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街の歌をききながら

少し前の話ではあるが、東京日帰り出張を終え、自分の住む海辺の街に帰ってきて駅に降り立ち、体いっぱいに濃い潮の香りを吸い込んだ瞬間、安心のあまり不覚にも泣きそうになってしまった。

その日は東京のど真ん中でのちょっとしたイベント運営の仕事で、久しぶりに複数の人が集まる熱気や雰囲気に、充実感もありつつ相当気疲れしていたのだと思う。

仕事人としての自分がリアルでいろんな人と関わり合えることを喜ぶ一方で、
ぼっち体質の自分が「早くひとりになりたい!」と五月蝿く、ここ数年で人間の群れへの免疫が著しく低下していることを実感した。

どちらも間違いなく本音なのだが、31歳になってもなお、そんなちっぽけな自己矛盾に落ち込むのかよ自分。と、くたくたになりながら逃げるように約4時間かけて東京から帰ってきた。

そんな疲労感が一気に溢れ、夜の地方都市の駅で泣きかけているアラサーがひとり、である。


夏は海の匂いがいっそう濃くなる。


この街に引っ越してきて半年以上が経過し、そんなことを知った。

初めて過ごす海辺の街の夏は、
潮の匂いが濃かったり薄かったり
柔らいそよ風が吹いたり
大急ぎで突っ走ってるみたいな強風が吹いたり
毎日の変化が楽しくて面白くて仕方がない。

自転車が錆びるのも、網戸がベトベトになるのもちょっと誇らしいくらい、海辺の暮らしを愛している。

この街の匂いが、知らず知らずのうちに自分の「安心」のスイッチになっていたのだった。

ああ、私はここに住んでいるんだなぁ、
帰る場所になったんだなぁ、と漠然と思う。


脳みそのバッテリーが切れかけの、なんだかよく分からない気持ちになっていると、Spotifyのプレイリストから、くるりの『街』が流れてきた。

またくるりか。
京都の記事でも書いたが、やっぱり匂い×街といえばくるりなのか。

「この街は僕のもの」という岸田さんの衝撃的な叫びから始まる曲である。
サビの「飛び出して、お願い微笑んで」からいきなり長調になるところが大好きなのだ。

陰なのか陽なのかよく分からないごちゃごちゃした曲調にリアリティがある。
泣きたくなる。


そうして家路につきつつ、何曲か「街」というタイトルの曲を聴いてみることにした。

例えば、The Songbardsの『街』は、街ゆく人たちすべての孤独を肯定するような繊細で素敵な曲。
前奏からのギターソロに、ちょっとこってりめな哀愁がたっぷり。

また、密かに20年近く応援しているジャパハリネットの『街』だって、愛媛松山での活動にこだわる彼ららしい、街へのあたたかなまなざしで溢れている。
「街も自然も 人も陽の光も 陰になったり日向になったり」という無常観が良い。

『街』という言葉を冠する曲には、どうやら哀愁やあたたかさが通奏低音のように流れているような気がする。

そうやって土地と人間の間に何らかの感情が芽生えるのって、定住民族の我らならではの感覚だよなぁなんて思う。

<『街』という名のつく曲、おしなべて名曲説>
この仮説を検証するべく、もっといろいろと聞いてみたいと思う。

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