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昨日の世界

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文章を書くこととアイディアを出すことを毎日するために、 #昨日の世界 を書き始めました。Wordleを解いて、その言葉から連想される物語を、解くのにかかった段数×140字でその日…
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2022年9月の記事一覧

私と私と私と違うもの

私が出社すると、すでに私が来ている。 「おはようございます」 「おはようございます」 私の部署の部屋の鍵を取り、扉の前に行くと私が待っている。 「おはようございます」 「おはようございます」 私と一緒に私は部屋に入り、パソコンの電源を入れる。そうするうちに、私が出社してくる。 職場には選ばれて入ってくる以上人と人とにどこかしら共通したところがあるのはもちろんだが、むしろ違いが年齢や性別や性格などのヴァリアント程度に過ぎないと気づいてから、全ての人が私に見えるようになった。会

花の匂いが苦しくて

花粉が舞い上がる映像はご覧になったことがあると思うけど、匂いがそうなってるのは見たことがないでしょう。実際には見えないのだから仕方がないけれど、私には見える、というか見えるようになった。なぜならばそれで害を被っているからだ。どんな害かって? 鼻腔を火傷してしまうのだ。 火傷をするのは花の匂い(香りなんて言ってやらない)だけで、ラーメンとかガソリンとかトイレとかの匂いでは火傷をしない。花から出る「何か」に過剰に反応してしまうらしい。お医者さんに診てもらっても花粉症と同じ扱いを

和菓子屋2代

「わしは断固として認めんぞ。」 お父さんがカウンターを拳で打った。また始まった。 「この店をどこの馬の骨とも知れんやつに渡すわけにはいかん。」 「お父さん!」 お母さんが割って入る。 「もういい加減になさいよ。好いたもの同士でしかもお菓子職人なんだからいいじゃありませんか。」 「職人て言ったってあちゃらは洋菓子じゃないか。」 「パテシエですよ。」 「パティシエね。」 姉はこういうのに必ず突っ込む。 「うちの店が饅頭だけじゃなくてフイナンセなんかを置けるようになったのは維さん

家電ラヴ

「あなたとはもう暮らしていけないわ。私、濡れてはいけないんですもの。」 ガスコンロの一言に洗濯機は慄いた。 「そんなこと今まで言ってなかったじゃない。」 「と言うかなんで気づかないの!」 炎が一斉に3つ上がった。 「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。」 「やさしく洗うを点滅させないで!」 「できるだけ水は流さないようにするよ、約束する。」 「本当は流したいくせに。知ってるんだからね、この間こっそり珪藻土のバスマットに排水口から…」 「ち、違うよ、それは誤解だよ。初めてだ

ペリカンの話

「いいですね、大きいと、ゆったりと空に浮かべて。」 キラキラとした目でウミウに見つめられると悪い気はしない。 「まあ、そうは言っても、浮かぶことのできる高さまで行くのは大変だし、のんびりしているように見えても、バランスを崩したらひとたまりもないから、ヒヤヒヤしているんです。」 「ほんとだよ、横にいるこっちまでヒヤヒヤするんだから。」 そう茶々を入れてきたのはカモメだ。こいつは人間が魚をバラした時に投げる内臓や何かを僕と争って負けたから、腹いせにそういうことを言うのだ。 まあ

居心地

橋の上から谷間の清流を見ていると、ここが市街地から30分ほど自転車で走ってきたところだとは信じられない。そのまま川沿いに下っていくと木々の間から小さな滝が見えたので止まって写真を撮った。横を装備を整えた自転車の群れが走り抜けていく。長い距離を走ってきたのが見てとれる。 またゆっくりと坂を下って行くと大学のグラウンドに出る。そこからはなんとなく馴染みのある景色だからちょっとしたお出かけも終わった気分になる。でも、帰ってきた気にはならない。やっぱりこの街に受け入れられてないと感

顔を合わせたくないのは

「健太同窓会出んの?」 「出ないけど? 武は?」 「出るよ。全然会ってないし」 「ふうん」 「健太出たら?」 「いや、いい」 「どうして?」 「聞くなよ」 「いや、聞くでしょ」 「飯来るの遅くない?」 「何それ、下手くそなん?」 「は? 別に何にもねえし」 「明美は商社に決まったんだって」 「え、それ、すごいよかったじゃん」 「ああ、うん」 「すげえ苦労してるって聞いたけど、そうでもなかったの?」 「いや、全然知らん」 「え、じゃあ、今のはなに?」 「いや、気にしてるかなっ

ある男

人を一人殺して好いた女と一緒になった。長屋を移って慎ましく暮らしていたから誰にも気がつかれない。江戸から出ないのが良かったと思う。八百八町あればその中に身を潜める方が知らない土地へ行くよりも安心だ。追手が気にならない訳ではないから、それで日々の小さなことで喜べる。 筵の上に座って首が落ちるのを待っている。不思議と後悔は無い。女だけでも逃がせたから良かった。そもそも女には何も悪いところはないのだから。全部が俺がやったことで俺が死ぬことでしか完結しないのだ。そして、ここから地獄

聖別

夕暮れの街を歩いている時に突然聖別された。道行く人の顔が一つ一つ私の中に入り込み、今の気持ち、抱えている悩みなどが手に取るようにわかるようになった。一瞬のことだったので自分でも気づかないくらいだったが、誰もがもはや他者ではなく私であることに気がついた瞬間に全てを悟ったのだった。 「なのに!」と私は思った。「なのに! 私は誰をも救うことができない。私は何でもない。この世界に対しても、神に対しても!」 天を仰ぐと太陽はビルの向こうに消えていくところだった。私は太陽に呼びかけた。

夏の夕暮れの埠頭で愛を叫ぶ

夏の夕暮れの埠頭で、彼女を前にして、大きく息を吸い込んで(序奏)「好きだ!」と叫んだ。(第1主題) 彼女は空を見上げた。「ねえ、空の色が変わるのって、虹の色の順番なんだって」(第1主題の展開) そこに、街の方からあいつがやってきた。「ちょっと待った! 俺だって彼女が好きだ!」(第2主題) 彼女は空から目を離さずに言った。「太陽光の距離が昼間より長いから、青い光は散乱して、赤い光が残るんだよ」(第2主題の展開) 「好きだ!」とまた叫んだ。(第1主題の簡易な再現) 「俺だって好

かわりばえのない日々

ある会社員がいる。毎朝電車に乗り朝礼を聞きランチを食べ仕事をし電車で帰り妻と夕食を食べ寝る。「ある日、会社員は思った「同じことの繰り返しに何の意味があるんだろう?」」。完璧な出だしだ。でも、問題は同じことにあるのではなくてちょっとずつ違うことにある。それに彼も作者も気づかない。 家を出るのが少し遅くて一本後の電車になる。電話を回そうとして話しているのが誰かを聞きそびれている。昼休みに行くコンビニで買うお菓子が売り切れている。ぼんやりして自転車に轢かれそうになる。イレギュラー

どれもみんな些細なこと

ある星が消えた。星の中で生き物たちが醜く争いお互いを殺しあった挙句に自分達の住処である星そのものを消し去ってしまったのだった。その星がある宇宙が膨張しきって収縮している途中に、ようやく星からの最後の光が宇宙の果てに届いた。宇宙の外にいるものは「ああ、星が一つ消えた」と言った。 ある人が死んだ。社会の荒波に揉まれ日々の生活のために戦い抜いた挙句に自分で自分の存在を消し去ってしまったのだった。その人がいた部屋から異臭がし始めた時に、ようやく隣の部屋の人が気づいた。管理会社が呼ば

スティック・トゥギャザー

行きは手を引かれて、帰りはレジ袋の持ち手にしがみついて、土日はスーパーに買い物に父と買い物に行っていた。まだ小さかったから手を離してはいけないことになっていた。でも、走りたい。 「お父さん」 「うん?」 「ヨーイドン! …ねえ、ヨーイドン! ねえ!」 そう言っても父はのんびり歩いている。 「お父さん!」 「ヨーイドン!」 この、急にスイッチが入って走り出すのが好きだった。今考えると危なくない道を選んで走っていたんだと思う。 手を繋いだまま走るから追い抜けないけれど、少しでも

流れに乗って

小さい時に、土日には自転車に乗って父と大きな公園まで行った。そこには大きな岩が組んであって、その口から水が流れ出て水路を作っていた。当時は水路の中に入ることもできたし、岩陰に潜むアメリカザリガニを釣ることもできた。(大体は釣れなかった)。でも、一番楽しかったのは笹舟を流すことだ。 何かが流れの上を漂いつつ流れていくのを見るのが好きなのはこの頃に養われたに違いない。新しく住んでいるこの町には家の脇の側溝が用水路に集まり、さらにそれが集まって川に流れ込むようになっていて、土日に