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仕事しないことにした


自分が読み返す用です。でも、後で読み返して、違うな、、、ということもあると思います。


私は劇作家であり、俳優であり声優でもありますが、会社の社長でもあります。自分のやったことの中でもとくにお金が行き来するような行為を管理する会社です。今のところ、社員は私と妻しかいません。私がどこかでお金を稼いで来て、妻が社会的な処理をします。二人が健康である限り、二人で十分な会社で、余計なことを考えなければ経営は設立以来ずっと順調です。


でもだから、二人が健康であることが稼ぎの大小よりもはるかに重要と言えます。100人の社員が50人になるならまだなんとかなりそうですが、2人が1人になるのは、どうにもならなさそうに思うからです。たくさん働きたくさん稼ぐことよりも、常に健康でいられる程度に働いて稼ぐことが社是となります。


健康でいるコツは、なるべく仕事をしないことです。仕事をすればするほど代償としてなにかを払うことになります。代償とは、多くの場合が健康と時間です。健康は精神と身体、両方のことです。思えば、20代の頃なんかは健康にも時間にも随分余裕があったのかもしれません。寝ないことで何かが侵されていても、別の何かで補うことができていたような気がします。侵されていることに違いはなかったのですが。よく荒んでいたように思います。


もう一つ、1人だったことが代償を辞さなかった理由のような気もします。代償を払いすぎた結果として、私1人が1人分減ったとしても、数字が0になるだけです。無かったことになるなら、私は正直気が楽です。でも、今はそうもいかなくなってしまいました。


もちろん、実は1人ではなかったのだと思っていますし、途中でいきなりいなくなることの申し訳なさも感じてはいる人間です。だから、途中でいなくならない努力として、人知れず手を抜くことを意識的に、あるいは無意識的にやってきたと思います。手抜きは1人じゃないから手抜きになります。1人で手を抜くなら、それはただのマイペースではないでしょうか。こっそりやっていたはずの手抜きがバレていたこともたくさんあったと思います。それを必要以上に責められなかったことは、周りに恵まれてきたということだと思います。


一方で、誰かが途中でいなくなっても、生きている側の人はそれなりに生きていくということも知っています。どんな手を使ってもとにかく繁栄するために生きていく装置が組み込まれている我々にとって、悼むことはあっても、じゃあ一緒に死んでしまおうということは、やはり少ないのではないでしょうか。事件や物語で取り上げられる頻度が多いくらいには少数派です。とはいえみんな生きていくのです。なので、いなくなる申し訳なさを抱きすぎないことも、健康でいるために必要なことじゃないかと思います。それは、生きる自由と死ぬ自由、どちらも同じだけ自分の内に持っているということです。


私は、もう少し、できれば長く、家族のこの先を見ていたいと思うので、生きる方を選ぼうとしています。見ていたいというのは責任感などではなく、明らかに好奇心によるものです。好奇心は肩に乗せてもあまり重くありませんので、積極的に選択できています。


そんなわけで私は最近、仕事をしないことにしました。


仕事をしない代わりに、字や絵や声や身体を使ってモノを作ったり、同じモノを作りたい人と話し合ったり、モノを作るためのトレーニングをしたり、家族の健康に役立つことをしたりしています。モノには、演劇や映画やドラマもあれば、落書きのようなもの、時間や場所といったものもあると思います。


とは言いようで、自分の仕事をただ抽象的に言い換えただけのことかもしれません。でも、言い換えることで見えてくることはあります。


どうやら私はいつもなにかを作っているのだと確認できました。そこに誰かがお金を出してもいいよと言ってくださって、それでようやく暮らせています。


ここで気づくのは、私がなにかを作らないと、誰もお金を分けてはくれないということです。逆になにかを作るとお金を分けてもらえます。だから、作るための準備やトレーニングに十分な時間とお金を投資しなければならないことがわかります。ここを渋ると、モノづくりの出力が落ちて、結果的に分け前をもらえる機会が減ってしまいます。


ということを理解した私は、じゃあもっとお金を分けてもらうために、もっとモノを作ろうか、と考えますが、これこそ失敗の元です。一見同じ行為のようですが、全く逆です。なにしろ順番が違います。お金が目的になってモノづくりが手段になるので、私のしていることはつまり、お金集めということになります。それは私にとって自然な順番ではありません。なにしろ私の暮らしには、先にモノ作りがあったのです。お金とはモノが連れてきてくれたお友達で、私からすると、友達の友達くらいの関係なのです。友達の友達と懇意になるために、元からいた友達を飛び越えて連絡を取るようになっては、幾らかの軋轢が生まれるのは仕方のないことに思われます。


こんなことはなんてことない言葉の綾です。でも、言霊というのもあります。言葉にすることで、人は自分にすら操られてしまいますし、逆に冷静になることもできます。


お金をいただいてるんだから辛いことも我慢するとは、見方を変えれば随分がめついような気もします。お金のためならどんな我慢だって辞さないわけですから。お金のために人を陥れる者は確かに随分な奴ですが、お金のために自分を陥れるのも随分な人だと思います。


私も、そういう人だった時があったはずです。自分のため、会社のため、家族のためだったかもしれません。今だって、背中から見ればそうかもしれないので、丁寧に見極めなければなりません。仕事をしないとは、そういう意味で、大変なことだなと思います。


そうすると、noteに無料で「走り書き」を掲載することと、たくさんのお金を分けてもらえる誰かからの依頼とは、同じ地平に差異なく並んで存在するモノということになります。責任がないから楽しめるわけでも、お金をもらえるから頑張るわけでもない。どちらも同じ、モノづくりであるはずなのです。


とは言え、そこに付随する様々な条件によって自然と差異は生まれてしまうでしょうから、それをいくらか少なくする工夫、トレーニング、知識が私には必要だと考えます。


同時にいくつかのモノを作っているところに、さらに「走り書き」を加えたことには、そういう意図があったのかもしれません。目的はないと決めて始めた「走り書き」ですが、そこに、なんらかの支配からの脱却を目論んでいたことは「走り始めたことについて」https://note.com/kiyasukohei/n/n04926bbd81e7に書いています。


今なにかに取り組んでいる自分がいる。その自分はどこかの側に偏っていないだろうか、あるべき順番を無意識に組み違えていないだろうか、そういうことを診断するために、これまで仕事だったものを解体して、仕事ではないとすると同時に、そもそも仕事とは言えない行為を暮らしの中に取り入れて、常に比べてみようとしたのかもしれません。


「走り書き」がやたら楽しい時は、他方のモノづくりで抱える責任感などに重みを感じ、逃避をしている可能性があります。逆に「走り書き」が妙にしんどい時は、好奇心が薄らいでいると分析できます。なんでもいいのになんにも出てこないことには、自分の好奇心を探ってみる必要があります。これは夕食の献立なんかにも言えると思います。


好奇心はかなりの良薬で、どこかに向けたそれが全然違うところにも良い影響を与えます。夕食の献立、食事への好奇心が湧いてきたなら、それは自ずと別のところへ波及します。「走り書き」に対する好奇心すら薄らいでいるというなら、「走り書き」以外のモノも苦戦するのは当然です。


好奇心への対処として私は手帳を使っています。微かなそれを忘れないように記録するというのが、なんとか保つために見つけた方法です。タスクに追われると自分の中に灯った微かな好奇心を、うっかり忘れてしまうことがよくあります。


「走り書き」が楽しみなのと同じくらい他方の依頼が楽しめていて、「走り書き」する暇も無いというのなら、それはとても良い状態と言えます。他方の依頼の方が、諸条件が発生しがち、ひいては、なにかに邪魔されがちだからです。それを楽しみが凌駕できているなら、どんどんやらせた方がいいはずです。


他方の依頼があまり進んでないから今日は「走り書き」をやめて集中しようというのは、あまり良い考えではありません。進んでないのに集中しても進むわけがないからです。進まない理由を見極めることが肝要です。実は、ただめんどくさいだけ、ということだってあるはずです。だったら、その中でも一番めんどくさくないところだけ手を動かしてみるよう、自分を説得します。これが一番めんどうではあるのですが。でもそれができれば、無理に集中しようという考えは薄らいでくるはずです。


こうしてモノづくりする自分を俯瞰したり、中に潜り込んだりして、「走り書き」を含む全てのモノづくりに差がない状態を目指そうとしているのかもしれません。どれも仕事ではないのだからできるはずです。こびりついた意識を剥がすことは実に大変ですが。


なんで差がない状態を作りたいのだろうかというと、その差が邪魔だからです。さっきも書きましたが、諸条件がついてきます。お金のために、あの人のために、待ってくださっているお客様のために、いつかの自分へのリベンジ、質とか評価とか賞レースとか。そういう、モノづくりについてくるいくつかのお友達が、モノを作る最中だけはどれもそこそこ邪魔なのです。友達と遊んでいるときに、その友達の友達のことを先に考えてしまっていては、友達をガッカリさせてしまうだろうということかと思います。とくに、質を問わないというのは勇気がいる考えですが、今から本気になれば質が上がるということは絶対にないので、そもそも今ここで急に質なんて問うても仕方がないのです。本気でも普通の時でも、その時出したそれがその人の全てです。


そんなわけで、僕にはモノづくりよ、キミしかいないんだ。としたいわけですが、それもどうも重たいように感じます。友達が1人である必要はありません。むしろ、友達が複数いることで、人生が豊かにもなります。と言って、多くいる必要はありません。でも、1人の友達に、映画鑑賞もキャンプも旅行もグルメ探訪もオンラインゲームも恋愛相談も、全部期待するのは、その友達だって壊れかねません。だから、私の場合は複数の友達と遊ぶように、並行してモノを作るようにしています。


1人でいてもなんとかモノを作り続けていたと思いますが、家族や会社を持ったことで、モノを作ることについて再考する機会が得られました。感謝しています。おかげで、何度も何度も小さなアップデートを繰り返しています。それはつまり不具合も多いということです。いつか、いやいや仕事というのはね、やっぱり仕事ですよ!となっていても、今度はそういうアップデートかということで受け流してください。


さて。これを書いておいてから、今からある依頼の件に取り掛かります。この依頼も「仕事ではない」のですから、「走り書き」のように行けるはずです。「走り書き」なら1時間で5ページは行けるからなあ…。しんどい時でも4ページ…。依頼の件だからと言ってそこを1時間3ページと見積もるのはよくないですよね。差がないなら1時間で5ページ。だめでも4ページ?うん、いけるいける。で、それを1日1時間?15日続けたら大体70ページ?え、それもうすぐ脱稿じゃん。やばヽ(´▽`)/


最後のはモチベーションを上げるためですからね。けっして間に受けないでくださいね、依頼をしてくださる人たちね。

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