いているが、ものを混ぜるということに対する執着はゼロである。だけど仕事が嫌いなわけではないようだ。

別に好きでなくても仕事はできる。
好き嫌いの軸を横に置き、報酬を得るためだけにだって労働は可能なのだ。
でも、パン屋のおっちゃんをその論に当て嵌めようと思うと、なんだか違和感が残る。

「好きを仕事に!」的な言説を目にする時、そこで言われる「好き」は、対象そのものに限定されすぎている気がする。
漫画、音楽、食べ物、スポーツ…たしかにそういう直接的な「好き」や、趣味を仕事にしている人はたくさんいるし、とてもキラキラして見える。

だけど、働くことにおける「好き」は、もっといろんな方向に延びていて、複雑だったり刹那的だったりするのだと思う。

もしかしたらおっちゃんは、作る対象であるパンが嫌いでも、「パンを作ること」は好きなのかもしれない。
また、「パンを売ること」が好きなのかもしれないし、少し飛躍して「パンを買ってくれる人の喜ぶ顔を見る」のが好きかもしれない。

少々おっちゃんを美化しすぎた気がするが、仕事のどの部分に「好き」を見出すかは人それぞれである。

さて。好きを仕事にした方がいいか。

それに対する一律のこたえは見当たらないし、現在就労している人の中で、仕事が丸ごと好き!と言える人はどれだけいるかは不明である。

だけど、仕事の中に一瞬でも「好き」を見出せることは幸福なことだと思うし、「好き」の解像度を上げることで、ちょっとだけ自分の仕事を肯定できることがあるかもしれない。

おっちゃんのことを考えると、働くことの奥深さについて思いを巡らせてしまう。
そして、久しぶりにあのふかふかのパンが食べたくなるのだ。

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